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日々是徒然 T病院の窓から

 案内された病室は11階。窓の向こうは、眩しい夏日が拡がっていて、光はところどころ白色のコンクリートの壁に反射して、ぎらついていた。眼下には旧岩崎邸庭園跡、左側さそくのビルとビルの間からは不忍池が見える。外の明るさは、こちらの部屋と部屋にいる人間の気分を昏くするほどのものだったが、意外にも気分はそれほど落ち込んではいなかった。まさに目に、風景が向こうから飛び込んで来る勢いに、少し苦笑いする感覚だった。不忍の池の面が綺羅綺羅と光っている。
 不忍池も岩崎邸跡も…裏側から見ることになる。全部裏側の景色。裏側、とは自分らしい。そして高いところから上野、湯島を眺められるのは気分が良い。若い頃、このあたりを踠いて徘徊していたことがあったから。
 窓外を食い入るように見ていたら、少しガタイの良いおねえさん…たぶん事務方の…が病室に入ってきて、病室やその心得(抜け出しちゃいけませんよとか…)最初の説明をしてくれた。はきはきしていていい感じ。なにか運動でもしていたのだろうかかっしりした感じ。ピアスをしている。耳朶じゃなくて縁にいれてる。職場でしていてOKなのね、そうだろうなT病院と云えども、そんなところをチェックしていたら人が集まらなくなる。いいな。
 窓からの風景と事務方のおねえさんのファッションで、塞いでいた気が晴れてきた。胸襟が開く思い…。ここで再起不能になるなら、まあいいか…。ここからでられなくなっても、まぁしょうがないか…。

