愛の視点で動き出すとき

求めていることを自ら与えていく

僕は、みそっかすの王子。
人々の役に立ちたいのに、何をしたらいいのか分からない。
立派な父と愛情深い母、素晴らしい気質を持った兄たちが、
多くのものを犠牲にし、守り、戦い、
築き上げてくれた安全な城で育てられたもの。

幼い僕は、彼らの愛をいっぱい受け取った。
彼らから、すでにたくさんの愛をもらっているはずなのに、
僕の心は、満たされることなく、
いつまでも、潤いを求め続けていた。

そんな自分を責めていた時期もあった。
ドライな心のままで、自分自身も人も傷つけてきた。

なぜ、満たされないのか?
どうしたら自分の存在を人の役に立てられるのか?

そんな考えのループにはまっていた。

その答えはいたってシンプルだった。

僕は、自分というものを立体的に理解していなかった。
自分というものをあまりにも狭い視野でみていた。

自分が持ち合わせた気質と、
周りから受け取ってきた基準で、
 ”みそっかす” イメージを自分だと思っていた。

視点が足りていなかった。
もっと別の角度からも、高い視点からも、
自分を見る必要があったのだ。


僕は、自分が出来ることを、人のためにやることばかり考えてきた。
それが、正しいことだと教わった。

自分が純粋にやりたいことについて考えたことがなかった。
それは、間違っていることだと思っていたからだ。

けれど、それは正しいことでも間違ってることでもなかった。
自分がやりたいことをやることと、人のためのなることは、同じ方向性にあった。どちらも真剣に考えて取り組んでいく必要があるものだ。

自分のイメージ像を崩して、生まれてくる前の自分を想像してみる。
そのときの精神で、空の上から眺めてみる。
この世に生まれて、何をしたかったのか?
死んだ後の自分を想像してみる。
そのときの精神が、
もういちどやり直したいと心の底から悔やんでいることは何か?

視点を高くすることで、
自分自身が満たされるまでの流れも見えてくる。
そもそも満たされるということは、
その前提に渇きがあったという当たり前のことが見えてくる。
僕らは、流れなのだ。

何に満たされたいんだっけ?
どんな前触れがあって、何によって満たされているんだっけ?
どんなものでも、放置しておいたらどんどん渇いていくでしょ。
だから、渇いたら、自ら満たしていかなくちゃいけないでしょ。

常に心地よい状態にさせておくために、
積極的に満たしていくのも、僕らの役目。

その状態からでしか、人の役に立って、
自分にとっての喜びを受け取るという社会循環は始まらない。

求めていることを自ら与えていくこと。

喉が渇いて死にそうなのに、
誰か水をくれ〜!と叫んでいるだけでは、自分を救済できないよ。
(子供でないならば、)死にそうになる前に、自分の足で水を汲みに行って、自らが喜ぶ状態にしておくのは、自分の責任なのだ。

そもそも、何を求めているのかを明確にしている?
それに対しての行動をしているかも大事。
僕なんて、情熱が必要なのに、口を開けて待っていたこともある。
笑っちゃうでしょ。
そんなやり方じゃ、情熱は生まれないっていうのに。

愛が欲しいなら、もっと視点を高くしなきゃ。
待っていたって、なにも生まれない。
枯渇状態じゃ、なにも動かせない。

変わりたいなら、荷を降ろして立ち止まり、
今までの自分を見つめ直さなきゃ。
求めていることに意識を向けて与えていくこと。
出発地点と視点を変えて、希望を描くこと。
どこに着地して、どんな種を蒔き、どんなものを育て、どんな人たちと収穫を一緒に味わいたいのか、どんな未来をカタチにしたいのか、
次の世代へ何を残していきたいのか?

自分の頭で考え、先読みして行動していくこと。

それが、君だけの精神を先駆して生きるということだ。

君が、愛の視点で動きだすとき、世界も動きだす。

僕らの地球が輝きだす。

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