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日々是徒然/『奇病庭園』/川野芽生に就いて——。 『文学界』編集部Tさま。

『文学界』編集部Tさま。

『奇病庭園』に就いて——。

 川野芽生は手強い。それが今のところの感想です。まだそれだけしか云えません。
 
 執行猶予退院中の励ましにいただいた『奇病庭園』のゲラとトランスジェンダー特集の『すばる』ありがとうございました。お礼が遅くなりました。何か期待されていたような気もして、ちょっと嬉しかったです。しかし、何も果たせず今日まで来てしまいました。茫然と眺めているだけで何もできませんでした——。

 ——いや、嘘です。ずっとずっとこの美しい怪物と格闘し続けていました。美と格闘したら、それは手からすり抜ける…今までの経験で分かっているのですが、それでも格闘しました。
 だいたいからして[手強い]という言葉すら川野芽生に相応しくない——そう思います。[手強い]のは[川野芽生]ですが、もっと[手強い]のは[川野芽生の作品]です。

 『Lilith』が発売され、『夜想』に原稿をいただいてからずっと、川野 芽生さんの著作物にアプローチしてきました。
 ぐだぐだと言訳をすると、『夜想』に短歌の特集はない。寺山修司全歌集とか、葛原妙子全歌集とか好きでもっていますが、特集なんてとんでもない…。つまり短歌が読めないんです。文学とか、文字ものは、ほんとは得意じゃないです。読むという行為で、苦手な順で云うと、俳句、短歌、小説です。評論はなんとか読めます。
 『Lilith』が出版されて、ああ、もう逃げまくってる場合じゃないなと思いました。良いなと思う歌がたくさんあって、なのにある一定の距離以上に自分に寄ってこない。そのままでも良いのですが、長年の勘で、『Lilith』に少しでも近づく能力をもたないと、何かとても困る場面に出くわしそうな予感がしました。

 読むという行為は、なかなか簡単じゃない——。前にnoteにも書きましたが、手に負えないジャンルに出会うと、僕はグル、導師、導き人を見つけて対応します。人でなくても良いんです。絵画は青木画廊でした。もちろんグルということで人が大半です。歌舞伎は竹柴源一さん、演劇は寺山修司、現代美術はヨーゼフ・ボイスです。ジャンルごとグルのタイプはいろいろです。
 短歌は母親が『コスモス』の同人、俳句は叔母が角川俳句賞のプロの俳人なので、手ほどきを受けましたが、全然駄目でした。そこは、もちろん先生の問題じゃなくて、こっちの問題です。体質にあわないんです。 今から、この歳で短歌、小説の感覚、目をひらくのはなかなか難しい。
 
 グルがいないなら…じゃぁ、やったことないけれど、自分でやってみるか…とようよう思うに至りました。つまり独学です。自信も確信もありません。やろうかと思ってしまったので——やることにした、そういうことです。自分の頭に浮かんだ提案は、ずっと実現してきました。たとえ自分のフラッシュアイデアでも逃げるのは、身上に反するところです。ちょっと必死になってみました。もう1年くらい継続やっているでしょうか。そして今のところの結論は、やはり[手強い]です。

 さて、それでも踠いたご褒美はあって、たまたま樺太→大連→哈爾浜という、戦争を止められないことを探る文学読みをやっていたときに、武漢の激戦地で俳句を作って内地に送っていた富澤赤黄男に出会います。富澤赤黄男の句に関しては、かつて訓練なく入っていけたダンスの世界(台本・演出で)と同じように、身体にすっと入ってきました。しめた!という感じです。
 じゃぁ他の、たとえば全集をもっている西東三鬼とかは、というと、読んでみると、まぁまぁ入ってくるようになっていました。(というか駄目なものが分かるようになりました。それもジェンダー絡みのところで)富澤赤黄男から寺山修司の歌に渡っていくと、少しだけ歌が自分に寄ってきました。

