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意識すると自然でなくなる…

朝のヌボータイムでメモしていたのは改めてこの事だった。


受け取るモノ(カタチ)が異なると思っているのは、この「カタチ」を決めてしまうから。
それが、こう入ってくる、とかこんな風に…など、限定された表現・カタチを指している。
このカタチがなければーーー?
全ての人に、全ての人が受け取るモノは等しくなる。違うのは場所(環境)だけ、という事。
この環境は”自分の意志”で変える事が出来る。
自分の行動(努力出来る所)で変わるモノはあるのだから、そこは認める。


「カタチ」を作らない事。

そんな事が頭をよく過るのだけども、ちゃんと「正反対」も私の元に届く…。

たまたま目にした仏教の考え方という所から、「煩悩の塊が人間というものである」、というような事を知らされると、

「(自分が)そんな事を思ってる時点で…」と唖然としてしまった。少し大きな範囲で観ると、”カタチを作らない事”と、何度か意識に上がっている時点で偏りに入っているから、”仏の教え”が届いている。

上手くバランスしているなぁ…と苦笑するも、この流れを観て自然と生きているようでいて、やっぱり簡単に”やろうとしてやっている”と気づかされる。


もう、こんな事に囚われ始めたら小さく仕上がってしまうから、「や~めた」と、意識からは外してしまうけど、「そう感じた」という所でピタッと留まる事は、やっぱり簡単じゃないんだなぁ…。

「境」がないことは、私=全体、全体は私、となって、私に感謝すれば全体へ、全体に感謝すれば私へ、の感謝と同じ事、感謝しかない!なんて思っていたのだけども、アタマの色が強かったんだな、悪い事じゃないけども。


昨晩は主人も、冒頭のメモ内容とほぼ同じ事を言ってきた。使う言葉が違うだけで、言ってる事が同じ。

この、アタマでの理解から色々な事象を経て、実感が積み重なり器が広がっていくんだろう。

初めから”イヤな事”も何でも来い!とはなれないもんね。イヤなもんはイヤだし、これが好きだ!「自分は○○だ」という主張は大切だとも思う。

それら両極の自分がある事を知りただ認めていくだけで、結果的には収まる所に収まる。


際立ったままの”個”として存在するも、掴み所が”?”な在り方も、自分では意識しなくても、にじみ出るその「在り方」が、周囲の人のカタチも決める。

何より、自分が自然でいる事で、周りも自然でいられるんだよね(*^^*)

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!