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燐光群・『わが友、第五福竜丸』

 『第五福竜丸』は、1954年3月に太平洋のビキニ環礁でアメリカの水爆実験による被害を受けた。1967年、廃船になったものの、保存運動が起き紆余曲折の後、展示館保存され、現在に至っている。
 第五福竜丸のことを知っているか?
これは、燐光群・坂手洋二の観客への問いかけだ。
いつのころからだろう、燐光群はずっと演劇で問いかけている。日本で生産していた地雷のこと、憲法、入管施設で起きている悲惨なこと…。
 いつも知らないことばかりだ。『第五福竜丸』が所謂死の灰を受けたことは何となく記憶にある。だけれど、『第五福竜丸』については、なんとなくは知っていると思っていたがそうではなかった。意図的に隠ぺいされていることがたくさんあった。例えば、同じ時期に被害を受けた船は『第五福竜丸』だけでなかった。政府調査で1422隻。『第五福竜丸』だけが代表で注目を浴び船員は補償を受ける。

 いつの頃からか、坂手洋二+燐光群は、意図的に隠蔽された社会問題——を演劇で暴く仕事を続けている。隠れてしまった事柄を掘り起こしドキュメントし、過去に遡り資料にあたり、人に会い、聞き、痛みを共有しようとして現地に立って…—— 
 『憲法くん』では、憲法の問題とともに、入管問題をリアルにドキュメントしていた。不法滞在と認知された外国人が、期限も定められないままに入館される監獄のような待遇。はじめて知ったので驚愕だったが、現実に事件が起きた。

ところで、燐光群を、見はじめたのはいつの頃か。
『東京裁判』は印象深く見ている。後に再演された『トーキョウ裁判1999』(シアタートラム)では、観客は巨大な船に移民のように閉じこめられて、東京裁判を見た。閉所恐怖症のぼくは、脂汗が出てきた。劇場からでることはできない。網で囲われた通路のような座席、船の腹に集められた難民。そこは舞台上だった。坂手洋二は、時代や社会に追いつめられている人を描く。救いようがないほどの。だからこそ坂出は訴える。『鯨の墓標』『ブレスレス』…。『屋根裏』どれも印象的好きな演劇だ。どこが好きかというと、最後に幻想的なことが起きるところ。得体のしれないものが人を捉えるシーンが必ずでてくる。坂手洋二のロマンティシズム。

 だけれども問題がシビアになり、坂手洋二がそれを真摯にとらえ訴えようとすると、坂手独特の演劇的不条理が減っていく。最近ではほとんど見られない位の印象だ。描いていることがことだけに、見ているぼくはそれを受け入れ、拍手で協賛する。でも見終わっていつも思う、坂手の不条理ロマンを感じたいなと…。
 海で、船で…もしかしたらと思っていたら、今回、いきなりその予感をさせる設定がでてきて終始わくわくしながら演劇を追っていた。ここではそれは書かない。ぜひ見て欲しいからだ。久々に燐光群テイストが戻ってきて、ぼくは、演劇的なわくわくも同時に味わった。その結果、燐光群の演劇でしか伝えられない演出になっていて、原爆、原子力の問題——もちろん福島第二原発のことも、汚染水放出のことも取り上げられている。その事故が起こる前に、ビキニの汚染水がどのように世界の海を流れて行くのか…流れるときには均等に薄まるのか…という研究を超党派で行なっていたチームがあったことも描かれていた。余りに驚愕することばかりで、並べられたら茫然自失して、かえって理解するのは自分には無理だなと思ってしまいそうになるところを、演劇がちゃんと身体に押込んでくれていた。
 『わが友、第五福竜丸』は、アメリカ原爆実験から、現在に至るまでの被爆の暗黒史を描いている。
『第五福竜丸』は、現在の私たちの傍に漂流してきて座礁しているのである。

 アフタートークで、中村敦夫が登場して、自身の闘争史を語ってくれた。淡々と。中村は、『汚染水』と『処理水』と呼ぶように操作された言葉の現実を語っていた。言葉を刈るときそれは大体が、その裏に刈り消したい現実があるのだ。通常運転で流されている『処理水』と、原発事故の『処理水』が科学的に、ロジック的にどう同じでどう違うのか…違うのだけれども…同じものとして納得させようとしていることも…語られた。

 演劇は言葉から始まる。信じられる言葉からはじまる。だから大切に言葉は組み上げられなければならない。
 言葉をもって、言葉変更の犯罪を表現していくこと、そしてそれを観客に伝えることは、信じられる言葉をもってしてもなかなかの困難がある。
 観客は、真摯な気持ちをもって座礁した第五福竜丸に乗船しなければならない。つくづくとそう思う。

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