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貿易記念日

 フェリックス・ガタリという精神科の医者に
哲学者のドゥルーズが出会ったのは、ちょうど私の生まれた年
1968年のことである。この2人の共著で「アンチ・オイディプス」を書く。ドゥルーズ=ガタリの誕生だ。大学に入った頃は、まさに現代思想という一種のジャンルが流行っていて、ネオアカディズムが全盛期で、私はミーハー的に飛びつき、そしてこの「アンチ・オイディプス」を手にすることになるのである。
●アンチ・オイディプス
 今日はフランスの記事からこの本についてふり返る。

Les identités collectives, celles des communautés et des cultures, sont désormais aisément assimilées à un enracinement ontologique sûr, là aussi confinées aux frontières de leur nom propre, sur lequel jamais elles ne constituent un excès, à la façon d’une essence intemporelle et immuable persévérant dans son être. Le rapport antagoniste entre Blancs et Indigènes est alors le nœud obsessionnel de cette rhétorique qui, prise dans son versant naturalisant dit en substance que l’Occident, en tant qu’essence, est le responsable de tous les maux dont le monde actuel a hérité. Sa raison serait par exemple la conceptrice même, en tout temps, d’un mouvement d’appropriation expropriateur déchaîné, dont les oppressions coloniales, patriarcales, racistes, financières, ou militaires qui en découleraient, seraient les propriétés intrinsèques et exclusives de son être face auxquelles la pureté autochtone, pourtant par nature dépourvue de ces qualités démiurgiques, n’a pu que céder à force de violence et de corruption.
●un mouvement d’appropriation expropriateur déchaîné
   荒れ狂う収用人の占有という動き
 西洋が先住民に行った暴力(植民地的、家父長的、人種差別的、財政的、または軍事的抑圧)を指す。
●démiurgiques  デミウルゴスの・・・プラトンの”ティマイオス”に出てくる神 職人的創造(無から有をつくるのではなく混沌に秩序を与えるというやり方で創造したとされる)西洋はこうした創造でなく、暴力と腐敗によって植民地を支配したとしている

 「アンチ・オイディプス」の副題には、”資本主義と分裂症”という副題がついている。現代思想のデミウルゴスとして日本にはネオアカデミズムがあり、その旗手の浅田彰が「逃走論」を書いた。マルクスの赤はアカデミズムに変容してさまざまな土着(autochtone)と習合し、再び資本主義的なるものに敵対する。その敵対のコーラ(受容体)となったのが分裂症である。
資本主義を免れた者としての分裂症なのだ。
 この分裂症を持ち出す前に、欲望する機械という概念について説明が必要だ。フロイトは、エディプス神話の構造を人間の心理にあてはめた。それは父なる者への強い嫉妬心が抑圧されているとするのであるが、ドゥルーズ=ガタリはこの抑圧を解放する。ここで「欲望する機械」が出てくるのだ。乳房と接続される口吻、肛門と接合するオムツ、外部装置に接続されたネットワークシステム(機械)としての乳児の状態を指す概念なのである。フロイトにおいて対象の欠如として現れる欲望を、欲望=機械として置換したのである。この乳児の段階から器官なき身体に移行していくのであるが、(この”器官なき身体”の話は来年また書こう)
 分裂症はある種の抑圧されたものによって生じた病であり、抑圧したのは資本主義だとドゥルーズ=ガタリは考えた。逆にいえば資本主義というものは欲望を内部に溜めてしまう欲望機械であるといったのだ。
 そして分裂症は、普通の人が抑圧に服従して引っ込めてしまう情動に対して自由である。「オイディプスは、この置換された、あるいは内在化〔内面化〕された境界線なのである。欲望は、この境界線に捉えられることになる。」

●難解な書
 ともかくも、もっと違う書き方でこの本は書けるのではないのか、と考える。ドゥルーズはいちいち概念マニア過ぎでガタリは機械フェチすぎだ。
また、ネオアカデミズムもそれなりに力を持ったものの、やはり資本主義のコマーシャリズムに飲み込まれてしまったように感じる。「朝まで生テレビ」になんて出てる場合ではなかったのかもしれない。もっとどうでもいいことを書いてしまったが、この本を貿易の日の今日に、この本について、書き直すことを考えることで、資本主義が人間の精神にもたらした暴力性・恣意性を暴き、本来の意味での人間の欲望の復権を果たしていければ、と思っているのである。「アンチ・オイディプス」については、また多方面からふり返ることにしよう。

●貿易記念日
 今日は、徳川幕府が鎖国政策を改め、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ロシアの5か国に対して、横浜、長崎、箱館(函館)の3港での貿易を許可することを公布した日に由来する。
 明治維新に向かっていくのだが、それは列強国に資本主義を植え付けられた瞬間でもある。ここで、英国と清とインドで行われていた三角貿易を思い起こそう。極論をいえば、ひとつの国の利益だけを考えた場合、資本主義の価格競争は、人件費の安い植民地が必要だ。それはある種の暴力以外の何物でもない。賃金格差を利用した経済的な植民は今も続いているといえる。
 しかし、「アンチ・オイディプス」を引用して始まった文脈において国家という概念を持ち出すには慎重さが必要である。現在ではGAFAに代表されるように国家のコントロールから逃れて、多国籍な組織を形成している事実上国家を超えた存在ともいえる企業も活躍している。欲望の機械は、国家に対しても牙をむくのだ。事実「アンチ・オイディプス」の解説ともいえる「千のプラトー」にもこうしたことが書かれている。こうした状況の中で国家が経済活動にかける関税なるものは、もはや”足かせ”でしかなく、それ自体が、政治的な腐敗や抑圧の根源の一つになりかねない。すると貿易自体はどういう欲望機械なのか。。。いろんな試みがあるが、例えば、違法ではあるが海賊を器官なき身体への抵抗として捉えることも可能(海賊と資本主義)なのである。つまり合法的な海賊という存在の想定(多国籍企業のような)が国家圧力や資本主義からの逃走のきっかけとして使えるのかもしれぬ。
 ●ニワトリの日
毎月28日はニワトリの日である。私はミャンマーに出張にいったときに、ニワトリや犬(野犬)を首都ヤンゴンのいたるところで見かけた。
ここで過去記事をみてみよう

