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まちの激変に文化で抗おう。”画家村”から語る恵比寿のまちづくり(前編)

渋谷といえば、スクランブル交差点。そうイメージする人も多いけれど、それだけではない。原宿・表参道・代官山・恵比寿・広尾・代々木・千駄ヶ谷・上原・富ヶ谷・笹塚・幡ヶ谷・初台・本町、これぜんぶが渋谷区なんです。
『#LOOK LOCAL SHIBUYA』は、まちに深く関わり、まちの変化をつくろうとしているローカルヒーローに話を聞いて、まちの素顔に迫る連載です。

恵比寿編SESSION2では、恵比寿の過去と未来のアートシーンを考察します。株式会社スタンダードワークス代表取締役の山本士朗さん、ニューヨーク在住の現代アーティスト山口歴(やまぐち・めぐる)さんをゲストに招き、恵比寿新聞の高橋賢次さんと渋谷区観光協会の金山淳吾が話を聞きました。

左から、渋谷区観光協会 金山淳吾、株式会社スタンダードワークス 山本士朗さん、恵比寿新聞 高橋賢次さん、中央画面:ニューヨーク在住の現代アーティスト 山口歴さん

恵比寿には
「画家村」があった!

高橋賢次(以下高橋):(山口)歴くんは1984年に恵比寿で生まれて、恵比寿の小学校・中学校に通いました。そして、(山本)士朗さんは1986年にサッポロビール恵比寿工場内に『第一ファクトリー(※広いステージと上質な音響施設を備えたイベントホール。多様なアーティストが集まり、多くのライブやアート展示が開催されていた)』をつくりました。今回のゲスト二人がクロスオーバーしているのが感慨深い。

今日は、これまでの恵比寿の文化活動と今後のアートシーンについて話していきたいです。文化施設や表現の場によって、まちはどう変わっていくのか? 変わっていけるのか? 4人で考えたい。さっそくですが、歴くんは加計塚小学校に通っていましたよね。まさに、恵比寿ガーデンプレイスの向かいにある小学校です。

山口歴(以下山口):はい。ウェスティンホテル東京の裏のほうにある住宅街に家があって、加計塚小学校に通っていました。

金山淳吾(以下金山):歴さんはプロフィールで「渋谷区出身」と紹介されることが多いですよね。実は、恵比寿生まれの恵比寿育ちだけど、「恵比寿出身」とは紹介されない。僕は、『渋谷芸術祭(※毎年秋に渋谷で開催される。渋谷カルチャーを再解釈してクリエイターらと共に渋谷文化を未来へつなぐ芸術祭)』で初めて歴さんとご一緒しましたが、プロフィールを見て渋谷で生まれ育った「渋谷駅周辺の人」というイメージを持っていました。渋谷と恵比寿では、『ビールとまちづくり編』で話したように、カルチャーが違いますね。

山口:誰にでも伝わるように、「渋谷生まれ・渋谷育ち」と言っているんです。世界的には「SHIBUYA」のほうがわかりやすいと思って。たとえば、ニューヨークで「渋谷出身」と言うのと、「恵比寿出身」と言うのでは受け取られるニュアンスが違うんです。金山さんがおっしゃったように、実際には渋谷と恵比寿は全く違いますよね。でも、最近は「恵比寿出身」と言うようにしていますよ。

山本士朗(以下山本):ニューヨークで「恵比寿出身」と言って、通じるのですか?

株式会社スタンダードワークス代表取締役・山本士朗さん
1986年にサッポロビール恵比寿工場内で『第一ファクトリー』の企画・運営管理を手掛けたことをきっかけに、リキッドルームや代官山ユニットなど数々のホール関連事業を手掛けている”ハコのプロ”

山口:ヱビスビールの恵比寿という認識もないと思います。こちらで知られている地名は渋谷ですね。

高橋:10年後は、世界中が恵比寿という地名を知るようになりますよ! ところで、歴くんが育った恵比寿3丁目のあたりは、1928~66年まで「伊達町」と呼ばれていたんです。なぜ「伊達町」かというと、江戸時代に宇和島藩伊達家の下屋敷があったから。伊達町界隈はパトロンのいるアーティストがたくさん住んでいて、大正時代の後半から昭和初期まで「画家村」と呼ばれていたんです。時を経て、恵比寿3丁目で山口歴が生まれたのが感慨深いです。

山口:たしかに、子どもの頃を振り返ってみれば周りにはクリエイティブな人が多かったと思います。父はヒステリックグラマーをつくった人だし、周りにも理容師の息子や、アルマーニのデザイナーの息子など感度の高い人たちが集まっていました。

僕が4歳のときに恵比寿ガーデンプレイスができたんです。僕たちの親世代にとっての恵比寿は、渋谷の周りにあるゴーストタウン。恵比寿がこんなふうに発展するなんて、思ってもいなかったと思います。子どものころの恵比寿は、僕にとってはどこを見渡しても灰色にしか見えない「灰色のまち」でした。

画面:ニューヨーク在住の現代アーティスト・山口歴さん
数々の色の絵具の筆跡を貼り合わせる「カットアンドペースト」という独自の表現方法で知られる。キャンパスだけでなく、壁や彫刻にも制作することも特徴のひとつ。ISSEI MIYAKE MENやユニクロとのコラボレーションで山口さんの名前を目にした方も多いのでは