 いずれにしても、言葉とその意味との距離を離して、空間をとることで、読みに少し自由ができたようです。自分、ずいぶん言葉と意味と内容を真面目に[当て]ていたんだと思います。演劇の寺山修司を見たり係わったりする時は、見えているものと背後の訴えたいもの…(実はそんなものはないのですが…)ちゃんと虚と実のような虚との間に空間を作って、まさにその空間のあり様こそが寺山修司演劇なのだと捉えていました。そのように歌も読めば良いのだと気づいたのです。少し愉しくなってきました。寺山修司の歌は、余り有名じゃないもののなかに、直球で短歌としても良いなぁと思える作品が何首もあって、虚と実の逆転があって、それは実に寺山修司らしいな…と改めて感心しました。

 『すばる』の『blue』から読みはじめ、昨日、『奇病庭園』を読み終わりました。頂いた日から読み続けているので、ずいぶん、時間がかかっています。でも、降りてこないと…あるいは気がついたら小説の中に居た、という状態が生まれないと駄目なので、なんというか、努力しても、頑張っても駄目なんだと思います。結局、まだ小説には、入り込めていません。

 しかし、再入院の可能性のある検査がもうすぐなので、是以上のことが出来るか分からないので、ここまでのことをもう少しメモにして報告しておきます。
 もう少しでつるっと入ってきそうな感じのところまで来ています。これも勘です。で、いつ本格的に降りて来るか分からないので——。でも、そこまでで駄目なのかもしれません。
 とにかく、読む時につけていたメモを送ります。いただいて、何もしていなかった分けじゃないよ…という言訳です。言訳のメモです。ほんとうは、もう少し踏み込まないと、川野芽生さんに失礼かなと…思っています。これ第一回目ということで、御勘弁下さい。二回目がいけそうなら、断続的にメモをお送りします。しばらく何もアップできないということになるかもしれません。なので取り敢えずのメモです。

『奇病庭園』
[身体の欠如]——に就いて。
 
 少し違うところから始めます。だいぶ前から思っているのですが、共通身体感の欠如が、常態化している——。さらにSNSの拡散によって身体は消え、境界が消え、境界を媒介とした共通感がなくなっている。全部が一つで、一つが一つみたいな感じ…。
 で、古いところに戻ると、60年代から70年代にかけて、肉体論が盛んでした。あわせて、畸型とかフリークスとかも話題になり、『夜想』も特集しました。その時に思ったのですが、異なるものの存在が際立つということは、身体の共通性が、基本にあるということです。
 『奇病庭園』にもキメラやフリークスが、たくさん出てきますが、常態の身体——普通の身体があって、そこからの異常というフリークスではない——。それぞれが、ユニークな姿をしているもの/クリーチャーたち…は、それぞれに存在している。常態に対する常態でないものという構造は一切ないように思います。これまでなら、カウンターの相手になる基本形のいわゆるノーマルな、男とか女とかの身体が、むしろ埒外になっている。
 ノーマル身体がもし出て来るとしたら、多く出てくるフリークスのうちの一種としてでてくるんだと思います。もう一度、強調しますが、川野芽生の小説では、ノーマル対アブノーマルの形になっていない。通常がない、個性があるものたちそれぞれの世界がただ[ある]——そういう庭園というか世界が物語になっている。(筋がないようにも見えるが、筋もあるし物語もしっかりと存在する)楽園のような庭園です。だから描かれたものたちは、それが通常社会だったら[畸]ということになるが、川野芽生の世界では、この『奇病庭園』の中では、[畸]でも[異]でもない。死も性も嫉妬も暴力もない——。そんな中にいる。
 何より素敵だなと思うのは、[畸]であったり[異]であったりするものたちが、そのことで苦しんだり悩んだり、悲しんだりしていないということです。(仮に実世界の何かを反映していたら、そんなことはないと思います。これまでの怪物やフリークスは、奇異を誇りながら虐げられる哀しみも付加されてきました。表現者たちに、見る者たちに…)川野芽生は、自分の思うあるべき世界や姿を描いているのだと思います。

