重量が出ないと落ちないよね(*^^*)
いつもが『順』なら、『逆』から入ってみる事、かなりざっくりと今の「ココ」という所からなら言葉がつく。
約3000字です。長めなので時間のある時に(*^^*)
6/16メモ
自分の自覚する意識側に記憶(記録)として残る事なく、でも確実にメモリーされ残っているもの、それが”優位”な状態に感じる。わかってくるから目に映るものに注意するようになっていく。
それは、無意識の言葉に確実に乗ってきてしまうから、優位を言い換えて活発化している、とかストレートにこちら側(現実世界とか、顕在側とか…)に反映している状態のこと(ニュアンスで掴んでいるもの)。
6/16メモ
”解釈”のウラ側に、”自分”が隠れている。
その解釈に至る、隠れた支配。
アタマの働きでなく、私個人の反映でもある。
自分が自分に気づくには、ズレてからでないと分からない。
その時は一致しているから。
6/17メモ
少し距離が近づくと―――。
近くなると、遮るものがなくなると”対話”が出来るのかもしれない・・・。
夢、という空間に於いて。
6/17メモ(※これはその後に、現象を色々と思考した※)
”全部”、自分事として入って来ちゃうのよ。
だからニンゲン界で言ったら、”勘違いヤロウ”となる事だってある。
【主語がない】
ここで湧いてきたよね、全体の、”誰が―――”なんて全然聞いていないのよ。
潜在意識は主語を理解しない(出来ない)とはよく聞く言葉だったなぁ、と、そこへも結びついてくる。
潜在側が優位に受け取る人(々)がいるという事。
一般的(世間的)な入り方だと、逆に混乱するケースもあると感じた。
ただどちらから入ったとしても、”自分”という根底を支え続けているモノを、整理・確認しないと、本当にただの”勘違いな人”になってしまう事は確か。
進もう、と思うのであれば、”自分”に会った方が〇
6/17メモ
”選んだ事”のウラ側。
光ばかりじゃないから。
光に当てたい所だって出てくる。
それを、どこで落し(どころ)、着地させてバランスを取るか、という事はしばしば、たまに、考える。
以前考えた時には、|(タテ軸)の中で、どこまで”落としていくか”、という事のバランスで視えていた。
どこが心地良く、どの辺りが程良いのか。
ニンゲン側の思考に近づくと、色々を見せられる。
その度、考える。
6/19メモ
”当てる”ということ。
とんちみたいになっちゃうけど。
フィルムになっている「日常」に、その”ワンシーン”、その刹那に照射させるスポット(ライト)。
そういう事でしょ?
流れ続けるガラ、照射する注目。意識を向けた瞬間。
6/20日記
重ねword:あなたにとても興味(関心)がある
そう捉えたのだけども。
最近の私の視方(観方)では、
【今、『私』が、強くフォーカスしている事】
と言えそうだ。
『私』➡脳の無意識側 という事
理由は、表の私=意識側は、他人の言葉として受け取って聞いていて(捉えていて)、”(私が)言われている”と、解釈していたから←ココ超重要
この”私”が、無意識側の『私』に変わっている。
無意識は主語を持たない(分からない)という考えがあるけども、この現象から観て言葉を素直に付けていくと、そういう事になる。
言葉で発する”私は―――”、の主語が無意識側と感じた結果と思い、記す。
ありがとう、材料をくれて。感謝。
無意識側→”感じた”は、後に経過を追ってズレたタイミング(今)で捉えて初めて言葉がつけられる。私が私を視るには、その瞬時であるならばそれは”ウソ”という事になるはず。
だから「事後」でいい。
ただの結び付けじゃない事は、私がよく知っている。
メモ自体は、他の流れを含めた少しガチャガチャしたものもあって、それはここでは削いだので、意外とこじんまり収まりました。
このまま、少し補足・説明を書いてみます。
※独自に読み解きたい方は、読むのは控えて下さい※
・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・
私は大きく捉える、要点を捉える、というものの見方を当然のようにします。「具体的に知っていこう(理解しよう)」という時に、抽象度を下げていく。
まず、”全体をザッと読む”というこの捉え方が、「要点しか押さえない」になっている訳で、例え相手が全体に発している事であっても、そこには『対私』という構図が自ずとあるのが、私の脳の日常的な使い方。
そして、抽象的な捉え方が自然な事なので、その文章に”誰それ”ときちんとその人の説明が書いてあったとしても、私はそれを「私事」と捉える事も多い。
抽象度では、かなりの一致で届いている(目にしている)事は、私にとって間違いのない事実、と思っている。
メモを書いている時は、その時の事をそのまま記したに過ぎなかったのだけども、20日は、「あれ、アレアレ・・・」と視方がその様にしか観えなかった。それが日記の内容。
表側(意識側)で受け止めていた事(言葉)が、いつも表の世界で客観的に見ていた『重ねword』が、無意識側が強くフォーカスしている事として、集中してきている、と捉えていた、自然と。
これに、説明する言葉をつけると、「無意識側の私」となった。
知識と照らし合わせたら、矛盾する説明にもなり得るのだけども、その事の説明は日記で書いている通り、「(私の視えた)現象から観て素直に言葉をつけた」という事であって、知識を極力持ち出さず、言葉は借りた状態。
そしてこの日記の最中には、
『勝手に区切っていた自分、同じもの(読み物)を目にしていながら、捉え方は都度異なり、解釈も自分のルールに当てはめている』事も視えた。
私自身がきっと一番感動したのは、日記の冒頭の、『あなたにとても興味(感心)がある』という内容において。
この言葉を、『無意識(側)が、”あなた”というこの私(意識側)に』言ってきた、と感じた事。
そんな事があるのかどうかは判らないけど、分からないから「無意識」という事は確かな事。その前提で少し考えた時、6/17のメモ、
少し距離が近づくと―――。
近くなると、遮るものがなくなると”対話”が出来るのかもしれない・・・。
夢、という空間に於いて。
に記憶は振り戻される。意識同士の”対話”、という様に。対話までは行かなくとも、あちらからの”歩み寄り”と言えそうに感じた。
メモは「夢という空間」としているけども、”状態”を考えれば、覚醒時でも可能な事。ヒューッと、スーーッと、その状態へ入る。
また、
”(私が)言われている”と、解釈していたから←ココ超重要
と自分で当たり前にしていた事に対して、どっぷり”思い込み”の中にハマっていたという事に気づいたから。「私が言われている」と、他人の言葉を内容によって解釈を振り分けて(選り分けていた)と自覚した。
そして、他人の言葉でなく、自分の言葉として届いてきた事は、やはり重要。ここの部分を、鏡と言ったり投影・投射という説明に置き換えられている部分だろう、と私は考えている。
(「思い込み」部分の掘り下げに関しては別記事にします)
・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・
この、文字にして3000弱、経過期間にして本当に遠い初期からしたら5~6年かかった経験の事をまとめたようなもの。それを更に簡単な言葉、「現実は自分が創り出している」と世の中は言ってしまう所への感想も別メモで表していたようだった。
「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!