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裏浅草通信/裏浅草で蕎麦を噛む


蕎麦を噛む。
鬼平犯科帳の「土蜘蛛の金五郎」に田舎蕎麦がでてくる。
下谷の車坂町代地に[小玉屋]という小さな蕎麦屋がある。いかにも頑固そうな五十がらみの亭主と女房と、一人息子と三人だけでやっているのだが、蕎麦は太打ちのくろいやつで、薬味も置いてなく、流行の貝柱のかき揚げを浮かせた天麩羅蕎麦などはもちろんのこと、種物は、いっさい出さぬ。ただもう、太打ちの田舎蕎麦一すじにやっているので、常客といえば、ごく限られてしまうわけだが、「十日も口にせぬと、おもい出すというやつだ」と、妻の久栄にもらしたことがあるほどに、長谷川平蔵は小玉屋の蕎麦を好んだ。(『鬼平犯科帳』池波正太郎)

久しぶりに「おざわ」が開いているのに、うまく出合ったので、太打ちの蕎麦を頼んだ。「おざわ」はどじょうの「飯田屋」の側にある。だいぶ前に夜想で食べ物について特集をしたことがある。片桐はいりが浅草を食べ歩き、それを畠山直哉やアラーキが写真にした。浅草には表・裏の食べ物屋があり、天麩羅・表『大黒屋』裏『伊勢屋』、どじょう・表『駒形どじょう』裏『飯田屋』、甘味・表『梅園』裏『梅むら』…。廻ったのは裏の方。地元の人は裏を良く使っていた。味も…いい感じ。だけれども今どき、その表裏は成立しなくなった。『伊勢屋』も相当にあやういし、あ、そうそう同じ土手にあるけとばしの『中江』もちょっと…。『梅むら』の豆かんも感動ものというにはほど遠い。『飯田屋』は一時期、?マークが付いたが最近だいぶ持ち直した。ついでに鰻を言えば『色川』もご主人亡くなって駄目。なんでこんなことになるのか…一つには、後継者が問題だが、それよりも、食べ物の枠組みとかあり方が、根本のところで変わってきている。例えば蕎麦を噛まずにたぐるという食べ方をする人がどのくらいいるか?ということだ。それは、自身のことでもある。若い頃、蕎麦は噛まずに呑んでいた。自分は、鎌倉から出てきたお上りさんだから、蕎麦に食べ方あることを気にしたことはなかった。どうにか東京、江戸文化になじもうと、ちょっと必死になっていた。誰の本を読んで知識をいれ、そして池ノ端薮でとある二人の姿を見て、健気に(今思えば…)それを身に付けたのだろう。
一人目は…栗崎昇。
池ノ端薮で、足を組んで、蕎麦を二枚たぐって、一合呑んでさっと消えた。足袋を履いていた。同じ格好をしてお茶を試飲している写真を「BRUTUS」で見たから、すぐに誰だか分かった。「BRUTUS」に写っている写真を頼りに、京都中のそして宇治まで足を伸ばして、当てはまるお茶の店舗を探した。そんなことに時間をかける若さが自分にもあったのだ。さて、それは京都の寺町通りにある柳桜園茶舗…だった。突き止めるのに、1年ほどかかった。何が良いんでしょうと聞いて、「朝日」を勧められた。そして…。ちょうど今日は、新茶が店に来たところで…と、急須にお湯を少々入れて、蒸らして一滴、小さな器を出してくれた。細かい言い方は忘れてしまったが、今年の朝日の印象がそこに集約され、私たちもそれを呑んで、あ、今年はこんな感じなんだと思うんですよ…と。その咄を東京にもどってデザイナーの奥村靫正さんにしたら…これでしょって鯉が滝を登っている絵柄の小さな6客セットの器を見せてくれた。試飲用の小さな湯飲み。…そして粋なことに奥村さんは「使って」とプレゼントしてくれた。そうやって人は人を鍛えていく。毎年、「朝日」を買いに行っては、新茶の味を…今年のは…とかやって遊んでいた。テイスティングの器は、けっこう、茶のいろいろを左右するので、大切にしていた。今、お茶を作るようになってテイスティングの重要性は、さらにました。テイスティングでお茶を作る…そんなことの原点は、若い頃の体験にある…いやいや、話は外れていく…戻して。二人目は…

