境界線のオパリオス(2)

第一話はこちら


「ねぇ、こっちにおいでよ」

空虚に微笑む、お前。
仮面のように張り付く微笑は、作られた美術品のような美しさ。
けど、その微笑みは、毒に満ちていることを俺は知っている。


俺を誘おうとする甘く芳しい蜜を、お前は俺に向けている。

さしずめ俺は、艶やかに咲き誇る毒花の蜜の誘惑にあらがおうとする虫に過ぎない。
勝手に足が一歩を踏み出す。
蜜にからめとられそうになる。

だが、内側で声が爆ぜた。

「これ以上進んではならない」

それは、本能の悲鳴だった。
これ以上進めば。これ以上あいつに近づけば、「お前は死に至る」という警告。


――お前は立っている。

祖父譲りだというブロンドの髪と、制服の青いブレザーの裾が、下から吹き上がる異様な風の中に揺蕩っている。

――お前は立っている。

遥か古、この地に落ちた隕石が明けた大穴の中央に。

いつだったかが誰だったかが、クレーターの上に橋を立てようと目論んで、その計画がとん挫した鉄橋の名残。

お前は、ここが好きだった。

クレーターの中央でぶつんとちぎれた危なげな鉄橋に座り、世の中を睥睨することが好きだった。

「ねぇ、こっちにおいでよ」

そんな大好きな鉄塔の、手すりのない端に立って、お前は俺を手招いている。

お前が立つのは、境界線。

この地域に、まことしやかに伝わる伝承。
この大穴に入ったものは、誰も戻ってこない。
けれど死ぬわけではない。世界のはずれにある境界線を越えていってしまうのだ。

その「境界線」とやらが何なのか、言い伝えられてはいなかった。ただ墜落死しただけだろう、と俺は思っている。

だけど、お前はその伝承を本物だといった。
本物だといって、とても好ましく思っていた。

いつだって俺はそんなお前の横にいるだけだ。
学校のどこでも、家のどこでも、街のどこでも、俺はお前の隣に立っていることが当然だったし、お前もそれが当然だと思っていた。

その、はずだろう?

俺が立つのは、境界線の端っこ。
お前が立つのは、境界線の端っこ。

あちらとこちら。彼岸と此岸。

俺は、たしかにお前の隣を歩いてきた。けれど、お前と俺の間に、境界線があることを知ったのは、今、この瞬間。

――気づくのが、遅すぎたんだ。

お前は信じて微笑んでいる。

手招きすれば、俺は自分の側に来るだろうと。

けど、どこかで知っている顔をしている。

俺は、お前の側にはいかないだろうと。

「ねえ、こっちにおいでよ。いつもみたいに、僕の隣に」

そう言われた瞬間、冷たいナイフを、すとんと無作為に胸に突き刺されたような心地がした。

お前は、知っていたんだな。

俺は何時だって、お前とは違う場所にいたのだということを。

あいつの放つ言葉は、痛烈な皮肉だった。
いつもみたいに傍に来てみろよ、できるなら。
お前はいつだって、世界を睥睨して、俺を軽蔑して生きていたのだと、俺は今、知った。
遅すぎたんだ、何もかも。

「来ないんだね――じゃあ、待ってる」

言って、お前は背を向ける。
その一瞬が、五年経った今もなお、俺の目には焼き付いていて、離れない。
そう言った時のお前の微笑みは、仮面ではなくて。
そう笑ったお前の顔は、本当に俺を「待つ」ことを楽しみにしているようで。

―――俺の制止も聞かず、お前は、落ちていったんだ。

五年前のあの日。
世界中で、誰かが消えていった。
人が消えた瞬間、共に居た者たちは口を揃えて、こう言った。

「(あいつは)(あの人は)(彼女は)(彼は)境界の向こうへ行ったんだ」

あいつが落ちていくその刹那、俺も、視ていた。
多くの人が、落ちるように、飛ぶように、跳ねるように、「あちら側」へ楽しげに向かうのを。

その中でも一際楽しげな表情をしていたのは、お前だったな。

だから、分かった。いやでも分かった。分かりたくなかった。

残された俺を、その事実が電撃のように痛烈な一撃で突き抜けていった。

――お前が、皆を連れて行ったんだ。

俺は戻ってきた。境界の先へと踏み込まなかったから。

その代償に、俺の目は通常の視力をほぼ失っていた。

その代償に、俺の目はブラックオパールのような七色の輝きを宿していた。

その日以来、俺はお前が落ちていく、あの景色を何度となく見続けている。

――俺と同じ目をした人間は、多くいる。

境界を目にしながらも、その線を越えなかった人間たち。

そうなってしまった俺たちは集った。誰かは取り戻すために。誰かは罪悪感をぬぐうために。誰かは興味のために。

――俺たちは境界線を見る。

そうして、いなくなった者たちを探し続けている。



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