 B病院の紹介で、ここに来たのだが、最初の問診の時に、検査同意書を渡されず、何日かたって呼び出されて医師サイン済みの(同位確認をしたことになっている)同意書を渡されてた。ちょっとどうなのかぁ…そりゃないんじゃない。余りに管理不足——と思って、「説明を受けていないのに、説明受けたことになってますね…ちょっと考えさせてください」と以降の治療を保留した。
 大丈夫かT病院。ちょっと嫌だなぁ…。始まる前に、嫌なことが少しでもあるとその仕事やプロジェクトはやめてきた。全部、巧く用意しても失敗することが多い設定を生きていた。最初は、しっかりと。自分の身上だ。
 ずいぶん悩んで、照会状を書いてくれたB病院に相談に行った。内視鏡で癌を見つけてくれた先生が、飛んできてくれた。なんと手術室に入る前に相談に乗ってくれた。「すみません、これから手術なんですよね…」「大丈夫よ」と云ってゆっくりと話しを聞いてくれた。「紹介したのは、自分としては、トータルとして一番、安心できるところだけれど、患者さんの気持ちが第一なので…他の病院を紹介しても良いですよ…あと、この先生嫌だから他の先生にして下さいと、云ってみたら?」「それありなんですか?」「患者さんの権利ですし…。あと、問診した先生と、内視鏡検査する先生はたぶん別、さらに手術する先生も別の可能性が高い。」「主治医みたいな感じじゃないんですか?」「T病院は、その日の担当医がやるから…」大きい病院は主治医がなくてその日の、輪番制なのか…。
 一番信頼できる先生を紹介してとお願いしようとして…でも止めた。きっと他の病院のことだし、クラス的に上の病院だから、口出せないし出さないんだろうなと…と気持ちとシステムを想像した。
 父親の食道癌治療・手術のときに知ったのだが、治療や手術を決めるのは、患者であり家族。決めるのは自分——。自己責任だ。病院や医者を選ぶのも。病院や医者によって、結果はだいぶ変わる。まぁ普通の社会と一緒だ。
 病状にあった名医に見てもらうのが一番だけど、そこにはなかなか行き着かない。とくに今回は何のつてもない。さあどうするか…。他の病院を今から頼んだり、探したりすると、また最初からのやり直しになる。T病院よりもっと良い状況になるかは分からない…。今、見つかった癌は6センチでかなり大きい。たぶん、最初のアクションまで(つまり手術まで)の時間をかけない方がいい…。そう考えてT病院で進めていくことにした。どうなるか分からないけど、コミュニケーションしながら、あとは自分のもっている運を頼って…。運がなければそれが運命だ。
 T病院にお世話になることにして、まずは詳細の検査。検査9時までにスタンバイして下さいと云われて、8時半に病院が開くと同時に入って受付をした。診察は2時と書かれた紙がでてきた。えー、2時なら、下剤呑むのに2時間だから、12時でよかったの?と、ナースセンターで聞くと、いや、このまま、今から下剤呑んで下さいと云われて、飲み始めた。11時くらいには準備完了して、本を読みながら控室で待っていた。2時になっても3時になっても呼ばれない。検査室は全部で10以上ある。受付は3人目だったから、受付順なら、すぐでしょうに…と、ちょっと????。
 4時になっても順番は回ってこない、また聞きに行くと、前にあと4人居ますね。もうちょっと待って下さい…えーっ。今から10年前だったら、それを聞いてたぶん帰っていると思う。いやぁ、3時に切れてるかな…歳とってだいぶ勢いが落ちてきた。情けない…。珈琲を飲みに一階まで降りて、そうぶつぶつ云いながらまた本を読んでいたら、呼び出された。控室にはもう二、三人しか残っていない。最後ってこと?
 部屋の前でまた順番を待ちながら(次には入れる)ぼーっとしていると(怒ってないな。だいぶ癌の大きさにめげてるな自分…と自分を分析)と、携帯を見ながらぶつぶつ言って診察室に入っていくオタクっぽい若い人がいた。…大変だなぁ、自分が上司だったらああいう風なアシスタントはすぐに辞めてもらうな…。人手足りてないのかな…大丈夫?などと思っているうちに、自分の番になった。
 入って…あ! 声にも出さず悟られないようにしたが、びっくり、オタクの(かどうかは分からないが…)若い人は、これから内視鏡で検査してくれる先生だった。ちらっと様子を窺うと、隣の部屋の先生もものすごく若い。権威の偉そうなベテランの先生は、どこにも居ない。こういう時代なんだ。ほんとに俎板の鯉。ここからサバイバルが始まる。ままよ——。
 大腸の内視鏡検査は麻酔も何もしない。なので内視鏡が入ってくる感触が分かる。B病院の先生もかなりてきぱきと巧かったが、なんかそれ以上の手さばきだ。T病院と機材も違うので比べられないが、さらに上手な感じ。(失礼しました。見かけで判断しちゃだめですね。)機械もB病院の先生が云っていたように、最新機材。内視鏡から見える腸内の大きさが全然違う。終わって、この色染した模様がぐちゃぐちゃになってるところ…これが癌です。模様が奇麗だったらポリープ。うーん、癌ですね。それにしても6㎝の患部が、握りこぶしより大きくモニターに映っている。
 …
 ちょっと黙っている僕の顔を見て、「下にどのくらい延びてるかと、どんな性質の癌かということが問題ですね。でもぎりぎり内視鏡で採れると思います。とって検体検査して決めましょう。行ってたら大腸を切ります。で、リンパに拡がっていたら抗癌剤治療——。」と、淡々と説明。いいなぁこのクールな感じ。癌と聞いて自分、顔面蒼白になるかと思ったら、まったくそんなこともなく、冷静だった。不思議。
 「手術にかかる時間は最底でも2時間くらい、長くかかったら3時間とか4時間とか…腸の壁は薄いので、破れることがあったり、進行性の癌が見つかったりしたら、その場で内視鏡から開腹に切り替えることもあります。」と、云われた。そうなのね——。ううん。結構、ハードだな。

 で、手術は麻酔ではなく眠り薬で眠っている間に終わってしまった。最後の方で、ちらりと目が醒めたような…はい、なんとかかんとか…とかサポートの女医さんに言って…共同作業している。内視鏡2本いれてそれぞれが担当してる。あと、少しだ。よし!○○して! その時は夢かと思ったがそうでもなかった。目が醒めましたかと云われて本の少し追加の眠り薬を入れられたようだ。
 気がついたら病室のベッドに寝ていた。パンツを履き替えさせられて(看護婦さん?に?)最後に薄切りのレバーを見せられて、取れたよ見る?いや良いです。と言ったのに、見せられた記憶があって、これも夢?と思っていた。二日後に執刀医師に説明を受けた。あのー。僕、とった患部見ました?見せたよ。奇麗にとれた。ああ、夢じゃなかったんだ。3㎝×6㎝くらいのレバ刺しのような患部。どうやって内視鏡で引っぱってくるんだろう。
 「あ、じゃぁ大丈夫なんですね。」「いや、2mm幅で切って検査して詳細に見ないと。何か大きな問題があったら、すぐ処理するから旅行とかしないで待機していてね。出血があるかもしれないし。出血したらすぐ来てね。救急車使っても良いから。状態を見て大腸を切断して、周りの血管、リンパ節を掃除する。で、また検査をして、リンパに流れていたら、抗がん剤治療。」
 「で、見通しはどんな感じですか…」
「…」
「…」
「検査結果を見てね。3週間後に結果がでるので。また来て下さい。あとは、便が問題なく出るようになったら退院です。」
 それでもトータル10日ほどの入院だった。退院しても完全に執行猶予状態。うーん。

