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映画を小説のように読む(Ⅱ)危険なプロット/フランソワ・オゾン

 ボクの今の読書方。偶然、自分の前に顕れた機会を使って本に出会う。無理はしない、計画も立てない。出会ったらまず自分なりの接線を引き、切り込み線の可能性をさぐる。だめならすぐに放棄する。少しでも入ったら、そこを手がかりにどうにか読んでいく。できるだけへらっと読む。最終、愉しみで読む、読むことが愉しめるように…。真剣に読み、分析するのは、職業的読み手の仕事だ。いまからそんなことができるわけもない。ボクが本を読むのはあくまでも愉しみ。どれだけ浸れるか。自分を侵食してもらえるか。その感想文を書いているのは、そしてそれをNoteというローカルメディアに書いているのは、読む動機を立てておくためだ。ボクの読む能力は低いが、書けば若干でもすすむ。思考を読書にフィードバックしていくと読書が少し愉しくなる。
 幸い、本と格闘してもがいているここ一、二年のボクの惨状を見かねて、[偶然]のようにしてボクの眼の前に本を差し出してくれる人がいる。何人も…。それでどうにか読書を繋いでいる、生きててもいいかな的な気分を持続させている。最近、映画『危険なプロット』を薦められた。「今、やっていることに近いという予感がするから。見てない映画だけど…(笑)」と。著名な精神科医の映画コラムに書かれた一本らしい。ネットにあったのですぐに見る…何だかフィットする。『危険なプロット』にはいくつかのプロットが複層的に流れていて、それが複雑に編まれていが、今やっている[もがき]にどのプロットにもぴったり重なる。
 一つ目のプロットは、小説を書くために読まなければならない本についての流れだ。リセの国語教師ジェルマン(ファブリス・ルキーニ)が、ふと出会った生徒の才能に、ずるずると引き込まれていく物語/プロット——クロード(エルンスト・ウンハウアー)の作文に小説指南を施す。映画の中で、教師がこれを読めと言って自分の本を少年(クロード)に貸す。それを順に書いてみると…チェーホフ、ディケンズ、フローベル『ボヴァリー夫人』。チェーホフ、ディケンズは具体的な本名が出てこない。別の場面では、カフカ『万里の長城』フローベール『純粋な心』ムージル『テルレスの惑い』が手渡される。ここ2年、もがきながら文学を身体に入れるための読書をしてきた。文学入門、小説入門いろいろ読んだ。それを元に、フローベール『ボヴァリー夫人』、プルースト『失われた時をもとめて』を中心にフローベル、プルーストを読み、何となくディケンズは読んだ用が良いのだがパスして…ネルヴァルとかホフマンとかも…に行ってぶらぶらしていた。カフカは『夜想#カフカの読みかた』の編集を機にほぼ読んだ。今はチェーホフ全集を読んでいる。『ワーニャ伯父さん』から『森の中』『隣人たち』『六号室』『サハリン島』と渡って…今は、サハリン島にいる。しばらくは[サハリン島]でもチーフをさがしている。さて、『危険なプロット』小説教室読本の中で、ムージルが未読。『純粋な心』も未読。映画の中に出てくる参考図書は、正しくモダニズム文学の成立軌跡を順に追っている。小説を書けるようになるには、小説を書き写せば良いという人もいて、確かにかなりの確立で手は進化する、はず。で、時おり本の数行写したりもする。ボクの場合は、思考訓練/読書訓練。未読のムージルを読むことにする。ムージル『テルレスの惑い』は、『寄宿生テルレスの混乱』(光文社古典新訳文庫の丘沢静也訳。カフカの朗読の時に丘沢訳にお世話になったので縁起をかついで…。)で読むことにした。丘沢さんが解説で、速読をすすすめていたので、久しぶりの速読をトライして見る。なのでこの文章を書くのを二日中断した。二日で読み切る。

(二日間の読書____________)