 さて、共通感の話しに戻ります。
肉体論の中には唐十郎の〈特権的肉体〉やアルトーの〈器官なき身体〉というものがあり、これらは、通常の身体から逸脱したもので、逸脱という感覚は、やはり通常の身体がもっている普通さという共通感があった。
日本人といえば、だいたいこういう反応をする——というような。
 風景に関しても共通感覚が…〈もちろん大まかにですが…〉あったように思います。
土方巽、寺山修司も[東北]と云いました。もちろん土方巽の東北はモダーンを介してひっくり返した武器としての[東北]でしたし、それを身体において発見する/発見させるというようなものでした。寺山修司は、誰にでも分かる東北弁を駆使して(実際の東北弁とはだいぶ違う。だからタモリがさっと模写できた)…都会で一旦フラットにした言葉をもう一度東北弁に再構築したものです。それは寺山修司の手法でもあります。宮沢賢治の東北を言葉によって都市に突きつけました。そのとき、受け手の観客には、なんとなくの[東北]という像があったと思います。が大まかではあるけれども共通のイメージとしての[北]がありました。共通感をベースにした異和。だからこそ表現として突出することができた。
 他にも共通感覚というのは、あったと思います。ふたたび演劇の例で恐縮ですが、早稲田小劇場や状況劇場、そして蜷川幸雄も、場面のここぞというところで歌謡曲や演歌を使いました。異化効果というものもあってか、客は分けもなくじいんと来たものです。これも歌謡曲や演歌が、当時の日本人の心的な部分に、これもまた大まかに共通してあったからでしょう。今、その演出でじんと来ることはないでしょう。その時代を経て来た観客でも。まして現代の人たちは単なる古い曲、あるいは何かの懐かしさでしかない。
 おそらく、共通感覚というものを信頼して、あてにして存在、表現してきたのだと。だけれども、いま、それは喪失しています。良く、目が二つ、口が一つ、鼻があって、みな同じじゃないかと昔はいいましたが、今なら、良く見てよ、目も、口も、鼻もみんな違うよって思っています。身体とか共有する風景とかはない。共有性を頼って表現しているものは、伝播力、衝撃力を失っています。(今どき衝撃を求めているかどうかは置いておいて…)
 身体は共通言語ではない。もし身体を共通項として使うと、日常の…動物的…超一般的行為、のところまで、落としてきて表現しないと…流行りの短歌で見かけますが…川野芽生は、そうした身体の共通性を歯牙にもかけていない。むしろ身体を欠如したことを自覚し、孤高であるからこそ美しいのだと…矜持——その姿勢を保ちます。小説に登場するもの/クリーチャーたちは胸をはって美しくあります。
 そして、さらに——身体がないだけではなく、外見をほとんどもたない存在です。内面はあります。内面のいろいろはあります。この本の中では[塔]すら外面をもたない、変化する内部によって表現されます。
 身体性は徹底して排除されています。しかし表現は迂回した欠如感をもっていません。

 物語/譚に登場するクリーチャー…(好きな言葉でいうと人外たち…中井英夫さんが良く使っていました。これは身体ではなく精神のことを云っています。)たちに身体がないということ。そしてクリーチャーは、健常者読者から云うと、畸型者/フリークスです。フリークスは普通の身体に対して特権的地位をもっている——それがフリークスです。ボディは絶対条件です…フリークスの…でも是までは…です。『奇病庭園』を旅するフリークスには、身体がない。言葉でてきている。言葉から生成した、ことば言葉そのもの。身体表現をしないでフリークスを書く。衝撃です。