大腸癌を独学する。理解が進んでいないので、項目を立てるだけ。
 
 自分の場合、大腸と小腸の間ぐらいにできたので、裏に動脈とリンパ節がけっこうあるので、そこに延びて行くと、転移的なことになる。肝臓、そしてリンパを伝わって肺とかに。複数臓器になったら深さとか関係なく、ステージが上がる。3とか4とか。
 
 ちょうどこの病気に入り始めの頃に、坂本龍一の『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』を読んでいたので…そして似たような箇所の癌だったので参考になるかと思ったが、ほとんど病気を知ること、どう考えたら良いかの助けにはまったくならない。何かを忖度しているか、病状を本人が詳しく把握していないか、書くつもりがないかのどれかだ。
 自分は、覚悟をしていたので、内視鏡でとれるだけとって、のち大腸を切って、リンパ節を調べて、で、抗癌剤かなと——。友人にも勧めている椎茸菌と、最近勧められた、熊笹エキスを飲んで、その間に少しでも免疫で癌の量を減らせらればと思っていた。でも、自分では抗癌剤治療までを予定していた。
 一旦、西洋医学治療を始めたら、最後までやろうと。でないと、最後のところがけっこう大変なところになると友人や知り合いの治療の経験を見て思っていた。最後までいって駄目なら緩和ケア。できるだけ速やかにこの世を去る。そんなプログラムかなと…。

 で、いろいろな目に留まる資料などを読みはじめた。

 あ、その前に食べること、筋肉のこと。
話しはだいぶ飛ぶけれども、大山康晴(将棋名人)が68歳の時に肝臓癌を発症する。平成4年(1992年)のことだ。その時にダイエットをしたのが良くなかった、いつもと違うことをしたらいけない、というコメントがあって、大山のファンでも棋譜を見たこともないのに、その言葉が深く印象づけられた。ダイエットが発癌につながる——まさかねとその時も、それから以降もずっと思っていた。
 だけれども、今は、まったく関係がないわけではないと思うようになった。

 さて、いろいろな経験とか、癌患者に付き添いながら、[免疫]は、重要なファクターだと信じていた。だから、実績のある椎茸菌(実際に免疫上昇効果のある椎茸菌で、癌の進行がとまったり快癒したりした人を見てきた)を使えば、どうにかましになると考えていた。少なくとも進行は遅らせることができるだろうと。
 
 ところが、退院したその日に、コンビニで「シニアのための筋肉の新常識」という絵本のようなムックを見つけて何気なく買って、ぱらぱら捲ると、大腸がんリスクを減らせるのは有益ホルモンを分泌する筋肉だけ!という字が躍り込んできた。本にはそれ以上のことは書いてあったわけではないが、筋肉も免疫的力を発揮する?…しかも大腸癌に…利く?免疫には椎茸菌とか発酵食品とかを食べれば良いと考えていたが、それだけじゃ駄目?というかまったく予想もしない方向の事柄だ。