 『寄宿生テルレスの混乱』というタイトルに丘沢さんが訳した『テルレスの惑い』は、たしかにモダニズムの代表的作品としてカウントされているので、間違ってはいないのだが…他で上げられている本とは異質である。幾多読んだ入門書でも、ムージルはでてこない。代わりにコンラッドが入っている本が多い。『寄宿生テルレスの混乱』のプロットは映画『危険なプロット』のプロットと重ならないだろうか…『危険なプロット』はファン・マヨルガの舞台戯曲を原作にしているが、シナリオも舞台も見れていないので、どれほど原作が映画のシナリオ/プロットに組み込まれているか分からない。でも…『テルレスの惑い』は使われている。(間違っているかもしれないが)。ムジール以外のモダニズムの作家は、それまでの文学の形式/文体から逃れ、神話につながるような物語から脱しようとしている。…ただしそのことだけ優先されているわけではなく…何をどのように書くかという…基本形は壊さないまま革新をしている。…それでも文体としては破綻していない…つまり物語性をもっていて…云えば文章として美しいと言えるところまでの完成形をしている。文体は、合わせて美しく仕上げている/仕上がっているので、けっこう読みやすい。たとえばカフカが読みにくい/読めないという人も多いが、それは潜入観念に囚われているからであって…評論家たちのカフカ難しいぞアピール(自分たちのアイデンティティのための)によるものだ。ムジール以外の作家は、読みにくい文章/文体ではない。ムージルは『寄宿生テルレスの混乱』はともかく『特性のない男』はちょっと難物だ。(図書館で借りて眺文字づらを眺めた)悪文というか、美しくないというか…ただしムージルが一番、現代、そして私たちのここから未来への問題点への示唆をしているような気がする。だから今の気分としては、『特性のない男』にすっと身体があうように待機しようと想っている。ムージルの現代性は『危険なプロット』にもあって、モダニズムの小説がでてくるからと行って、その位置で描かれた映画ではない。
 『寄宿生テルレスの混乱』は、全寮制エリート陸軍実科学校。ティーンエージャーの男子が寝起きしている、狭くて閉鎖空間。当然、いじめが起きる。性に目覚める季節。売春婦だけでなく、ホモセクシャルも…「テルレスのなかでまだ識別されていないものが、テルレスの意識に投げかけた影」に、少年テルレスは混乱する…。——と丘沢静也さんは素晴らしいレジメを解説に書く。識別されていないものが、意識に投げかけられる…というところが大事だ。で、ムージルは、体験談を20代で書いていて、当然、手が革新的には追いついていなくて…識別されていないものを正直に識別されていないように書くのだからますます、ちょっとやや混乱することになる。この小説の中では、識別されていないものを[書く/描く]と現実もまた識別できないように変化していく——映画もそこがテーマになっている。
 『危険なプロット』のあらすじは…リセの国語教師ジェルマン(ファブリス・ルキーニ)が、クロード(エルンスト・ウンハウアー)という生徒が書いた作文に反応して、作家への道を開くためにいろいろ訓練しようと添削をはじめる。個人的に。するうち書いた文章が現実を侵犯していく。リセというやや閉ざされたところで生起するホモセクシャルの匂い、そしていじめのようなサディズム…。よくある話だ。自分でも…経験がある(だいぶ幼く文学にはならないけれど…)。ここからは、自分の体験——。日仏学院で大学受験資格をとるために講座を受けていた頃、背伸びをして中級のディクテをとったはいいが…フランス語が聞きとれない、ゆえに書けないということになって…早々に辞めようかと思ったのだが…教師はリセあがりの先生で厳しい…名前は…忘れてしまった。人には使わないけど細いしなう鞭をもって教室に入ってくる。後ろ手で教室の扉を閉め、さぁ今日の生贄は…(日仏学院で…信じられないでしょ)で、生贄はボクで、50分授業の30分ぐらいを費やして、できなしのボクの書き取りをチェックしていた。