 恋愛のできない/しない作家に、小説は書けない、恋愛は書けないという暴言を吐く、素人たちがいると聞きましたが、その云い方で、身体を否定している著者にフリークスは書けないという人が居るかもしれないので、注意を喚起しておきますが、フリークスを身体からだけ書くのは、やはりマッチョな世界観が小説界を支配しているからだと、ここで改めて思います。フリークスを描くのに必要なのは[孤独]です。孤立による[孤独]を知っているかどうかです。
 だけれども『奇病庭園』にでてくる、フリークスあるいはキメラは、しなやかでクールです。分かれに関してじめじめしたところは全くありません。しかも僕には美しいとすら思えます。湿り気とか、所謂グロテスクとは縁のないフリークスです。『夜想』でもフリークスをとりあげてきましたが、ポルノとも見せ物とも違う、哲学ですらある、そしてわたしたちを超越する存在としてのフリークスです。ですが、川野 芽生のキメラは、それとも違う、突然出没のフリークスです。

『[ことば]と[詞]と[言語]』に就いて

P63に
 思念(おもい)と詞(ことば)を乳として彼は育った。
という一行があります。
[詞]は辞書で引くと、 シ ジ・ことば、とあって、韻文の一体。楽府(がふ)の体の変わったもの。唐代に始まり、宋(そう)代に最もさかんであった。「詞曲」言葉。文章。詩文。「辞」に通ずる——とあって、どちらかというと、詩とか韻とかに関連している[ことば]です。ロジカルなものを扱う[ことば]ではなく…感覚的なものを含んでいます。オブジェでほぼ固定された意味付与されている言葉よりも、自由度と動きが含まれた言葉多く、再発見されて使われています。
 まぁ深読みかもしれませんが、どの道、川野芽生の小説は、読む人の脳で暴走して、像のような感覚をシナプスに直接与えるような作用があるので、勝手な深読みを許してもらいましょう。

他にもそうした使い方があって、[鹹]という昭和初期の俳人が良く使った言葉がでてきます。鹹湖の[しお]です。

自分、たまたま、安西冬衛『亜細亜の鹹湖』というタイトルの詩?散文?を読んでいたので、なるほど…と。

影はただ白き鹹湖の候鳥(富澤赤黄男)

という句も思い出されます。富澤の書いた候鳥にはワタリドリというルビがふられています。候鳥(コウチョウ)にワタリドリをあてるルビ使いは、歌人・俳人がやる方法ですが、ちがう読みをわざわざフル時には、こう読んで欲しいという願望あってのルビを使いです。ことばが単独でもっている詩とか韻文的な要素を駆使していたのが、安西とか富澤の時代の、モダニズム創成期です。
 [塩]というとオブジェとしての結晶としての[シオ]をおもいますが、[鹹]には塩味というか、少し感覚とか関連が入ってくる。

 『奇病庭園』は、こうした言葉を駆使して、書くことによって、生まれてくる小説であり、構想や設定がある程度、されてはいますが、今どきのゲーム設計するように小説を書く世代とは一線を画しているように感じます。世界観の設定、キャラの設定。そしてそれは受け止める方が矛盾を感じないように維持されます。そして世界観は、如何に奇異なものでもどういう風に奇異なのかという設定がされることで、日常の延長、日常では潜めてある欲動というものの発散場所になります。
 川野芽生の世界は、書きながら生まれてくるので、(たぶん)、統一はとられいない…綻びることこそ掌から産まれる創造というものだと思っている…そう思っていて欲しいと——。ずれていく筆の(筆?…川野さんまさか手書き?違うよね…)走りこそ、現実から逸脱できる、そして現実を照射できる[書き様]だと思うのです。

『密度』に就いて。

 おそらく短歌をものにしたからだと思うけれども、小説の空間に密度がある。小説の空間にほどよい密度があって、その空気感が…とてもユニークで美的…。(密度の薄い小説は、余りにもやっとしていて好きになれない。)
 辞書を引かないと読めない漢字が出てきたりもするが、漢字の男性からはずっと外れた、なんというのか、その漢字がしなやかな世界に放たれていく/世界そのものになっていく…。男は漢字を凝縮して使うので空間はかちかちに硬直する。その硬直を使って幻想空間を構築するというやり方もあった。ゴシック空間を媒介する幻想小説——じゃないところに川野芽生はある。
 これからもずっとずっと、もっていてもらいたいのは、この言葉による密度、しなやかな、そして芳香すらする空間…それは言葉、川野流に云うと[詞]によって醸し出される。その密度に絶えられないものは、はいれなくても良いと思う。たとえそれが編集者でも。スピードをもって読めて、分かるなどという昨今の価値観は——、価値観でなくて、消費財にしたがる口実でしかない(そう思っている輩も多いだろうが…)
 詞はまだまだ開発可能だ。かつて使っていたり、また新たにキメラのように作り出すことも可能です。川野芽生はそれを自在に行ってます。

