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頭の処理/現実の場

「感覚」というのも、脳の処理でしかない。
それはもう、本当にそうだから。

寝ている間に、自分の”心”を眺めているかもしれない…、その様に処理される内容をこの「私」が見る脳内。

一昨日は夕寝に入って間もなくと思う、頭の中の映像から「グニャッ」と確かに感触を得、慌てて足をどける―――、足がピクッ!となって目を覚まし、誰か足元にワンがいて蹴飛ばしたかと思い気配で確認。偽リアルの凄さをlineメモ。

脳内では、ワンの誰かの足を踏んでしまう映像で、その感触がグミキャンディのようにグニャッとし、もの凄いリアルな”実感”で足をどける…それがこの「ピクッ!」という動き。頭の中と動きは同時じゃない。


これは、以前にも何度か触れているのだけども、夕寝で脳内で何か、映像を見ている時、自分の身体が絡んだ映像の時は、また、何か素早い動作をした時に、ピクッ!という反応があり、その動きで一瞬目を覚ますことが多々ある。ゆっくりの動きの時にそれは起きた事はない。

こういう事を感じていると、そもそも”実感”というものの正体はなくなってしまうことになる。この状態を実感と表現するしかないのだけど、確かにあれはグニュッとしたのだけど、私の足は横になったまま、何にも触れていないし踏んでもいない…、だけど、その映像があるだけで、それは「私に起こった」という事になるのだろう。

この肉体の確かな感触。「それは幻なんだ」という事を、こういう事から頭で理解することはできる。だけどやっぱりこの自覚上の意識を使った状態では、それはあくまでも”理屈”で、実際に”感じている”のだから否定が難しいと感じた。

その「できごと」を、どう処理してこの”私”に伝えられるか、を自覚させられる。

・・・

その時の感覚を思い出しながら書いていったのだけども。そして中断せざるを得なくて、noteから一旦離れたのだけども。

掃除中、急に足の裏が”キンキン”とする感じがあり、なんだろう…とだけ思った。そして、「あー、こういう事か」と納得する。

頭の中で”起きる”こと、それには”幻”が含まれるのならば、こうして何かその場所に感じる時、「実際にどうなっているか」という事の目視(確認)は可能だと。直に確認して、感じた情報と”その現場”とで、情報が一致するかどうか、という事は行うことができる。

例えば、腫れている、赤くなっている、皮がむけているなどのいつもと違う状態がそこに実際にあれば情報は一致でいいわけで、対処など次へ移ることが可能。だけどもこの内側、内部の出来事に関しては、かなりの事が脳内で作られた、つなげられた情報によるもので”異常ではない”という事はよくある。

「まず、確認しろ、ということか…」

と、この時思った。

・・・ ・・・ ・・・

これだけに限らず、これはもう本当に、目の前のことというのは目に映しているだけで「まったく見てないなぁ…」と思うことはよくある。それだけ情報は削ぎ落し、”脳内”で回している。内側の情報と、外にあるものとでは、本当にコトを一致させているとは言えない、という事だと思っている。

実際のこの身にそれが起きていなくても、その事の経験があるか、少し異なっても似たような感触の経験があることによって、その映像を見せられただけで、足には感触が生まれ、反射的にどける、身体がピクッと動くという一連に、そこかしこが全てバラバラなものが、こうして束ねられて私が「それ」という事の認知をすることを見るように思う。

まともに書けば、こういう事になるのだけども、そういう働きならば、こう使えるね、というのがバーチャルの世界やスピリチュアル的要素。脳は実際に真偽の区別は出来ていない。それを助けているのが、自覚の出来る意識を持ったアタマ。


キツイ頭はゆるめる為に真偽を問わない心地良さを利用し、場面によってはきちんと見極めなければならなくて、その働きで活躍する考える頭と。それらまちまちの働き方が活きる場所を見つければ、どちらも活きる事になる。この事を理解しても、本当に現実に実践していく事って、理解とに大きな差を持つのよね…(*‘∀‘)

「理解との差」を書くと、大まかにメモしている「このひと月の振り返り」 が浮かんでくる。

そんなハードなひと月の感想は、明日に。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!