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2019年の2月3日の節分の日に書かれたものである

陶潜の雑詩に
時に及んで當に勉勵すべし
歳月 人を待たず
とある。有名な文句を嫌な想い出とともに
覚えている人もいるかもしれない。
年の開けたのが昨日のようだがもう節分だ。
最後の1句を時の流れの速さを憂い
どんどん時間が経っちゃうのだから
勉強せよみたいな、急かされ方をした。

帰去来辞を詠んで
田園風景に帰ろうとした五柳先生の割に
厳しい一面もあったのかしらんと
訝しんでいた。

意味が違うのである。

それは、この前の数句を読めばすぐに了解できることである。
斗酒 比鄰を聚めよ
盛年 重ねては來たらず
一日 再びは晨なりがたし
酒を一升と近所の人を集めて飲もう。

来年はまた違う年になるし、
一日だってそうだ
というほどの意味で冒頭に掲げた詩句に続く
つまり、
時に及んで當に勉勵すべし
は、すきあれば飲もう
という、酒呑みの言い訳みたいな意味となる。

でも、これでやっと五柳先生らしくなった。
学校教師からしてこの句の意味を間違えてる。
詰め込み教育の弊害なのか?
背景もクソも無視して部分だけ取り出して覚えるから詩句の鑑賞どころではない。
決して学生が見習うような意味ではないのだ。

もっと怖いのは、急かすような読み方になってしまうイデオロギーの方である。

これでは漢文なんて習う必要がない。
中国の先人の知恵を明治になって捨てたのだろうか?
そもそも節分だからお節料理を食べる。
そう、旧暦の正月だからである。

除夜も、悪や穢を除くからこの字。
そう、だから豆を撒くのだ。
あれ?なんでキレ気味なんだろ、僕(笑)。
教養とはたおやかに生きる技なのに
効率や形だけを求めてしまうと
心を亡くして忙しい思いをする。

日本の今の正月も節分も心がないように感じる。
豆や恵方巻きを売るのもお節を売るのも
商売だからだ。

心が荒ぶのは日本の現代だけでない。
古(いにしえ)の中国の官僚生活もそうだった。
たから、五柳先生も
田園に帰ろうと思い立つのである。

その心を詠んだ
"園田の居に帰る"
の中に次の二句が見える

狗は吠ゆ深巷の中
鷄は鳴く桑樹の巓

ゴミみたいな役人生活に見切りをつけて
五柳先生が目指した風景の中に
ニワトリや犬がみえる。

そう、老子である。
老子が理想国家を描いた
"小国寡民"の中にみえる言葉である。
狗と鶏は、漢詩の中のパラダイム、

鶏は鳴く高樹のいただき
犬は吠ゆ深宮の中

と中国の古詩で詠われているのを
陶潜は文字ったのだ。

幼少の時に近所の公園で鶏がいたし、
永井荷風を読んでも明治の頃の東京でも野犬がうろついた記述を見かける。
鶏は養鶏場で飼われ、
犬は鎖で繋がれて、都会から追放された。

商業的な形式優先から
人間のゆとりを追放していないように
見張るのは、私がジジイになったのではないかなと、
憂いをもって迎える節分である。

ここで老子の”小国寡民”の引用について

使有什伯之器而不用。
使民重死而不遠徙、雖有舟輿、無所乗之、雖有甲兵、無所陳之。
使民復結縄而用之、甘其食、美其服、安其居、楽其俗、隣国相望、鶏犬之声相聞、民至老死、不相往来。
●国民が昔ながらの生活をし、食事や着ている服、住んでいる家や習慣に満足をしている。このような環境下であれば、例え隣国が目と鼻の先ぐらいの距離にあったとしても、国民は自分たちの国に満足をしているので、わざわざ他国まで出かけて行くこともない。結果的に、他国と比べることがなくなり、自分たちに無いものを求め、自分たちよりも持っている人たちを妬み奪おうとする心が芽生えなくなる。また、領土を拡大しようとする欲求も生まれない。そんな世界が理想である。

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してみると、貿易と”とりたて”ることは無用に思える。”隣国相望む”だけでよいのである。近年、インターネットや交通手段によって物理的にまたは仮想的にも距離が縮まったのだから、相望む隣国が増えただけのことだ。概念ごと消し去る方が、老子の意にかなっている。ともいえるが、もっというと隣国自体がいらないのだ。多国籍企業が海賊となって経済的に国家間を超えた権力を持ち続け、他国を羨ましがることがなくなるっていうのは老子の思いに沿うのかどうか。。。そんなところも考え続けたい。
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<来年の宿題>
・アンチ・オイディプスの読み込み
・海賊の模索
・GAFAの問題点
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