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自覚の「外側」のこと

6/20 メモ

居場所・役割・目的

奥の方に、下手すればかなり遠くの奥の奥の方にあるコト(モノ)の達成の為に、”表面”は動かされている。

表面でみる役割、目的などのそれは確かにあるものだけど、その奥の本質部分が必ず強く出てくる。

時間をかけるかもしれない、始めは表面のソレで良かったものが段々削れ、又は少しずつ奥の方が強く表れてくる。

平時ではまず見えないから。

だから、何度も擦り、削り、ソコを炙り出す。

(絶不調に入る前のメモでした)


6/22 メモ

「あー、おいしかった~♡!」

”すっごい幸せ”を感じて、夕食のカレーを完食した。
おかわりもできるくらいの気持ちがあった。

食後は牛乳を一杯、飲んだ。

感覚をしっかりと掴めるという事を噛みしめている。意識して水分をとり、少しでも便意を感じたらトイレに行く。この習慣を身に付けさせている。


腸がゴニョゴニョ言うようになって動いている事は感じるも、”便意”のメインは殆どオシリにある。

腸のいつもの場所にも感じる便意はあまりなく、押してもそこに”ない”事は分かる。

腸の音を聞き、お腹が空いた声を聞き。
自分の声を聞く。

今まで聞いていても大して相手にしていなかったんだろう。いや、感じとる所が全く違かったんだろう…、そうとしか言えない。ちゃんと声は拾い、それをやっていたから。

だけど少し、”深部”を聞かされ、それを観ているように思った。

(この後から気に留めていた”メモ”を少し調べ始めていた)


6/22 メモ

久々、でもないけど、感覚的には久々にゆったりの入浴。

圧を感じないからか、”記憶”を外すと、何事も起きていない「今」がそこにある事を感じた。

解放的軽さ。
入浴の効果を思い知る。


6/23 メモ 

やはり、関係している。

21日に書き留めた五感「深部覚」、”圧覚・位置・振動”ということを、22日に再度調べていた。もちろん神経、脳の側面から。

でも当然得意の、外部世界とのリンクはなされていて、「私」が自覚するそれ以外の”外側”では、しっかりと感知している(?)と疑いをかけていた。


つい、「全てが自覚できる」と思ってしまう事を思い知らされる。

脳への伝達経路が異なれば、「私」は自覚のしようがない、と知識の状態から、この身を通して体験できたと思えた。

情けないけど、外部・内部との領域差で”実感”したのがこの”深部感覚”なら、もう仕方ないも何も「はい、わかりました」と、習うしかない。

やっぱり、たくさん経験ができている事に、かなりの”オタク”的存在の私は、嬉しさがあった。

オタクの自覚もなかったが(笑)

・・・

この最後の、メモの意味は。

苦しさにどっぷりハマっていた私は、当然外の事を見る・考える余裕はどこにもなく、”自分の出来事”として症状を追いかけていた。

その合間にポツポツと湧く”言葉”の中には、いつもの環境からは見る事ができない”自分”を見ているかもしれない、と思う部分があった。

「全くそんな事はない・思っていない」

こそ、疑いをかける。自覚がないから”否定”するのは分かるのだけども、「全てが自覚されている」と思っていること自体が、最大の誤りという事は、丁度気に留めていた”メモ”からも素直に受け容れる事もできた。


調べた中で特に気を引かれたのは、「圧」、深部感覚の「速さ」、経路の違い、という事だった。

外の出来事のことを直接何か、どうこう考える事は私は恐らく殆どないのだけども、以前から書くようにリンク・シンクロする事が多いため、どちらがどちらからともなくとしか表現のしようのない”状態”がそこにはある、と今日ははっきりと書きたいと思う。


以前から自分の中では推測という意味で「感じる」ものはあった。実感という意味は全くない。だからすっとぼけ続け、はぐらかして来た。何の根拠もなく、思い込みと言われればそれまでの事、単なる”結び付け”と思われる事もとても嫌だったから。

何度も書くように私は自覚上でいつも「感知」していない。とにかく”事”が自分事と重なってくる、というこれだけ。

私は”自分事”をいつもの様に観、後に外で状態(抽象的)では”同じ”事が起きていた、と知るのみ。だけど、今までに事象的にはかなりあるので、「そういう事だ」という風に認めてみようと思った次第。量子力学的に見れば事象としては”あり得る話”でもある。

最後は、私の思う「結びつけ」についての考えを書いて終わります。

・・・ ・・・ ・・・ 

何かと何かを結びつける。

その行いによって、人はそこに意味を見出し、それを信じ、そうだと確信する。

人の感じ方・考え方が違うものという事が絶対の前提に於いて、その結び方は千差万別、沢山の配線によって違う結び方が発生する・・・。それは他者には全く見えてこない、考える事も出来ない、想像すら不可能で”実感”なんてあり得ない。


想像で近づけてみる事までがせいぜいの、本当は理解すら難しいのでは?、と思っている。そうしてその結果に、「ならばせめて相手へできる事はなんだ」としたなら、相手のソレはそのままに受ける、という事と思っている。

認めるなんて言ってしまうと、受け容れるに近く堅苦しい。分からないのに認めるなんて出来っこない。そして想像すらできないのだから、「そうなんだ」という押しも押されもしない状態であること、それが精一杯と私は思っている。


自分のアタマが働けば、”んなわけあるかい”なんて思いが出るかもしれない。必ず思考し始めるから、相手と私の間で、回路の違う話を延々とする事になる。

どれだけ人が修行しようとも、結局「何か(だれか)」に認められている様な”感覚”を掴んでいなければ、人は空しくなる。だから、理解し合えないことは、どれだけ優しい言葉で包まれたとしても、奥の方はきっと別の事を感じ続けているだろう…、そんな風に思う。

同じ回路では回っていない世界。

コの固有の回路を持ち、結び続けた者たちがそれぞれに存在している。

固有の結び付けをするその”人”を、特定の個人とし、はっきりと”分ける”ことができるのだと思っている。「結び付け方」という特徴が、”その人”を現している、という事になる。


ムリにムダに、寄る寄せる必要がない。

自分から見る異世界は、人の数だけ存在している。

それだけの脳があるのだから、世界は思う以上にたくさん存在する事を、想像ぐらいなら少しできるのかもしれない。

普段の状態では、どうしたって見えてこないモノが、ココにある。

(変なクセをつけて生きている私たちニンゲンは、この事は理屈で理解していても非常に難しい。だから、”個”を表現する事を求めながらも、私たちは大きな恐れを抱き、それをするならば、時に闘うくらいの気持ちも必要になる。そんな通過点は必ず通る事になると思っている)

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!