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いったい、Plava Stabloとは如何なる者か。【いわゆる自己紹介】

ハンドメイド作家のPlava Stabloこと、青木弘之です。

現在、主に「旅から生まれた豆本」として、私が旅してきた国や地域の写真集を手製本で豆本にして、ハンドメイド作品ネット通販サイトのminneやcreemaに出品している他、一箱古本市など各種イベントに出店して直接販売したりしています。

趣味はといえば、
・海外旅行(一人旅専門、2019年7月現在で70ヶ国・地域超訪問)
・読書(小説以外は何でも読みます)
・音楽鑑賞(主に洋楽ロックで60's~70's中心、一番のお気に入りはビートルズですが、ハードロックやプログレも好物です)
・ものつくり全般(手製本からレザークラフト、版画などなど、ワークショップに参加することに意義を感じています。今のブームは編み物)
他にもいろいろ…

平日の昼間に、おっさんがふらふらワークショップなど参加しているので、本業は何か、と尋ねられることが多々あるのですが、今のところ一番の収入源は豆本の売り上げなので、ハンドメイド作家ということにしています。

ただ、現時点ではあまりに収入が少ないので、国家資格保持者として、鍼灸あん摩マッサージ指圧師と名乗ることもあります。
きちんと保健所にも登録しておりまして、頼まれた時に出張施術をしたりすることがあります。

私の生まれ育ちは、東京の下町地域の荒川区で、ビートルズが来日したときに、ちょうどこの世に存在しておりました。
ちなみに、ラジオパーソナリティーでタレントの伊集院光は、私の通っていた小・中学校の一年後輩で、もう40年以上前から彼のことは知っております。

私が住んでいたところは、小さい町工場が多い地域で、子どものころはよく近所の知り合いの作業場に遊びに行っては、ものつくりの風景を眺めておりました。

手作業で刷毛を作る作業場で、今から考えると、子どもがそばにいて、じっと作業を見ていて、さぞかし目障りだったと思うのですが、良く相手してもらえたなあ…と思います。昔はそういう時代だったのですね。

私の父は、写真製版(オフセット印刷)の製版(レタッチ)工で、会社勤めの後に独立して会社を経営していた時期があり、私もたまにアルバイトでレタッチをすることもありました。

当時は今のようにすべてコンピューターで処理するわけではなく、写植原稿をバカでかいカメラで撮影して、そのフィルムをもとに、手作業で指定通りに写真を配置したり、網をかけたりして、印刷用の原版を作っていたのです。

間違えて版を作ると、最悪は一からやり直しで、時間とフィルムが無駄になってしまうので、作業にはずいぶん気を遣いました…

ちょっと話が脱線しました。

子どものころ夢中になったのが、折り紙とあや取りでした。

特に折り紙が好きで、新聞のチラシを四角く切っては、ひたすら折っていたのですが、当時まだ折り紙は女の子の遊びという雰囲気が強く、今のように大人も脳トレと称して折るようになるとは、隔世の感があります。

さようにインドア派の私でしたので、下町の子どもとは思えないくらい、外では遊びませんでした。
(今でもそうですが)団体行動というか、仲間でつるむのが極端に苦手で、当時校内暴力も盛んで、不良も回りにいましたが、全く関心がありませんでした。そもそも仲間に誘われることもありませんでしたけど…

地元の小・中学校を卒業したのち、自宅の最寄駅から電車で一駅で通えるという理由で、台東区にある都立白鷗高等学校に進学しました。
高校のある場所も、今は「カチクラ」と呼ばれる、ものつくりの盛んなところですね。

高校では3年間帰宅部、根が暗いので友人も皆無に近く、高校生活で特筆すべきことは何もなく、成績が悪いくせに国立の総合大学志望という超わがままだったので、高校卒業後は浪人(それも限りなく引きこもりに近い宅浪)を続けました。
浪人中のある時、国立以外に公立大学というものがあることを初めて知り(本当に物知らず)、当時東急東横線の都立大学駅にあった、東京都立大学の理学部数学科を受験、なんとか滑り込むことができました。

大学時代は、鉄道研究会と混声合唱団のサークルに所属し、合宿にいったり、演奏会に出たりして、そこそこ充実した学生生活を送り、大学卒業後は大手システムインテグレータ企業に就職しました。

大学卒業当時は、バブル景気がはじける直前で、まだ超売り手市場だったので運よく入社できましたが、今なら確実に書類選考で落とされているでしょう。

会社ではシステムエンジニアとして働いていました。
もともと小ぢんまりとした仕事がしたかったのですが、そもそも大手企業だと、そんな仕事は引き受けるはずもなく、大規模システム開発の一端を担うような仕事が多くなり、だんだん理想と現実のギャップに悩むことになります。

致命的だったのは、作業工程管理やリスク管理といった超重要な業務が、全くと言っていいほど出来なかったことです。
(正式な診断は受けていませんが)今となってはADHDのような発達障害の気があるのだと推測しています。今でも部屋の整理整頓は全くと言っていいほど出来ませんし…

かように出来の悪い社員の唯一の楽しみが海外旅行でした。
1992年に初めて韓国に行って以来、年に数回、多い時は7回!も出かけていました。(今でもですが)独身だったのが大きいと思いますが…
外国に行くと、日常から解放され、それだけで自由になれる気がしたのかもしれません。

それでも、奇跡的に20年以上会社勤めを続けられたのですが、結局は早期退職して、以前から関心のあった東洋医学を学ぼうと、鍼灸学校に進んで、鍼灸とあん摩マッサージ指圧を学びました。
クラスメイトはほとんど私より年下でしたが、和気あいあいと学校生活が送れたのは本当に幸いでした。

鍼灸学校に通っている時期、比較的時間に余裕があったこともあり、いろんなものつくり系の習い事をしたり、ワークショップに参加したりして、改めてものつくりの楽しさに目覚めました。

鍼灸学校卒業後、無事に鍼灸あん摩マッサージ指圧師の免許を取り、まずは鍼灸院に就職して鍼灸の修行だ!と思っていたのですが、自由に海外旅行に行けなくなるなあ…と思い、しばらくは就職せず、自由に時間を取れる生活を送ることを選択し、今に至っています。

おかげさまで、今なお年に数回海外旅行に出かけることが出来ているのですが、旅行期間がだんだん長くなり、一回の旅行で3週間ほどになることも普通になってしまいました。会社勤めのころは、せいぜい10日が限界だったのに…

最近は、海外に出かけて観光しているのか、旅豆本のネタ集めに行っているのかよく分かりませんが、体力とお金の続くうちは、あちこちの国に訪問したいと思っています。

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