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勝手に成田エアポート 勝手にフライト


昔の画像がないので
写真は先月のINCです。

今の時代の機材は違うかも知れないけれど
1990年代から新しい世紀になる頃まで
海外旅行を生業にしていた私の思い出話を書いてまいります。
おぼろげな記憶でもありますので、そこはご容赦してください。
今の時代の話では無いので本当に勝手にかかせていただきます。
今は無いものもありますし、業界絡みのネタもあるので
つまみ食いしていただければ幸いです。

ポーラルートの景色

#NRT から #ポーラルート 飛ぶと 窓の外の景色に思いを集中させることがある 高度 39,000ft おそらく経済的にかなり有り難い高度なのだと思うけれど、ここから雲のない眼下を見下ろす。
白い大地に、凍りついた河が見えるそこは、生命を感じることのない世界だ。
そんな景色を眺めながら、今自分があの場所に降り立ったとしたら、自分には何ができるのだろうか、そんなありもしない事を考えてしまう。
窓枠の外周には霜が付き外気温は常識外の気温温になっていることは、外気温表示から見て取れる。
翼の合金は輝きのない金属の表面を露呈している。
決して不安のないアメリカのメーカーによるこの機材はこの星の表面をなぞるように対地速度1000Kmにも届きそうな速さで目的地を目指していく。
そんな外界の景色を眺めながらキャビンに目を移す。照明の落とされた中で、デスプレイの明かりだけが目立ち、人々は声さえ出さずにシートに身を預けている、この時間、クルー達も姿を見せず。
静かなキャビンは眠るための空間になる。

成田1ビルの思い出から

■エアポートレストハウス
前泊するならエアポートレストハウス、エアポートホテル黎明期 駐車場に隣接していたホテルです

■トマト 1ビル1階のパスタ屋さん
1ビルと言えば、この木の皿に盛られたスパゲティでしょ。スパゲティと呼ぶか、パスタと呼ぶか? ここで食事するのが空港勤務時の醍醐味でした。

■1ビル5階? のフードコート? 屋台村? なんてっ呼ぶんだろう。
出発ロビーの更に上、中央塔の上には、屋台と言うかなあ、出店というか、カレー、ラーメン、カツ丼、そば、など数件のお店が出店、並んだチープな椅子テーブルに持ってきて、食べる事ができたんですよね。あそこには、あの今はその名前のキャリア無いけれど、米系のそこのキャビンクルー達も、ここでよく食事してた。チープだけれど、景色は良いし居心地いいし、ある意味では快適な寛ぎどころ。

■イミグレはエスカレーターの下でした
だから、恋人同氏のお別れ、見送りの人とのご挨拶、これが行われたのが、この階段とエスカレーターでしたね。
ドラマでも良く、このシーンが出てました。

■PSFC PSFC(Passenger Service Facility Charge)出国前には空港利用 旅客サービス施設使用料 このれが券面には含まれず、この券を自販機で買って種出国していました。団体は回数券を冊子で買っていたのを覚えています。この自販機も前出のエスカレーター脇にありましたね。

成田2ビルのこと

■2ビルのロイヤル
カフェテリアスタイルのレストンが昔あって、帰国直後の打ち合わせや、軽い打ち上げには頻繁に利用させてもらったところです。従事者割引もあって、利用頻度はNO1だった気がしますね。

■成田2ビルのチェックイン
あの当時って、なんでそこまでと言うくらい、チェックインのカウンターを借りて、自分達で受付して、クレームタグ付けて、バゲージ流すまでやっていたのだから、古き良き時代かもしれませんね。
ワンフロア下の事務所に行って、カーボンのチケットとPNRの読み合わせして、ボーディングもらってね、もらったボーディングでアサインして。
手間も相当だったけけれど、融通も利いたのですよ。今にして考えれば考えられない時代です。

成田その他

なぜか、旅行用品屋さんと仲良く開催する結団式と言う謎の儀式
出発前にビールで乾杯して、仲良く頑張って行きましょう みたいな
それ用とは決まっていないのですが、#団体待合室 (VIPルームなんて呼ばれてましたね。

