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今日は思うままに。。

私たちが、知っている事に留まりたいのは、もちろんそれは安全のため。

その外なんて、こわいこわい。

で、たまに考えるのだけど、外の何か、その対象が”怖い”というなら理由と結ばれるものだけど、意外と違う理由と結び付けてそれを”怖い”ではなく、ただ”避けている”という事が、人の世界にはあるな、と。


でもとても不自然に感じたのは、”世界”が全く違う話なのに、解釈・括りは同じに捉え、それによって、現実世界の行動ができない、という様なものの話、たまたま目にしたニュース記事のこと。

現代では、確かに本当に、ネットという空間がまるで”リアル”の世界のように脳が錯覚する処理が、当たり前にされるから。現実も仮想も脳内で処理するには同じ事…。

処理は同じでも、現実に触れる世界と、その言葉だけが流れる世界とでは、実体の存在の有無がちがう。その言葉の世界に引っ張られて、見えない押し込みを感じて、実動することを止めてしまう選択・考えになるというのは、大分違和感があった。


このリアルと仮想を切り離して考えていい所を、離せない位に同じものとして処理しているから、同一の世界として判断されている様に感じた。

確かに情報とはいえ、その向こうは”人”かもしれないけれど、それは直に会う人でもない遠いどこかの人。それを気になってしまう事で役立つ行動ができなくなるという事が起きてしまうなら、これは間違い。何かを不自然に結んだ処理がなされてしまっている様に感じた。

自分がやったことをわざわざSNSで公表する必要もないし、そうしなければ何かを言われることもなくそれでいて、ただ世に役立つことはストレスなく当たり前にできる。それでも”公表する”ならば、それはそうする事によって得たいメリットがあるから…。その狭間でスムーズでない状態が生まれる。


全く何の関係もないニュース記事に対して、勝手に私が言っている話であるのだけど、人はその言・動、行いとのズレを違和感として簡単に見抜くと思う。

自分がそう思ってやる事は、外の誰かの言うことの判定などと一切関係ない。それを世に知ってもらう必要もない。何か目的にしている事と、理由・実行・選択…が、バラバラだと違和感として外に伝わってくる。


「以前見てた動画がまったく上がって来なくてさ…、見れなくなっちゃって。すぐにそれが変わっちゃうよね(^-^;」

YouTubeで以前は見ていた動画がおススメに上がって来ない、という様な話を主人がした。その時感じた事を伝えた。

『かなり精度が良いんだよね、多分もの凄いスピードで”その人”を学習してくれるんだろうけど…、それが早すぎるとかえって、”ズレて”くるよね(笑)』


例えばちょっとした興味本位で覗いた動画があったとして、いわゆる”脇見”程度の関心しかないのに、それ関連が次に上がってくる。”関連”だから全く関係ないものも含めて範囲を広げて押し込んで(ススメて)くるから、余計に”余計なもの”としてこちらは感想を強くする。

主人の話から会話した内容であるけども、その「ちょっと」の微細な部分にまで反応を組み込まれてしまうと、こちらの”人”としては、動きが細かくついて来られ過ぎて、それこそその場だけの”興味”という程度まで反応してしまう、読み込むならば、人にとってはかえって使いづらい様に感じた。

余計なものの押し込みは、それらへ関心を持たせるため、という様に考える事はできるけども、軽い反射的なそれにまでも一々”対応”するような細かさは、機械は得意かもしれないけど、人にとってはそんなに嬉しくもない。


細かい詳細よりも、もう少し括りは大きめの、例えば機敏な反応がいちいちの”都度”ならば、それは2~3回ほど見られているという様な、”重ね”が入って「その人の関心」として読み込む程度の方がその人にはきっと合っている。

人の行動の中には、その時だけ関心を持つ”単発”もあるけども、心地良いのは、もう少し慣れ親しむような”くり返し”の中にあると思う。

私は機械のことは分からないけど、単に”都度機敏に対応する”という動作より、人の”くり返し”を見つけるために、何度かは見送り何度目かで括る(捉える)という方が高度な働きのように思うから、「機械のペース(出来ること)」に、人側を合わせてしまうという様な方向ならば、ちょっと凄い話だな…と書いてみた。

いや…、そんな事もわかった上で、人を少しずつ機械のリズムにさせてしまう目的があるとすれば、それはすごいことだ(笑)

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!