『幻想小説』に就いて

 少なくとも『奇病庭園』は、(他の川野 芽生・小説は精査できてない…)今までに見たことのない——という条件のついた『幻想小説』である。云い切ってしまって良い。言いきりたい。

 話しは、どんどんズレていきます。川野芽生のは、言葉のアナーキーに使っています。いえば言葉のテロリストだと。普通、たとえば、幻想文学を破壊したら、幻想文学のようなものは生まれません。ところが、幻想文学を破壊しながら(本人にその気はないと思います。ジャンルを気にしない作家だと思うので…)幻想文学としてさらに魅力的なポテンシャルの高い、かたちが発生しているのです。テロリストが王国を破壊して、あっという間に王国の女王になっているという感じ。
 だけれども、その座に執着もしないし、もともと幻想の王国なんて、意識もしてないし、どうでも良いんだと思います。でもこの作品は、間違いなく『幻想文学』で、しかも旧価値感の埒外にあります。

 さらに話しを別の方向へ吹っ飛ばしていきます。
幻想文学の定義というのは、きちっとされたことはありません。『夜想』と『幻想文学』の幻想文学のスタンスはだいぶ違いますし、『幻想文学』は国書刊行会の幻想というものともリンクがかかっています。そのまえには、『幻想と怪奇』とかで、なんとなくの幻想文学の形は、あると思います。その幻想文学という箍は、星座のようなもので、何となく、そう纏まって形や枠や秩序があるように見えているもの…でも星は本来は無秩序、ランダムに存在しています。だから他の星座も描けるはずなのに、そうはなっていません。だけれども長らくその星座を使っていると、新たに星座は引き難いものです。
 なんとなく、それを崩しながら、コピーしながら…ここで云うそれは『幻想文学』のことです。評論家が、あーだ、こーだ云う方向で、そして編集者たちが、云う方向で星座を使い続けている。しかし元々は、ランダムな配置の星のばらめきなんだということです。幻想文学は緩く組まれた星座のようなもので、かしっとした定義はないと思います。
 そのばらばら性というのが、今、あらゆる場面で、あらゆる事柄で、必須のこととなってしまいました。身体に共通性がないという最初の話しもそうです。川野芽生は、その軛、その枠と関係なく、星々を(詞を)使って、世界を描く方法を編みだしている。下手すると一策ごとに編み方が違うかもしれない。だけれども『奇病庭園』は、本能的に幻想文学だと認知します。(それを証明する言葉とロジックを今は持ち合わせていません。ただの勘です。)幻想文学の系譜にはないけれども、幻想文学——。今のところそれしかいえません。
 言葉は星座に組まれないものがたくさんあって、今は地上が明る過ぎて見えない星がいっぱいあります。言葉は組み換えれば、読み替えれば、まだまだ無限の可能性をもっています。川野芽生はそれをしているのだと思います。

Coda——。
 ここまで書いてきて気がついたことが一つあります。奇病じゃなくて畸型庭園じゃないのと、思っていましたが、やっぱり奇病なんだと。
 テロリスト・川野芽生は、奇病のヰルスを読者の頭脳に撒こうとしている。いや撒いている。川野芽生の書く物語は、ヰルスによって脳に、垂らされ、繁殖している。
 それで良いと思うし、素敵だと思う。分かってもらう必要はない。分かったと云うもの思うものほど、その内容の真摯さには触れない。触れて変化をしようとはしない。変化は脳に垂らす血の乳でしか育たない。

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