柳家小さん。
池ノ端薮の座敷に、五六人で上がってきて、ちょうど自分は巣ごもり蕎麦なんていう、ちょっと変化球を食べていた時に…斜め右前に柳家小さんが、弟子を前に坐らせて…自分だけ蕎麦を二枚たぐった。時蕎麦を演じるように…美味しそうに、三箸で…。ほれぼれとする。一人前になったらこれを食べられる。そのために芸としての蕎麦の食べ方を覚えるのだという、よく言われている[あれ]が目の前で行われていた。わざわざ呼ばれて小さんさんの前に坐ったのは、一番下っ端そうなお弟子だった。食べたかったら落語を巧くなれと——。小さんたちも蕎麦を食べたら、あっという間に消えた。蕎麦屋の長っちりは江戸の恥じ…お酒は二合まで、お茶はでない、お水だけ。汁が辛くて少ないのは先だけつけて食べるから。その汁をさらに少々残して、蕎麦湯で楽しむ…。
上手をまじかで見ると、下手でもどうにかなるものだ。三口、のど越し噛まずずるっと啜るという食べ方をいつの間にかするようになった。死ぬ前に蕎麦を噛んで食べたかったという落語の下りを聞いたことがあるが、自分そんな風には絶対思わないよ——。と信じていた。東京に、江戸の匂いのする下町に、身を置こうとしたのだから、最低、このくらい…その頃、神田薮、雷門薮、池ノ端薮の三軒と、時折、蓮玉庵…あ、まつやのカレー南蛮もかな…通っていた。圧倒的に池ノ端薮を好きでいた。雷門は汁がちょっとストレートに辛い…神田は蕎麦が…などと今思うと信じられない生意気さで…いろいろ思っていた。池ノ端を贔屓した。で、或る日、突然、池ノ端薮が姿を消ことになる。なんで閉店したのか今だに分からない。聞いても誰も答えない。ネットにもでていない。謎——。そうして、蕎麦難民になって、どこでも食べるようになった。いや実はもともと蕎麦は相当に好き…なので…立食いもご愛用。あと、歌舞伎蕎麦、かき揚ダブルもたまらない。で、池ノ端薮が消失してから、蕎麦を噛むようになった。あるとき、浅草橋高架下の蕎麦屋で、噛んでくださいよ、噛んで食べてもらうように蕎麦をうっているんだから——と、言われ、ああ、そういうことかと思った。食べ物の価値観というのは、時代によって変化するのだ——と。枠組みというのは、もしかしたら10年位のことでどんどん変わるのかも…と思った。行ったことのある蕎麦屋を全部、噛んで廻ってみた。意外に何かが変わるということはなかった。蕎麦は変わらず蕎麦である。変わったのはきっと自分の蕎麦を食べる姿勢なんだろう。
蕎麦を噛むからおざわの太い黒い蕎麦を楽しめる。噛まなかったら太打ちは頼まない、そもそも。だから良かったんだなと…。そしておざわは細い蕎麦も美味しい。出汁も。天麩羅もちょっと好み。おざわでは産地別で蕎麦を打ち分けている。自分の中では、産地別の楽しみはお茶と珈琲とに限られて…いやいや最近はフルーツの産地別もするようになった。蕎麦も産地別の愉しみができればな…できるかも。しみじみ思った。それもこれも蕎麦を噛むようになったからだ。でも池ノ端の薮が今あったら、そこでは蕎麦を呑むんだろうな…そんな自分もまだきっと残っている。

Ps。問わず語り的に言えば、神田の薮は火事を出してからこっち蕎麦も軟らかく接客もスマートになってよく出かける。大晦日も行く。大晦日はあとは、室町砂場。ここも相当に好き。雷門薮もかなり頻繁に行く。新蕎麦のような香りがいつも蕎麦からする。緑に見える蕎麦が愛おしい。あと、浅草で、好きでふだん使いするのが[いちかわ]。お酒を飲むところだけれどおつまみと蕎麦が抜群。[尾張屋]では、かわり蕎麦とハイカラを食べる。浅草の立食いは、[文殊][富士そば]も食べる。立ち食いかき揚蕎麦はとにかく好物の部類。午前中だけ居る足踏みのオジサンが居る「歌舞伎蕎麦」。蕎麦の話に終りはないので、今日はこれぎり。

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