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言葉の|躯《むくろ》唐組『透明人間』の大鶴美仁音の|身躯《からだ》と言葉。

大鶴美仁音——
台詞は…言葉は、美仁音のどこから発語されているのだろうか。

時に無言で…もそもそと階段を上がってきた〈女〉(大鶴美仁音)の傴僂の身体が、じっと、男を見て、何か言っている。
はじめは何を言っているのか分からなかったが、しだいに身体の発している言葉が、聴こえるようになってくる。言葉の細部は聞こえない…が、言葉の不器用な感覚は伝わってくる。

言葉は、
口から、ぼろぼろと、食べこぼしのように落ちる時もあれば、ぴゅっと、含んだ水を宙に飛ばすように放たれるときもある。放たれた言葉が羽を無理にたたまれた薄羽蜉蝣のように、へなっと畳の上に墜ちることもある。
台詞のような言葉は、口から出ているのではなく、身体のどこかから、空洞の瓶を負った傴僂の背中から…。
あるいは…。

唐十郎の台詞/言葉が一旦、美仁音の身躯でむくろになって
(唐十郎が絶対的言語を放つテント内でそんなことをしているのは彼女だけ?)
井戸のような水の中に墜ちたり、畳の上をもじもじ這ったりしている。
なんだその言葉は!
と、役者の誰かがその落ちた言葉をぎらりと見れば、咎められたかと、美仁音は慌ててそれを身体に回収して、また無言で階段を降りていく。とぼっとぼっ、と。

寄った目の——3D交差方の裸眼視を平行視的に使っているような(そんなことできるのか?)その先に焦点はなく、視線がぼーっとテントの空間に飛散していく…。その目は言葉。その身の振り方が言葉。
唐十郎の饒舌な台詞廻しと同じように…美仁音の身躯は、ときおり饒舌な台詞を吐く——ただし無言で。

戯曲どうなっている? 初見なので『透明人間』台本を取り寄せる。大鶴美仁音の演じている〈女〉…初演は誰にあて書いた? 他の唐十郎戯曲を精査していないのでまったく分からないが、他の台本もこんな表現があるのだろうか。

大鶴美仁音が演じている(?)…〈女〉
戯曲の前半では〈女〉という名前になっている大鶴美仁音の役は、一言も台詞を発していない。台本がそうなっている。(いや保…。というたった一語は発している…。)

ト書きがあって、そのト書きから会話がはじまる。台詞がなく、代わりに()で括った役者の動きが書かれている。たとえばこんな感じ。

 女は拾いかけた皿で手を切ったらしく、指を口に入れる。

田口(かけ寄り、ハンカチを差し出す)
女 (首をふって辞退する)
田口 こちらに、時次郎さんと飼い主の方がいらっしゃると思うんですが。
女 (怪しげに見上げる)
田口 他意はありません。田口です。
女 (こわれた皿を持って立つ)

ついてく回り込み、座敷への階段を上がり、ボロボロの座敷に立って、とまる。

田口 不在ですか。
女 (奥の押し入れの前にゆき)保…。

  ガシャと鎖の音がする。

女(田口を振り返り、皿を抱えた両手ながら、人差し指でさし示す)
声 (中から)君はホですか?
田口 いえ、ホだけじゃないんです。後がまだあるんです。
女 (自分の言い足りないためかと、頭を下げて去ろうとする)

——。
自分の言い足りないためかと——というのは、役者の動きではなく、〈女〉を演じる役者の心の動きである。役者の心の演技までを唐十郎は書く、のだ。
だから、役者=大鶴美仁音は、無言で〈言い足りないためか…と〉…という演技をするの。発せられない言葉とか、思いとかが美仁音の身躯を金縛る。動き緩慢に、脳の動きが弱い人のように動く…。
身躯が言葉を細切れにしている。これが美仁音の演技なのだろうか。そういう風に身体が作動している様にも見える。舞踏のメカニズム——。

唐十郎、そして唐組の役者は、言葉をマシンガンのように発して、虚空に身体を遊ばせ、空中の幻想楼閣を打ち立てる。例えそれが地の中にある水であろうと。水は一旦宙に楼閣として描かれる。言葉によって。言葉によって身体がある。
美仁音はそこが真逆になっているように思う。そしてこの台本の女=モモもそのような存在として戯曲に書かれている。
『透明人間』で、モモは、名もなく言葉も発することのできない存在の〈女〉として書かれている。前半は…。

そして。

——
田口 そうなの?
辻君 (女の顔を押し)うんだろ。
田口 小突くなっ。小突くなら、僕、小突け。
女 (田口の頭を小突く)
田口 あなたが小突いてどうすんですか。
女 (ペコリと頭を下げ、去ろうとする)
辻君 モモ!

女、とまる。モモとなる。

——
このト書き一行で、今まで女と記されてきた登場人物は、モモという名をもらって、モモとなる。
モモは、相変わらず、流暢な言葉を話さない。言葉は思い巡って身体からにじみ出てくる。
大鶴美仁音。独特の身体と、言葉をもっている。

魁異なる身体。言葉は葬られて、屍体の言葉に変異して発露する。
言葉が身体を支配して、言葉が肉体を躍動させるのが唐戯曲。だけれども〈女〉のような役も書くのだ。躍動しない〈女〉の言葉。

田口の、[愛のふり]で、モモは、引き寄せられるように呑み込まれていくが、また突き放され、突き落とされ、水の奈落におとされる。
「いいんです、私は…」という振りをする身体。虐げられて、それゆえに光彩を放つ。女=モモ=大鶴美仁音。泥の中で光を浴びる水中花。歪んで花は曲がり泥に霞む…それゆえに、だから、輝きをもつ。

美仁音は、身躯と言葉の関係を逆手どっている。語らない/語れない、不自由な、畸型の、怪異なる身体によって言葉を逆放射する。語らない言葉が身体から発せられる時、紅テントには、別の空間が射しこまれる。

透明人間とは何か、どこにいるのか?それはモモの、身躯の、言葉の…その背後の感情的な像。思う田口の像なのかもしれないし、凶暴な狂犬なのかもしれない。身体の中に居る、モモだけが見ている/感じている気配。
モモの役者が感じる、気配だけあるヒトのような存在。

さてその美仁音の身躯と言葉の関係。どこのテントにもこの身躯、この演技、この発語はない。

都市における異和感こそが、テントの存在感だとしたら、テントが都市の空間が慣れてしまった時、(それはそれで、やれることもあるのだろうが…)この美仁音の引きずり出す空間の異相は、この上のない魅力だ。

前回、若衆公演『赤い靴』で、唐組とはトーンの異る演技をしていた大鶴美仁音、福原由加里、升田愛たちの一群が、『透明人間』でも異彩を放っている。稲庭や藤井、久保井たちの演技は、また、パワフルで、言葉を吹っ飛ばしながら全速力で、テントの中を疾走しぶつかり、また立ち上がって演じていく。唐戯曲は本当に彼らの演技によって、生命をさらに与えられている。

塊が交差し、ぶつかり、あるいは風を逆しまに巻き起こす時、そこには、旋風が都市を渡っていく隙間が生じる。それぞれの役者がそのエアポケットのような風の隙間に身を入れてテントから走り出る。テントの芝居は、都市に心の騒乱を巻き起こす、一つの風となる。
不合理な絡まりあいの中で、生まれる、得体のしれないものが、観客の心を摑むのだ。
テントに捩れた風が吹く。鎌鼬のような裂目がばたばたと都市空間を騒がせる。

新時代の唐組芝居をぼくは秘かに妄想しながら、テントをあとにした。

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