(ありがたい?…その間、他のレベル高い生徒はほっとかれていた。そのチェックの説明すらもうほんとに何云っているか聴き取れず、えっ?えっ?って感じだった。)le point とla point の差をボクに教えるのに、シャーペンの先を出して、つんつんと(ほんとはつんつんじゃなくてぶすぶす)手の甲をさして早口でまくりたてた。皮膚に刺さった先からは血が噴き出してきて…(その傷跡は10年位消えずに残っていた)それでも平然とさすことを止めず、説明を続けていた。点と先の差なんだけど、どっちがどっちかは、もう覚えていない。あ、そうそう発音を直すのに眼の前に先生の唇があったことも…講座の最終授業を終わって講座をとっていたマダムから「あんただけ得したね。この講座で一番進歩したのは、M.konnoだって言ってたよ。(えっ、聞き取れなかった!)それにしてもあからさまなホモの贔屓だね。噂はほんとかもね」とケラケラと笑わった。この先生…うーまだ名前が思い出せない。当時の日仏学院にはドロージュさん(カナダ国籍、徴兵忌避者、ゆえに労働として日仏学院の教師になる。たぶんホモセクシャル。無理やり海水浴に誘われて浜辺で相撲とらされた。裸で接触できるでしょ…)とかパリジャンを気取るとなまっちゃうラクロワさんとか(こちらは女の子好き)で、名前の出てこなリセ上がりの先生は、生徒と関係をもって放校されたという噂があることを後から知った。大学一年だったボクは、ホモセクシャルという言葉もその意味することも知らない田舎の子だった。それでも、高校時代を思い起こせば、美少年のMといつも一緒にいたし、二人はガタイの良い10数人の同級生に守られていたりということもあった。ボクの場合は。だけどホモとか全く知らないし性のことも分からない情報過疎地の田舎の学校だったから、何も起きず、何も発展しなかったけれど…『危険なプロット』のリセ的青春事件はどこにでも存在する/していた、だろう。だから気になるのは、意図することなく、ホモセクシャルとか性的な事柄的なことが、サディズム的な行為、暴力的な行為、残酷な関係を生んでいくその流れが作られるメカニズム/精神医学的心理だ。ある行為を積み重ねていくうちにそこに分からず到達してしまうということがいくらでもあって…そのことを正直に記述していくと、ムージルのように散らかった文体になる。映画も実は散らかった手法をしている。得体のしれないことの成立過程(成立過程が分析されていない)を描くためにはそうなってしまうということだ。先生とリセの友達同士のホモセクシャル、少年が友達の母親、先生の妻へアプローチしていくという…まだ性が形をもたない時に、その香りが、行為を引っぱっていくという[意志のない性]が誰にもコントロールできないまま、現実を暴走していく危なさのことを描いている。つまり、妄想にもならない、それがなんであるか分からない[もやもやのようなもの]が、書くことによって、文学することによって、現実を侵犯してしまうことの危うさを描いている。宣伝にはボーイズラブとか書かれていたが、見かけそうでも、その成立の不可解を描いたと云った方が良い。

…少年が〈雑誌とメジャーを手にふんわりと歩く/薄い服から[中産階級の曲線]が見えた。〉と書いてしまうから、友人の母に対するセクシャルな何かが形となり行為となる______ということがこの映画の第一のプロットだ。(勝手に断定しているので御容赦。映画をいきなり見て感想しているので)だからボクが日仏学院でのそのリセ上がりの先生とのやりとりを、別の作文の授業で、添削をしながらそのことを文学化させようとしたら…リセの先生との現実もさらに深く変化していくということだ。残念ながらボクにはこの少年のようなことは、なかったけれど、東京都立大学という当時は地味な、大学の文化人類学なんかをとりながら、日仏学院に毎日通うということは、そっちに何か[物語]を無意識にも期待していたということだろうから、もしがどのようにか転んだら起きるかもしれない。