見出し画像

空堀の記憶~戦後の商店街~

(空堀の記憶14夜 2021年10月15日)
桃園連合会長でもあるUさんを中心に近所のバイク屋のIさんや鰹節丸与のOさん、薬剤師のSさんなども時折お話に加わりながら賑やかなひととき。

※2023年現在、Uさんはお体調を崩されつつもまだまだお元気です

画像2

さて、Uさんは昭和10年9月生まれの現在86歳。
定年退職後から町会役員になり、町会長を経て、現在は連合会長として14年目。この空堀の記憶を主催する空堀井戸端会の理事のひとりでもある。


商店街のお寿司屋さん徳兵衛

Uさんの生家はおじいさんの代から始めた空堀商店街にある徳兵衛というお寿司屋さんだった。当時のお寿司屋は、いわゆる江戸前寿司ではなく、押し寿司、巻き寿司などで保存食としての位置づけ。冬場は蒸し寿司もやっていた。蒸し寿司はその名の通り、寿司を蒸しているもので、具材はアナゴやエビ、錦糸卵など。鰹節屋のOさんも「徳兵衛の蒸し寿司はよく買いに行ってたな~」とのこと。

Uさんのおじいさん、おばあさんは、男児に恵まれず、姪であったUさんのお母さんを養女とし、結婚のときにUさんのお父さんが婿入りされた。おばあちゃんっ子だったというUさんは、商店街の西の方にあるおばあちゃんの家にしょっちゅう入り浸っていて「実の孫じゃないけど、おばあさんはかわいがってくれた」とのこと。

その後、徳兵衛は3代目となる弟さんが引き継がれたものの、あえなく廃業となる。そして、、当時の生家は別の方の手に渡り、そこは蔵も井戸もあった家で、井戸が枯れたけど、蔵は現存している。

空堀商店街の地図と思い出話

Uさんが、空堀の記憶で話をするに当たって戦後から昭和30年頃の空堀商店街の地図を描いてくれたものが下の写真。そして、一つ一つ覚えておられることを細かくお話しをしてくれた。

画像1

当時の商店街といえばすべての生活用品が揃う場所。
魚屋さん、寿司屋さん、豆腐屋さんは何軒もあった。
風呂屋は、いちょう湯、金時湯、児玉湯、桃谷湯ーとあったなぁー。
空堀商店街の道はレンガだったから馬がよく滑っていた、谷町筋は狭かった!安堂寺は木レンガだった、などなど。

終戦後しばらくは営業してる商店街が空堀か黒門ぐらいしかなかったから、空堀商店街が今の何十?何百倍の人出だった。
特に年末の人出は凄まじく、商売人はみんな徹夜だったのでは?と。Oさんからも閉めようかなと思ってた元旦朝4時に雑煮の出汁を買いに来た閉店後の商売人がいてたな~
とか、
大晦日に「これからパーマ屋さんいくねん」っておばちゃんおったなーと理事のNさんも。

昭和2,30年代といえばまだ冷蔵庫も普及していなかった頃だからこまめに買い物に行ってた頃でもある。と、すかさず「氷屋さんってなかったっけ?」の声(笑)

Uさんの描いてくれた地図を見ると今も残っているお店はずいぶん少なくなったな、という印象。さらに引き継がれるお店はもっと少ないだろうなぁ〜と一言。

小学生だった戦時中

Uさんの少年時代のお話。戦時中は親戚を頼って(お父さんの実家)八尾に疎開しており、小学生の大半は疎開先で過ごしていた。空襲の日には大阪市内が真っ赤に燃えている様子が見えたそう。

大阪空襲の日、空堀にいてたOさんからも焼夷弾が近くまで飛んできた!空襲で中寺町、下寺町もすっかり焼けていた。道路や庭に防空壕を掘った話など盛り沢山。戦後すぐにお嫁に来たSさんも松屋町から西はほとんど建物がなかった、と話しておられ、戦争の話は何度聞いてもドキドキする!

そして、小学校6年生の秋に桃園小学校に戻ってきたUさん。(小学2,3~6年の夏休みまで八尾だった)

その後、中学・高校への進学は、「上宮を勧められたけど、ボウズ頭が嫌だったから(笑)」と、餌差町の明星学園を受験し、通っていたとのこと。校舎は建て替わったけど、学校の場所は今と同じとのことで、通学は歩きで。
制服は今と変わらず詰襟の7つボタンで、家から徒歩20分くらいだったかな〜と。

全国を飛び回るサラリーマンの頃

大学は家業は継ぎたくないから、と薬科大学へ行き、薬剤師の資格も取ったものの、薬局では働かず、道修町にある製薬会社に就職。

いわゆる営業マンとして北海道から名古屋、大阪、北陸、中国四国、広島、、と転勤に出張が多く、全国を飛び回る日々。
Uさんがサラリーマンになった理由は、子どもの頃に家が商売してたから家族揃って食事することがないのが嫌だったから、だそう。でも結局出張であんまり家にいなかったし、家業を継いでもよかったんかな~とつぶやきも。
ちなみに、現在もお住まいの路地の長屋は結婚を機にお引越しされたそうで、50年以上お住まい。路地の住民で、お稲荷さんのお祀りを毎年3月にしている。私の友人がUさんと同じ路地に住んでいて、「みんなで買出しに行った」と話しており、こういうおまつりごとがあると近所の人と話しやすくていい路地だな~という印象。

定年後に地域活動に関わるように

定年となる60歳で会社を退職すると、どこから聞きつけたのか、近所の方から「町会をやってほしい」と声を掛けられる。町会長を経て連合会長になり、現在に至るそう。

地域の様々な会議に出席され、地域の情報収集には事欠かず、されに大病をされてきた体とは思えない元気な方!

桃園連合では、「桃園まつり」「ビアガーデン」「もちつき」をずっとやってきましたが、コロナ禍で2年ほどお休みしているけれど「来年はやるぞ」と意気込んでおられた。(写真はビアガーデンの様子♪)

画像3
画像4

とはいえ、現在のお悩みは「地域活動の後継者がいないこと」今は共働きだし、定年も延びているから仕方ないけど、、、と。それでも、我こそはという桃園の方はぜひに!

サポートいただけると大変うれしいです! 空堀のお店に貢献するために使いたいです。