『ミて』(158号)と『さて、』(12号)フラッシュメモリー

小説が読めないことに気づいてから、どうにも仕事がはかどらなくなった。小説が読めないだけでなく、詩も短歌もちょっといけない…という億劫な気持ちになる。情けない話で、松岡正剛が千夜千冊で悩みもなしにつらつらと、読み解説していくのを眺めていると、ああ、編集者でもこうも違うものかとしみじみ思う。しかしながら、読みたいという欲動はないわけでもなく、手に取ったり積んでみたりはする。
そんな折り、心の頼りにして楽しみにしているのがリトルマガジン『ミて』と『さて、』だ。知り合いが関与しているということが親しみが助けになっている。読んでいると、本に向かう動機が立ってくる。
『ミて』で連載していた新井高子さんの唐十郎論が『唐十郎のせりふ』という本になり、その本によって、唐組の芝居をより楽しく見ることができ、なおかつ唐十郎の戯曲を読んで戯曲を走る言葉と身体のことを考えたり…そうしているうちに、近松門左衛門の『冥途の飛脚』を文学として読み、人形の身体が如何に戯曲を変質させていくかを想像したりするようになった。そんな風に自分を愉しみの裡に誘ってくれる一言がある。
『ミて』と『さて、』の誘いの一言をあげてみる。

158号の巻頭は藤井貞和の『黒雲・メモリー』
「緑の泥から一本また一本」 
  あぶない 
神話の数が一つ、足りない。
ただ、「一つ、足りない」という言葉がリフレーンする自分の中で。
それ以上のことは文字にも感覚にもできない。ただ足りない、一つ足りないということが…入ってくる。
藤井貞和の和歌の本を読んでみようと思っている。


『ミて』には樋口良澄が、西脇順三郎についてを連載していて、楽しみに読んでいる。高校時代の国語の教科書に載っていた。西脇順三郎の詩の、『天気』 (覆された宝石)のやうな朝 /何人か戸口にて誰かとささやく/それは神の生誕の日。/覆された宝石
ぐらいしか、読んでいなくて、これまでそれで済ませてきた。
高校時代の国語の時間に、クラスの中でも目立った存在だったMが、覆された宝石とは…と、国語の教師の説明に対して、異議をとなえた。宝石箱がひっくり返って、散らばったんじゃなくて、燦燦した宝石が内側から覆った状態なのではないか。宝石が内側から捲り上がって、くるっと反転した状態…聞いていた自分はそんな風にMの言葉を受け取って、なるほどなぁと思いながら…そうなのか?とも。しかし教師はその後、ちょっと待ってくれと言ったまま、教壇で絶句して、授業最後まで無言のまま考え込んでいた。僕らの学校の授業時間は大学並の90分で、大好きな国語教師は、真面目なことにその時間いっぱい迷走していた。その事件で、西脇順三郎の言葉は深く刻まれ、それ以上に詩句に立ち入らないまま、好きな詩人としてある。全部読んでみたら…今の自分が自分に言う。それは、樋口良澄の連載を読んでいて募ってくる思いだ。

+『さて、』
は、森島章人が知り合い。

抱かれたときほんのすこしの欲あれど封印さるるきみは人形
人体(からだ)こそ王国なるをいまここにアンドロジーヌ妹の星図を
戴冠せるアナーキストら積分の頭蓋のなかに流星雨あり

これは星、裸にして
 _____ヘリオガバルス頌

の中から3首。ミーハーに。自分にかろうじて分かるものを…。この短歌は人形作家・中川多理の写真展「貴腐なる少年たちの肖像」のときに、森島章人が朗読した歌が元になっている。
ペヨトル工房という自社の名前もアルトーからなので、森島章人の精神は、深く、しかも微妙なパラレルワールドにいるので、成りえなかったもう一人の自分の像をもっている。そう言うのは、余りにおこがましい今の境遇であるが…。

そして、
ぎりぎりの言葉を盗むな 森島章人
という文も掲載されていて、この文については、自分がこれから歩んでいく道の、混迷の中に、一つの決意を描いてもらったような文章で…この文の先に自分の晩年がある。と、思われる。内容を紹介する力量はないので、深く身に刻まれ、そして何か行為する、思考するということがこの文章を書くような森島の延長にありたいと…。

真冬日の結愛(ゆあ)ゆるしてくださいゆるしてください  
                          宮坂静生

「ゆるしてください」は、この女児が書きつけた必死の叫びであり、最後に発した言葉でもある。私には、女児の悲惨な状況や必然性を抜きにして、見ず知らずの他人が安直に使って良い言葉だとはとても思えない。(森島章人)

私が言いたいのは、簡単なことである。「ぎりぎりの言葉を安易に盗むな」——これに尽きる。(森島章人)

森島章人は、非常に丁寧に静かに、怒りをもって傷をもって身体から放たれた言葉の…その言葉の不引用性をといている。いや引用ではない窃盗と言っている。自分も盗まれる側にたっていて、それを解決できなまま鬱に墜ちていっている。母親と実家とそして人生を書けて歩んできた果てに体験としてプレゼントされた言葉をだ。ここで取り上げられていることとは、だいぶフェイズが緩いことではあるが、そのことについて言葉を使う側は、あるいはそれを利用して本を出版している側は、何も言わない。森島章人が毅然として言葉の、身体や命を削って表出した言葉の二次使用に対して異議を申し立てている。本歌取りとか、二次創作とかそのキャッチフレーズですべてを許している、言葉使いたちに、すっと匕首を突きつけた。僕の感想は、僕の体験による感覚であるので、ぜひ、森島章人の原文を読んで欲しい。森島章人は、言葉によって真摯にそして正確に問題をえぐり出している。

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