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釣り合ってくる

私たちにはいつだって「無言の教え」という強大な存在があって、その事を感じて自然と”学んで”しまっている。

不思議なもんだね。

でもそういう動物だから、そうなんだよね。

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これは、メモを繋ぐ言葉が出てくるかどうか分からないけど、ちょっと書き出してみる。

《”それ”を見たら思い出す(出せる)状態》

”考え”の前に”思い”があって。
人を超えた部分の”感覚”、生き物としての俊敏さ。本能の呼び起こし、目覚め。

ワン達の散歩をしながら、なんとなく”比較”をしながら…そんな風に思う。

何かが分かった時に、何らかの思いが湧き、そしてその思いは後の言動に繋がる。分かっていないものは何の思いも湧くこともない。また、分かったと思うその範囲は、自分の中で”分かって”いることなので、外のそれと同じかどうかは別という事も知っているといい。

その余白を持たないと、おかしな勘違いだらけでまた、複雑になる。

すべては”分かった”と思った、「自分の範囲において」起こっている事。観察なしに”分かる”はあり得ない。

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他のメモと少し繫げてみる。

区切って越えて、区切って超えて。

区切りを超えたら、その線は淡く、いつまでも区切らない、それを固定させない。そうして区切って超えてをくり返し広がっていく―――。この宇宙みたいかな。

分かるには、一旦”分かる”ことが必要。分かったら解放、また分かる為に分け、分かったら解放そのサイクルなんじゃないか。


同じ日にメモしているから、”内容”が近い。
何かを中心(起点)に、そこから外へ広がる大きなイメージと、その広がる途中の”できごと”に軽く触れると、途中にはそんな淡い線があったかな…という感じか。

その”超える前”の段階では、決して淡い線なんかじゃなくて、そんな線など見えるわけでもなく当然意識もされていないものなんだけど、やはり過ぎてから、超えてから見えない枠が観えてくる。だから「後からできるもの」と言って良いんだろうけども。

多分恐らく、何か次元・層を超える時→の向きでは分からない、見えないものが、振り返るという逆向き←の向きに見た時にのみ、立ち昇るものがあるという事なんだろうね。


まったく違う角度で書いてみる。

頭の中は、バラバラのあちこちを向いた矢印でいっぱいにするより、ある程度の流れを一方向に向けてみて、大方揃えてみる。多分これは通常、意識されなくても大体がその様な傾向になっているのだろうと思うその人の向き。

振り返るというここからの逆再生で「立ち昇る」って、そもそもなんだろ?

※ここから再開する為に、初めから読んでいたら違うことが浮かんできたので別の話を書いていく。これはもう一つ別の事として私の頭に引っ掛けてあるものと繋がった感じ…。

・・・

そうか。
一応メモ内容で書き出そうと、メモ写しから始めたのだけども、パラパラとして何となく繋がらないそれらを幾つか並べているうちに、それが引き出す”準備運動”のようになっていて、そこから別に引っ掛けているそれ(以下に書いていくもの)へ繋げてくれている感じか。

そちらはまだ、軽く引っ掛けてある状態にしていて、「今日書くつもりはなかった」のだけど、結局そちらが引き出された…。(※印まで書いてありその後から再開までの間に頭の中に揃ってきた材料が、こちらへ繋げる強さ・方向に替えたといえるか)


始めのメモの写しを読み返していて、当時の「自分の状態」に気づく。観察することなく”わかった!”とよくやっていたものだと。

そういう事なんだ…、脳内の解釈、自分に由来するその解釈で”分かる”ことをしていたから「早い解答」になるのだと。それはケースでは別に良いのだけど、対人である時は、それでは足りないものが出てくる…と感じた。

それは、主人との”やり取り”が、真剣になっている部分があることが、私にとって大いに絡んでいる。

・・・

クロスする感じ、私と主人。

私が主人を観てる時、私の心がしっかりあるのを見て、私が”観られる時”、主人の心がそこに出るのを視る(私が感じる)。

この”クロス”する感じから、シーソーのイメージが出て、相手に私が何かを抱く時こそ、私が調整(引く)ことが必要で、また、だからその逆も起きるのが想像されて…。

そして今、それが多少のぎこちなさはあるものの、互いに少し出来るようになっているバランス・釣り合い方が出始めている。


これは、改めて今までの私が”外側”、その部分で主人と接してきていたのかがよく解る。互いの相手への接し方が変わって2か月ちょっと。この間の緩やかな変化を、「主人の変化」を見、こうして綴りながら、同時に接している私自身の内面(無意識)も当然に、動かさなければならないことが分かり始めて。

それはそう理解してからその様にしていたのだけども、”受け身”の時ばかりではなくて、私がカチンとくる事があって、それを思い出して「クロスするその感じ」を書いたのだけども。

途中の細かい諸々は、今回書くつもりはないけども、極論すると、私が主人にする事は「なく」て、主人の現われ、それを、私がそのカタチを受け容れていくだけで。


その中で、私自身が”引っ掛かる”ことは、私のコトという「同時」を観ている状態になっている。だから、主人にする事はなくて、私の側の調整しかない、と思った。

そしてそれが、先日も触れた「自分を抜く」状態であると私は結んだ。主人を観ている時その時点では、”私”を通わす必要はなくて、主人の何か”現われ”に対しての時点で、私側の”調整”が必要であれば入るだけ、そう感じた。そしてすごいと感じるのは、そうとは何も知らずとも、”逆のケース”で、主人は「その様にできる」という事が想像できる事。

私がカチンと来て言葉を返しても、主人は自分の内側で考えるだけで何も言ってこない。(勿論少し時間をかけて消化していると思われる)

主人と会話しながらその、私側の無意識(内面)を感じていったので、一昨日は少し疲れたのだろう…、と思った。

私がこの頭で考えて、何かを主人に言ってしまう方がきっと、表の私の対応することだから”カンタン”なんだろうと思うのだけど、確かに変容している主人を見れば、到底その対応では「釣り合わない」事による自然な運びとなった。

おもしろい事になってきた。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!