 たしかに病院食を食べながら、カロリー計算はきちんとしてあるが、お粥の代わりにヨーグルトでカロリーをとった方が大腸には、大腸癌には良くないだろうかと、普通に思った。糖質の多い食事で…どのバランスであれば大腸癌を追いだすのに有効だというアプローチがされてないのでは…と。
 手術をして一週間ベッドにいると筋肉が15%落ちるという話しを聞いて、慌ててトレーニングジムに登録した。入院前に付け焼き刃に体力をつけようという魂胆だ。目から鱗の知識が飛び込んできた。中学生の頃、倶楽部活動していたので、いわゆるしごき的、トレーニング(ウサギ跳び2㎞とか、スクワット1000回、腹筋1000回とか)をしていたので、え? スクワット15回×3セットなの?(今では運動不足でそれもままならないのだが…)だんだん何となく分かってきた。
 トレーニング担当の人は、食べれてますか?と、毎回聞く。年齢がいってからは、食が細くなることの方がダイエットや筋トレよりも重大問題のようだ。そしてダイエットと筋トレはどちらかというと、まったく異るベクトルの上にある。基礎代謝よりも少ないカロリーしか摂取していなくて、筋トレをすると…簡単に云うと筋肉を削ることになる。先に筋肉が消費されるのだ。そうすると、免疫が落ちてくる。癌細胞を殺し難くなるということになる。
 免疫のためにも、入院で落ちてしまう筋肉のためにも、筋肉を付けなければいけないのだが、ある年齢を超えると、なかなか筋肉はつかない。おためごかしで、どんな年齢になっても筋肉は付けられますよと云うけれども、それをするのは簡単じゃない。トレーニングするための筋肉や体力が必要だし…。
 で、手術が終わって次の準備のために運動をしたいので、プログラムをと、トレーナーに聞くと、お医者さんに聞いてどこまでやっていいか聞いて下さいとのこと。手術終わった後に聞くと、「激しい運動は避けて下さい。」「激しいって?」「汗をかくような運動は駄目です」「うーん、(科学的じゃない)」入院中は基礎代謝よりも低いカロリーを食べているので、そこでトレーニングすると、筋肉を削る。そして免疫が落ちる。癌は暴れる。そういう流れになるが、そこの部分は[医学されていない]。

 どの道、身を守る方法を決断するのは、自分なんだから、そこは考えなきゃいけない。
いくつか目についたものから、読み始めた。一番参考になったのは、オンライン・文藝春秋の『医療ジャーナリストのがん闘病記』長田昭二。簡単に云うと抗癌剤投与が治療を断念するくらい辛い(場合が多々ある)というところだ。自分のことで言えば、内視鏡で患部除去→検査→大腸切断→検査→抗癌剤治療という流れも覚悟していた。抗癌剤はしかたのないことだなと覚悟していた。大腸癌だと云うと周りの人たちや、大腸癌にかかって(しかも重い)生還して5年も10年も生きている人たちから、髪の毛抜けるけどまた生えてくるから、頑張んのよとか、抗癌剤頑張ればなんとかなるから…とか云われて、そうだよなと、やることに決めていた。
 だけど、このレポートを読むと覚悟して治療に望んでも止めたくなる。考へるという人間の尊厳が保てなくなるから…と、あって、抗癌剤治療は相当にハードルが高そうだし、そこでめげるかもしれない、とも思いだした。岸博幸さんの癌治療レポートもネットでは読めて、ここでも抗癌剤治療が最大の難関と——。レポートは、そこで踠きながら前向きに頑張る、それでも大変な治療が報告されている。そう云えば、抗癌剤治療を途中で止めて、結果的に死へ向った知り合いの何人かを思いだした。途中まで化学療法をやったのだったら、そしてそれが治療の必然として選ばれたのなら、最後までやらないと…と、思っていたが…そんな簡単なことではなくて、そこが癌治療の最大の山場なのだと——なんとなく理解した。
 それほど強い副作用がでない人たちも知っていて…でもそれは病巣の場所だったり、深度だったり、いろいろのことが作用する。免疫のこともあるだろうし…でも免疫力を破壊して治療するのだし…。
 結論などでないし。ない。どういう風に流れていくか…人間は誰しも死んで行くのだから…ゴールは見えているが、そこまでをどう過ごすかということだ。そして考へる臓器である大腸の病は、思考への影響もあるだろうし、身体の思考も変わる。ここからまた未知の領域に入るのだ。

 ちょっと自分の病と身体を使っていろいろ追ってみようとも思う。

『動的平衡3』福岡伸一/の第七章に「がんと生きる」を考へる
という項目がある。
  がん細胞に作用すべく開発された抗が剤も、多くの場合、正常な細胞をも同時に傷つけてしまう。
 結局、もっとも効果的な治療法は、外科的に切除する、放射線で焼くことになる。しかし、転移して散らばってしまっていたらこれらを完全に取り除くことはできない。
 究極のがん治療があるとすれば、がん細胞に「正気を取り戻したまえ」と諭すことである。

と書かれていて、面白い。転移を見つけたら動的平衡を目ざして共存するということなのかもしれない。どの道、治らないのだから。
 確かに、結果としてそうやってステージ4で大腸から胆嚢からとって、なおかつまだ病巣を幾つも抱えて、一線で仕事をしている人がいる。(何人か知っている)そのあたりが生き方のより良いところなのかもしれない。

少しそのあたりに頭を移動させて行こう。と、考えている。

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