もうひとつ日仏学院での自分の話を思い出すと…小林進という日仏学院の年上の(もう法政大学を卒業していた)同級生が…(マダムキラーで、なおかつ未来法政大学をのぼりつめる美人で頭の良い彼女をもっていて)、演劇をやりながら人生を模索していた。彼は、声優(あ、昔のアニメのね)を中心として仕事をしている演劇集団Aにも属していて、時おりそこではイヨネスコを上演したりする。そのグループにボクを無理やり連れていって、本読みをさせたりした。イヨネスコはもちろん、ゴドーなんて云われて知らないし、だいたいシェークスピアを読んだことがない。戯曲は幼稚園の時演じた、『六地蔵』と、中学の時無理やりスタッフをやらされた『赤い蝋燭と人魚』だけ。自慢じゃないけど…。で、緊張の余り本読みの帰りに道で吐いたりした。小林は、それでも演劇に興味のないボクをずるずると引込んでいき、しまいには、法政大学の学生会館(当時、京大の西部講堂と並んで自主管理だった)で、シェークスピアの「タイタスアンドロニコス」を上演すると言い出して、無理やり役者だか演出助手で起用されることになって…さすがに何もできず困るのは分かっているので…長文の手紙を書いて断った。ついでに友人となるのも…。それ以来、自らを小林進から絶縁状態にした、以来、一度もあっていない。青春にずるっと引きずられたら、何か大きな遮断をしないと…そこからは逃れらない。意志なくても、それが何か分からないのに、どんどん引きずられるということは多々ある。小林進は、プロットをもって人を巻き込んだと今だったら、ちょっとそう言ってみたいが、当時は、無抵抗できなかった。こういう流れは、激しい[断]で終えないと終わらない。映画もそうなっている。ちなみに、そのとき誘惑された[ボク]は、死に物狂いで小林進を切り離して、日仏学院からも離れ…小林が見るのを薦めた、黒テント(佐藤信)紅テント(唐十郎)を避けて天井桟敷の舞台を見るようにして自分を浄化しようとした。そうしているちに、天井桟敷と寺山修司のファンになり、今度は天井桟敷に嵌まっていくことになる。今度は自分から。でもそこで観客をしていれば終わったものを、寺山修司に偶然話しかけられ、今度は寺山修司に誘われて逃げられなくなっていく。午前3時に電話がかかってくればタクシーで晴海に駆けつけゲネプロを見た。そのひが下版日でも関係なしだった。今の自分の演劇環境を決めたのは、ボクではなくて、小林進のプロットであったとも言えるし、寺山修司の物語でもある。自分に演劇の指向は元々零である。そういうように、ことを積んでいくといつのまにか地平が顕れ_____そして崩壊する…それがこの映画の流れである。

ボクがいま陥っている[闇]は、一つには情報インカムの技術のなさによって引き起こされたのだが、もう一つには、実際の閉鎖空間、ネットでの閉鎖空間、そこで人が無意識にも/意図的にも起すことの暴力性/サディズムについてのことが解決つかないからだ。でもこの映画を見ていると少しだけ思う。やはり新しいタイプの物語/ナラティブが機動しているのではと…これは文学とか哲学、あるいは芸術ではほどけないものだ。…これは精神科医の仕事だ…意図的なことを無意識のものとして免罪するように社会に提示するときに使われる精神医学的な言葉/概念——そしてそれらが作動するナラティブ/物語の殺傷力の問題である。チープな例で云えば、ボクはボーダーだから…トラウマがあるからさ…発達障害だから…というような物語を盾にその盾の隙間から同じ道具で攻撃するということ______その構造が解析されないと、ボクの復帰はかなわない。(まぁ生きているうちは無理だろうな…)『危険なプロット』にも『寄宿生テルレスの混乱』にもこのプロットは未来予感的に作品の底を流れている。

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