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壊して生まれて。

「今日は何も買ってないよ?いいの?」

週に一度の買い物、来週までの分を色々アレコレ買うのが我が家のスタイル。

「うん、わかってる」

私は静かに考えながら品定めをしていた・・・いや。考えてなんかない。聞かれて初めて口にしながら自分の行いの”説明”ができていた。

いつものように「あれが食べたい」が小さい。いつもくまなく店内を回り、好きな物を入れる。それが私の在り方だった。甘いもの、お菓子も制限しない、バカ食いする訳でもないし、太る事も気にした事もあまりない。そんな事を気にして食べられない事、窮屈な生き方はイヤだった。

「”執着”、なんだろうな…きっと。」

主人に買わない理由を説明し始めた。

今まで好きに食べたりして、それによって身体が困るような状態になった事がない。それで何か起こるならそれでいい、とさえ思っていた。

今感じてみると、外では色んな身体に良い事、行い、生活の情報が溢れていていつの時代もこんな事ばかり、と少しイヤになる。結局「そんな事をして”良い状態”を保たなければいけないのか…」と。

それら両方を映し出した時に、自分の行いの結果が身体に表れて「病気」になったとして、その時に”対処”して自分を改めていく、のか、

今の未然にエネルギーを注ぐのか、というこれも結局どちらにしても「エネルギーを注ぐ」という事ならば。どちらにエネルギーを注ぐか、という事に天秤をかける自分がいて、葛藤という大袈裟なものでなく、静かに頭の中で考えている私がいたんだよね。


それらの生活を続けていたら必ず身体が病気になるかなんて、ハッキリ言って分からない、と私は思っている。

酷く食べ過ぎない、日々少し食べて問題なら世の中の人々はとっくに…となってしまう。

若い頃は痩せを維持したかった時もあったけど、同時に中年になったら少しふくよかでいたい、という望みを持って生きてきて、今だって標準体重もない、”やせ過ぎないように”注意するくらいだった。

そういう所から改めるつもりもなく、どちらかと言えば鍛える方に意識は向いていた(実際に鍛えてる訳じゃない)。

そんな自分が、自分に、とても小さく疑問をぶつけていた買い物だった。

「どっちがエネルギーを使うかって、病気になった方が使うでしょ。予防の方がいいよね(^-^)」

「うん、そうね…」

そういう主人はいつものように、少しお菓子などを入れていた。


会話としてはそれ位だったのだけども、自分の中ではより良く、楽にそして生きる事への執着なんだろうな、と自分を観ていて思った。

表では「生きたい」なんて思い考えたりしていない。”いつ終わっても良い様に精一杯”というのが、私のベース。それを少しいじろうとしているのを自分で感じた。

実際終わるなら終わって悔いなしだけども、生きているこの”瞬間”に於いてはやはり必ず、生きる為の行い、「生きたい」を前提にしているんだろうと思えた。

『今まで何もなかったからこそ』失うのが怖くなったんだろう。

健康でいたい、私の発見した「執着」だった。

やべぇ、悔しいけど私が少し利口になってしまっている。

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書いてやっぱり思い出すものがある。

『いつ終わっても良い様に精一杯』

これは私の若い頃の「生き方・あり方」で。それを少し撓みを持たせる生き方に変えるきっかけになったのが、20年近く前のうつ病だった。

”変える”と言っているものの、完全には変わっていない事も判ったし、きっと「ギュッと」する流れを結局は細々と作るのだろう、と考えている。(それが約10年に一度なら逆に有り難い変化と思える)

ただ同時に、”更年期なのか?!”に始まり、”潜った10日間”などで振り返る事で、その後に起きる「自分の事」も判っている。

必ず、ヒビを入れて壊し、新しい在り方、”自分”が生まれてくる、新しい流れがまた作られる、と知っている。

何か特別な事を始めようとかも何もない。けれどもとにかくいつも「その状態」でしか掴めないものが必ずあると、そこは私にとって、とても大切にしているタイミング、と先を楽しみにする私がある。

執着せずに、眺め続ける。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!