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「ロールモデルが欲しい」から、「自分がロールモデルになる」へ

長期休暇明けの日は、子供の自殺が増えると、どこかの記事で読んだことがある。大学の頃、家から電車で1時間半かけて通学していて、人身事故で電車が遅れることは日常茶飯事だった。遅延に苛立った人々が、舌を打つ。この社会の空気が、好きではなかった。

卒業して、企業に勤め、自分が「こうなりたい」と思える人々を探していた。新入社員の頃は、先輩や上司、というか周りの人々が、どういう想いで仕事をしているのか、社会のどのような問題を解決しようとしているのか、どういう人柄なのか、という点より、営業成績が良いから、プレゼンが上手だから、勤続年数が長いから、何となく昇給している人々に対しても、「あぁ、こういう結果を出したら、上にあがるのか」とあまり深く考えずに、この人々はすごい人々だと思っていた。でも、具体的に自分にとって「こうなりたい」と思える人ってどういう人なのか?と聞かれるとうまく言葉で伝えらえないくせに、愚痴を聞いたり、人々の噂話で盛り上がる飲み会で「うーん、なんか違う。」と勝手に決めつけていた。

結局、自分に余裕が無かったのだ。ここではないどこかに、何かがあるような気がして、相手にそれを求め、「でも、何か違う」「なんで、『こうなりたい』って心から思える人が周りにいないのか」と環境のせいにする。自分に余裕が無いと、楽なほうに流れてしまう。この環境ではないところに、きっと自分が求めている場所があるはずなんだと。

ふと、思った。このような「周りの環境のせいにする」大人が周りにいて、はたして子供たちは幸せなのだろうか。選択肢すら持たない子供たちは、より周りの大人たちの感情や行動の変化に敏感で、感受性がとても豊かだからこそ、より多くのものを背負っている。私は、いつまで「ロールモデルが欲しい!」と他人に求めているのだろう。

「世界には、自分の想像を越える素敵な世界が広がっている」「あなたの人生には、計り知れない可能性と希望に満ち溢れている」これを、体現する大人になることが、何よりも自分に求められている気がした。まずは自分が楽しまないと、始まらない。

「こうした生き方もあるんだよ」と、言葉ではなく、自分の生き方から感じてほしい。そんな大人たちが周りに増えてほしい。自分が、そういう人々と出会うために、紆余曲折しながら、いろんな場所へ出かけながら、会いたい人々に会い続けながら、ようやく少しの余裕を持って、「私は自分の人生を楽しんでいる」と体現できるようになったから。

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