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コンポンだから

また少し、昨日の内容から流れている事をツラツラしていきます。

自分以外の”他者”と関わる時、それは色々な刺激を受けるもの。

それは、自分がそれらに対して「どの様に感じるか」という目線はあるけども、見る場所を替えれば、「その他者とは」という観察になる。もちろん、それらどちらも「この自分」というものを通してしか観る事はできないのだけど。


自分と言う人は、どう間違っても”他者”という人にはなれないので、そういう意味の”マネ”ではなくて、私がずっと追究し続ける「意識の在り方(持ち方)」という視点で観ていたもの、と言っても良いかもしれない。

観察し、それが素晴らしいと感じる事ならば自分の中に取り入れてみたり(置き換え)と他者を観ながら結局は自分側へフィードバックしていくのだけども、「凄い」と言われる人たちは、知れば知るほど自分との違いが明らかになるだけ、という事に結局はなってしまう…。


だから”腐る”のではなくて。

その通常は、自分が観て感じていることの”判定”に使っている、源泉の方に目を向けると、「浮き上がるものがあった」という事だった。それが、「やる」ということの「当たり前」のレベル。

変えない芯の強さと、柔軟な手段変更。変えざるを得ない事は含まれるものの、”達成”しか見ていない強いフォーカスが、本当に強烈だと思った。そこは「変えちゃいけない」踏ん張る所なのだと、いつもどんな時もしなやかな柔らかさとは異なる、圧倒的な「執念」のようでもあると思った。


昔、相田みつをさんの作品に散々お世話になっている頃に、私の中に刻まれた言葉たちはたくさんあると思います。

自分の中できちんと”卒業”させている為、手元に残してあるのはこの2つだけだけども、すぐに出るのは、「枝葉はどんなに揺れてもいい」というもの。そんな言葉と上記のそれらの行いがとても重なってくるのです。

みつをさんの言葉では、「根」という言葉がとても印象的で、もの凄い強さを感じるものの、表れ見える部分である”枝葉”は、とても柔らかくて、その対比が人の中の全てを現わしている様に見えてくるのです。


その1本が時にとても悲しく、時にとても軽やかで。過去に何度も自分が救われる想いがした。

根をしっかり張れないと、枝葉は大きく揺れる事すらできない。

根を大きくしっかりと生やし、それに準じて枝葉は揺れる事ができる。こと、行動に於いては結局「地道」という、どちらも”足元”の話と切り離しが出来ないので、ここは全ての基本。


必ず「見合った」学びになるようになっているから。”一足飛び”というものはないから。必ず釣り合いをとっている。

久々に読んでも最高にステキだ。

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「こんな今の時代に、”精神”なんて古臭い…」

数年前の一時は、その様な雰囲気もあったように感じるのは、私だけだったか…?

精神とは時代に関係なく、鍛錬が必要なところだと思うんだね。

それは、どれだけ技術が発展していっても、人が何かを”感じる”ことは、知識とは別に「事実そう感じてしまう」ものだから。

世の中に起こる事は、私たちニンゲンの思う「快適」な事ばかりではなく、仮にその選択をし続けたとして、それに慣れれば余計に”ネガティヴ”なことは自分にとって非常に大きな印象を与えてしまうもの。


私達は、自分の意識がどの様に出来事やその環境を捉えているかが、思っている以上に”見えていない”ので、その時には気づき難い。だから後になって顕れるダメージに苦しんだりもする。

そしてそこから少しずつ学び、段々と後手ではなく準備・対応をしていくようになる―――。結局、どこかで自分の内面の”上・下”の帳尻は合わされる。

その「幅」こそが大きなタテに揺れる変動を乗りこなす事になり、「アップダウンはあって当たり前」というその範囲を拡げて行くことになるように感じている。

強いな…、と感じる人は必ず「下」の見えない部分の深さを持っている。

私はそんな風に、人を観て感じている。


8/19メモ

言い方=表現の仕方が違うだけで、「状態」で見れば同じこと、は非常に多い。それだけ大きく括れるという事。

各専門というカテゴリー内によって、使う言葉が異なるので、それだけ”分化”してしまっているけども、「その状態」を観たものによって分かれて来た分化。

そういう事と思っている。

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少し話を広げると。

ものを知らない時というのは、「その言葉」そのものをソレと理解してしまう、狭い範囲において区分けされている様なものだと思う。自分の行いを振り返ると、非常に分かりやすく、今でもその様になっているものはたくさんある。

言葉というものによって、自然と分類し”それ”というモノというようにしか捉えていなかったという事がよく分かる。だけど、色々を跨ぎながらやってみると、「同じ」という状態でものを見るようになり、違うのは「言葉だけだった」という事が非常に多いという事を知っていった。

これが、”表現”というものだと思うけども、現在はもっとかなりタイトな感じで言葉に意味を縛り付けている様に感じている。


そして人は、その”意味”そこを感じるだけでなく、目に見えていない”空間(次元)”までもしっかりと区切ってしまっている様に思う。

言葉が世の中に多く出るという事は、かなりとっても、区切られるコトと思う。自分でも毎日書いていながら、文字に”窮屈”を感じる事がある時は、文字の余白の意味でなく、そこに所狭しとひしめき合う”区切り”を、意味の狭い範囲で散々感じてしまう事によるのかもしれない。

私達が思っている範囲以外の多くを処理している。アタマの中とは、何とも複雑。そしてその複雑から私たちはモノを見せられている。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!