見出し画像

ウォーカブルな空間であるテーマパークが日本の都市空間をウォーカブルシティへ導く重要な鍵となる

 ウォーカブルシティという「居心地が良く、歩きたくなるまちなか」を考える上で、表面上、最も日本で実現している場所はテーマパークではないか。そんな体験を筆者が大型連休のテーマパークで体験し、ウォーカブルが実現しているテーマパークから、日本の都市が本当のウォーカブルシティを実現するための可能性について考えます。

テーマパークは歩車共存のシェアードストリートで構成されたウォーカブルな空間@長崎・ハウステンボス

 筆者が訪れたのは長崎県佐世保にあるハウステンボス。オランダの街並みとアトラクションがメインのテーマパークです。ハウステンボス内は歩きでの回遊が中心で、補助的に1人から4人乗りの自転車、乗合バスでの移動ができるようになっています。そしてその道路は、歩道と車道の区別がない道路空間で歩行者や車が同じ空間で共存するシェアードストリートといわれる形態をしています。
 シェアードストリートについては、下記のソトノバ記事を参照ください

上記リンクで紹介されているオランダのシェアードストリートのように白線を引かずに舗装のデザインで車、自転車、歩行者それぞれの空間を示しているデザインはそのままハウステンボスの街並みでも忠実に再現されています。

舗装の煉瓦のパターンデザインのみで道路空間をつくっているオランダのシェアードスペースを忠実に再現したハウステンボスの街並み

上の写真のような道路空間に乗り入れるクルマは園内を巡回するバスの他は福祉車両、配送などのトラックと僅かです。巡回バスは電気自動車で静穏化と排気ガスのない快適な空間を実現し、その他のクルマも時速20キロ程度のスピードで走行しています。

歩く人、4人乗り自転車、電気バスがシェアドスペースを走るハウステンボスが示した日本のストリートデザインの将来像

 つまり、テーマパークという非日常の空間で、日本のストリートデザインの将来像をほとんど実現してしまっているのです。
 当然、テーマパークに実際に住んでいる人は誰ひとりとしていませんので、表面上の街であることに変わりはありません。しかし、テーマパークという非日常と日常の境界は近代以降の歴史の中で徐々になくなってきていることを皆が実感してきていると思います。

 そして、今ウォーカブルなまちづくりが目指されている中で、街中のウォーカブル化=テーマパーク化の様相をどのように克服するのか?もしくは克服する必要はすでになく、そのまま進むべきなのかについてテーマパークを社会学的に分析した本とともに考えていきます。

テーマパークが日本の都市空間をウォーカブルシティとなるために担っている重要な役割について

 近年の中心市街地の活性化のための街の将来像やグランドデザインにおいては、ひとりひとりが輝く街など様々なテーマが掲げられています。ディズニーランドでは「世代を超え、国境を超え、あらゆる人々が共通の体験を通してともに笑い、驚き、発見し、そして楽しむことのできる世界」になり、アトラクション以外と要素として、それを実現するための都市空間のインフラこそが「居心地が良く、歩きたくなるまちなか」つまりはウォーカブルな空間です。

 つまりは、テーマパークのコンセプトから、まちづくりのグランドデザイン、その他にも店舗設計に至るまでテーマパーク的な要素が広がっていると言えます。このことを長谷川一氏は著書『ディズニーランド化する社会で希望はいかに語りうるか』でこう述べています。

メディア化したポストモダンな情報消費社会では、日常のあらゆる営みにイメージと消費とが深く絡みあう。そこに根を張りながら、ディズニーランド的な非日常性は、日常世界の全域に広く浸透し、繁茂しているようだ。

長谷川一:ディズニーランド化する社会で希望はいかに語りうるか:慶應大学出版会、2014/7

 そして、「ディズニーランド化」は資本主義=テクノロジーの全域化であり、長谷川氏は本書で、この状況を「それなりに愉しく幸福な絶望」というショッキングな言葉で表現しています。しかし、氏はこのような状況においても「もっとも絶望するべき荒野の極北にこそ世界を反転させるような契機が潜勢される」として〈テクノロジーの遊戯〉という言葉で表現し、こう綴っています。

この遊戯が、テクノロジーと資本主義による全域的な浸透を受けた今日の社会のあり方にたいするー無意識的なものであれー徹底した諦念の上に展開されるものであることだ。(中略)ありていな言い方をするのなら、それは、とことん負けてることである。負けに負け、その負けを引きうけ、奈落に身を沈め、さらにずっと奥のほうへと沈潜してゆくことである。
 沈んでゆくその奈落こそが「新たな未開」なのであり、「すべての形式の創造的零点(インディフェレンツ)」である。

長谷川一:ディズニーランド化する社会で希望はいかに語りうるか:慶應大学出版会、2014/7

 ここにある「すべての形式の創造的零点(インディフェレンツ)」とは、一度自転車に乗れるようなった人が、自転車に乗れなかったころの身体に戻ることは困難であるが、異なる動きに接合させることで、ちょうどマッサージのように揉みほぐし、さらにそれを徹底してゆくことで、これを解体するようなものと記している。つまり、私たちの社会がテーマパークのような都市空間を求めるのであれば、私たちはそれを極北まで実装することで新しい境地に達するというものです。
 そう理解すると欧米の中心市街地は都市全体を徹底した景観や交通規制をするころで、ウォーカブルな空間をテーマパーク的に徹底的に実装してきたといえます。
 テーマパークにおける歴史的な街並みと合わせてウォーカブルな空間そのものが文化として息づいていると理解できると思います。文化について、本書ではこうつづられています。

文化とは、わたしたちの外部にあって、わたしたちを枠づけたり意味づけたりするようなものではないからだ。文化とは、わたしたちのもののやり方、考え方、理解の仕方、すなわち実践の形式なのであり、慣習という形で身体化されたものである。つまり、慣習化というプロセスをとおして構成された身体そのものが文化なのである。

長谷川一:ディズニーランド化する社会で希望はいかに語りうるか:慶應大学出版会、2014/7

 つまり、テーマパークというウォーカブルな空間での過ごすことは、たとえそこが表面上のテーマパークというウォーカブルな空間であったとしても、そこで時間を過ごすことで私たちの身体は慣習化するプロセスをとおして文化となり、テーマパークの外である私たちの日常の都市空間に対してとてもポジティブな側面を与えてくれると考えられます。

 そして、人びとは駅前の広場空間や商業空間での過ごし方はテーマパークでのオープンカフェや散策を通じて慣習化されつつあります。移動には4人乗りのカーゴバイクでもいいと思います。
私たちの社会は明治時代でいえば産業博覧会のようなイベントを通して、大きく変化してきました。いまディズニーランドやハウステンボスといったテーマパークが日本に誕生してからすでに40年が経過し、いよいよ私たちの都市空間を変えるために果たした結果がウォーカブルシティとして実現するその歴史の中にいるのではないかと思いました。

 大型連休でのテーマパークの体験から、なぜ長距離移動と高い入園料を支払ってまで私たちはテーマパークを目指すのかを考える記事を執筆していくとテーマパークの担っている大変重要な役割に気がつくことができました。ぜひみなさんももう一度テーマパークでウォーカブルな空間とはどんなものだったのかを再体験してみてください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?