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一致する/逆になる

そろそろ、”シンクロ、逆になる”の話を書いていきます。


文中、”私の無意識の一致なので”私”でない、私の思いの”外”とに一致している。”と書いているのだけども、簡潔に言えばそういう事だけども、私は今まで自分の無意識部分を「私」の範疇としてシンクロを表現していて、この時初めてストレートに、「私でない」とこの様な言い方をしている。無意識をこの私に入れようが入れまいが、シンクロする状態に変わりはない。

自覚しているのが意識、”この私”となるのだから、それ以外は無限に無意識が広がっていると考えれば普通の事。無自覚に線引きしている”私”という存在とそれ以外を区切るモノがそこにあり、その無意識の場で起こることを、区切りのこちら”私”から見ることで、”一致”という概念が起こるだろうと思う。”私”の範囲での事ならば、「知っていること」として処理できると思うから。

そして全く「外」の、関係のない事は、いくらずっと見るこの”私”がいても、分からない・知らない、一致不一致の概念にはならない。頭の中で結べる線がないから。

(今回では、外の何かを拾う・合ってしまうという事には触れていない。それは”あるのだろう”という事でしか表現できない範囲。”私”の感覚を超えるものだから。逆にもしかしたら、”私”というものの感覚が拡大するとか、鋭くなるなどの事が起きれば、今はまだ遠すぎるその”感触”は掴めるようになるかもしれないけれど、今は”分からない”しかない。ただタイミングが合うという事だけしか言えない)

人の世界でのシンクロでも、それを目指そうとしてやる事では全くないことは言うまでもなく、その状態では偶然でしかないと私は考えている。意識してしまうという事は、もう性質を変えてしまっているものであって、不自然つまり意図的な結び付けで考えられている(ことが多い)、という事になる。

無意識に一致するという事は、極力”私”が排除された状態で起こることと考えるので、意図が入ればそれは違うどころか、「そうはならない」ことが多いだろうと思っている。

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「表すと逆になる」というのは、過去に何度か書いているのだけども、簡単な例え話を。

何日も、同じ場所で、同じくらいの時間に、青い車がここを通るのを見て知っていた。私の中で「そうだ」とその状況を確信する。

『この時間になると、青い車が通るんだよね』

自分の確信の元、口に出すと…、通らない。私の中では”えっ!?”でしかない。

これだけでなく、例えば「これは右だよ」と言ったものが翌日から左に変わってしまうとか。この手の事は、子どもの頃から経験があり、「話すと逆になる」ということを、私の感覚的にはしっかりと記憶されている。

そして、その記事に書いた時の感覚もしっかりと憶えていて、ノートに記録として書いたのももう何日も経過してからだった。表したら逆になってしまうかもしれない”、という記憶があったから。これだけ様子見したあとなら流石に大丈夫だろう…、そう思って書いた。しっかり奥の気持ちも持ちながら。


もっと前から、おむつも付けなくて平気になっている、多尿も減っている。継続をしっかり確かめてノートに書いた―――、その翌日はどうした?!という結果に反転してしまう。それを目にした時、「書いてしまったから(表したから)」というより、何日”安定”として見届けたつもりでも、この「書こう」という時点で、事は恐らく反転することが決まっている、と逆に思った。

先の青い車の例で言えば、「言おう」と思った時点で、”もうすでに逆”という事を拾ってしまっている、ということ。

それが本当かどうか、人の感覚で分かるという事はムリ、今の所の私には出来ないので、その現象からこういう事だろう…という推測になってしまうのだけども、あまりにもそれは結構な確率で起こる。


ただ、全てがちょっと思った程度でそうなるかと言ったら、全くそんな事はなくて、そこにそれを感じる・発する自分の中の「場」、奥まった所から”そう思う・感じる”なんていうものがあるのだと思っている。

この奥のところは自分で、そんな感じ、とか、何か…そうだ、とか。

そんな、言葉より”核心”と繋がっているものかもしれない。

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別目線で言えば、”逆になる”話は、単にそのどちらかで言えば、いつも確率は半々という事なので、書いたからどうこうの話では全くなくなることは確かと思う。

少し違う目線で観たいのだけど、この「そんな感じ」「何か…そうだ」という様に感じるその時・その状態というそれが、”真ん中”という意味で、逆から言えば、内容がどうであれ、”私”が放つこととこれから現われることとの間でプラスマイナスのバランスが取れている状態、と考えたらおもしろいと感じた。

言い方を変えると、”その感じ”に言葉(向き?)を付けて行く(結んで行く)時の”芽”とでもいうか…。”私”によって”思われる”ことがなければ、傾きは大きくなかった。”思い”が付くことでどちらかになる。思いが発生していなければ、反転も起こりようがない。


バランスが取れているという考え方をすると、先の話題の”シンクロ”状態は、この「逆になる」の現象と裏表または反対側の位置にある様なものと考えられる(シンクロという現象の内容自体に”順と逆”(良い悪い)と捉えられる様なものはあり、それとは括りの異なる話)。

「シンクロ」が無意識を使い、それと一致する話なら、「逆になる」は、意識を使って顕れようとするものがそこにある、と捉えられないか・・・。それを”逆になる”という表現をするのは、あくまでも意識を持ったこの”私”という存在による表現なのだから。

これはまだ、仮説。

意識に上がったので、これから旅が始まるのだと思う(*^^*)

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!