エアポート・ホテル

各ホテルさん、僕らにはとてもとても良くしてくれました。
ツワモノは、翌日のHNL線のために前泊していく先輩までいたくらい。
それは極端ですが、あのころ、前泊と言うのが多くて
仕事が終わらず、深夜に車で滑り込み、翌朝のフライトとか、お世話になりました。

Party in the upper galley

これは、既に時効だろうし、彼女達も居れば定年だから
あの時代 1990年 5月頃 NRT/HNL その日のフライトには、僕らのクライントのグループがかなりの人数乗っていた。分便で飛んだのだけれど、このフライトにメインがの乗っていた。
21:00か最終が22:00か あの頃のタイムテーブルに記憶は薄いけれれど、アサインされた機材は、 #B747 -300SUD だった、アッパーが総てYというコンフィグで、おそらくCPも完全無視で良い、GPP PAX ONLYのUキャビンなんて、若手2人に任せておけば良い、それぐらいに感じていたのかもしれない。 #AIRボーンからしばらくは何事も起きなかったけれど 、Dinner のサービスがスンだ頃からキャビンの証明が落とされたと記憶している。アッパーのレイアウトは、それこそ前方はフライトデッキだから、素人考えなら、一番偉い PIC 居るはずだけれど、キャビンクルーの若者には、アテンション不要なのか、何かあええば、ローワーキャビンの前方担当のインターフォンが鳴るのか??
結論先に申し上げると、同性のクルー2名と、我々とで、今思えば信じられないコミュニケーションが、アッパーキャビンで行われたのだ。
彼女た達は、気さくに折りたたみの椅子を出してくれて、その場で世間話とともに、宴会 これには御幣があある、彼女達が飲み物を飲んでいたのか、それは記憶にない けれど、そこでの会話は、PAXとクルーというよりは、何方かと言えば仲間だった。PAXを連れてきた僕らと、自分達のPAXでもある旅客に知られることなく、小さな声で、ギャレーのカーテンの中で、僕らは語り合い、楽しい時間を過ごした。勿論、彼女達が滞在するであろうPKで再開の約束などしていない。けれど、あんなにも気さくに楽しい時間を過ごすことが許されれるほど、あのキャリアはフランクだったのだろうか?
その後の人生で、同じキャリアには無数にお世話になったけれど、ギャレーパーティーが行われたのは後にも先にも、それが最初で最後だった。
飲み物、なぜか極端に濃い、スパイシーな #レッドアイ  だった
レッドアイの語源までも教えてくれたけれど、そんな事は既存の雑学だったけれど・・・

素敵な時間っだったわけ
制服はあの7代目の
ジャケットを脱げばかなり着やすそうなものだった
可愛かった 抜群に可愛かったのです

小ネタですが・・・

2サム運行前の機材のトイレ
パタパタ系で時に詰まり気味だった
その後の機材は例の シュパ ビオーーーー シュア !!!
なので安心だ

D-10の偏光丸窓

ドアに付いていた丸窓はセンターに調整ダイヤルみたいのがあって回すと、素通しからかなりの光量を落とせるものまで偏光グラスだった。

L1011 オーバーヘッドコンパートメント 窓側にしか無くてセンターのブロックの乗客は不便だった気がする

747−400のエコご飯  トレイのままメインが加熱できたという噂が、確かトレイに穴がありそこに嵌る仕組み 白身魚の照り焼きが美味かったと今も思う

フライトデッキ 昔は頼むとコックピットにご招待してくれた、さらに、日の丸フラッグキャリアでもオセアニア選はコクピットクルーは日本人クルーでは無かったので、お話するのも緊張した。ちなみに機材は、少しだけカラーリングが異なる、747−300 J⚪ さんと Q⚪ さんの、両方のロゴが・・ 遠い記憶

フライトバックにステッカー
J⚪ クルーがフライトバックに貼っていた、コミカルな-400のステッカーがメチャクチャ欲しかった。

コンビ機材
フレーターと旅客のコンビ機材がちゃんと飛んでた。

ずんぐりむっくり
747SP 航続距離を伸ばすため? 機体の短い74があった

MD-11
ウイングレットに鳥が書いてあったのはやはりあのキャリア







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