山本:あの頃の恵比寿は何もなかったですよね。駅舎が木造で切符切り(※切符に切り込みを入れる係の駅員)がいた時代ですから。恵比寿駅の東口は工場のイメージしかなかったですね。

高橋:僕の妻も伊達町生まれ・伊達町育ちなんです。彼女は、恵比寿に工場があったときは痴漢がいて、あまり近づきたくない場所だったことを覚えています。今では想像もつかないですね。そして、士朗さんはそんな場所で、恵比寿ガーデンプレイスができる前に第一ファクトリーをつくったんですよね。

恵比寿文化の発端をつくった山本士朗
受け取った山口歴

山本:第一ファクトリーの話が出たのは、ヱビスビールの工場が千葉に移転することが決まっていた時期です。天井が高い大きな倉庫があり、サッポロビールから「この倉庫を使って、何かやってくれないか」と言われました。ちょうどその頃、湾岸エリアでは倉庫ブームが起きていました(※たとえば天王洲の寺田倉庫は1990年代から倉庫をリノベーションし、オフィスや飲食店をオープンさせていた)。

当時の恵比寿は発信の場所がなかったので、工場や倉庫をホールとして使って文化的なものごとを発信できたら面白いと考えたんです。予算が少ない状況のなかで、第一ファクトリーをつくりました。ビール工場が稼働しながら、第一ファクトリーでは舞台や展示会が開催されているのです。いま思えば、恵比寿というまちの節目でしたね。工場で働くおじさんたちと、展示会に来る人たちが混在してビールを持って歩いているって、すごく面白い風景ですよね。

金山:子どもの頃の歴さんは、士朗さんの仕掛けを目撃している可能性がありますね。

山口:第一ファクトリーは知らなかったのですが、恵比寿の節目だと意識しないまま、自然に文化体験をしながら育ったのですね。僕たちは、士朗さんたちがつくった文化をただただ受け取っていたのだと思います。すごく光栄です。

話を聞いていて、第一ファクトリーがあった時代の恵比寿は以前のブルックリンに近い印象を受けました。盛り上がる前のブルックリンに似ている気がするんです。僕は16年間ブルックリンに住んでいて、まちの変遷を見てきました。ブルックリンに元から住んでいる人たちは、地域の奥のほうに追いやられていったんです。恵比寿も、小学校から同じ地元の人たちはあまり残っていません。東京の西側や目黒に引っ越していって、地元の人が少ない感じもブルックリンと似ているなと感じました。

金山:マンハッタン中心エリアの平均年収が4,000万円と聞いたことがあります。土地が異次元に高騰してしまって、住めなくなった人がブルックリンに居場所を求めていったんですよね。特に、次の世代のクリエイターやクラフトマンたちがブルックリンに”疎開”しながら、まちにクリエイティビティを持ち込んでいった。

一方で、恵比寿は誰かが逃げ出した結果としてつくられたわけではなく、ビール会社がまちを再開発して、文化をインサートしていった。要するに、まちのゼロイチをやったんだと思うんです。そのゼロイチ拠点のきっかけをつくったのが士朗さんたちだった。

渋谷区観光協会・金山淳吾
1978年生まれ。電通、OORONG-SHA/ap bankを経てクリエイティブアトリエTNZQ設立。2016年から一般財団法人渋谷区観光協会代表理事として渋谷区の観光戦略をプランニングしている

金山:では、文化はどうやって生まれたのか? 文化はまちに文化としてインストールされるわけではなくて、場と仕掛けがあって、その場に人が集まって空気が醸成されて文化になるんです。歴さんの世代は、恵比寿で士朗さんたちがつくった文化を見て、空気に触れたのではないでしょうか。親から受け継いだ創造性だけでなく、時代・まち・空気から受け取ったものが、歴さんの今の表現につながっているかもしれない。そして、恵比寿というまちで受け取ったものは今も発芽している最中かもしれない。恵比寿には、そんな文化のサイクルがあるのではないかと思うんです。

ズレたトレーシングペーパーは、
元には戻らない

高橋:歴くんは恵比寿の変化をどう感じていましたか? 子どもの頃に、ビール工場が恵比寿ガーデンプレスになって、まちが劇的に変わっていく様子を見ていた世代ですよね。

山口:そうですね。今も覚えているのは、恵比寿ガーデンプレイスができた時に見た、「まちの人の声を聞く」というニュースです。恵比寿ガーデンプレイスに反対していたおじいちゃんがインタビューに答えていて、「商店街の店が心配だよね」と話していました。当時の僕たちは商店街も行くし、三越(※恵比寿ガーデンプレイス内にあった恵比寿三越。2021年閉店)にも行くという感じで、バランスを取っていたと思います。ただ、どんどんおしゃれになっていく恵比寿を見るのは何と言うか……ちょっと複雑な思いがありました。子どもの頃に行っていたお店がなくなっていく恵比寿を目の当たりにして、変な感じでしたね。

2020年に10年ぶりに帰国したのですが、恵比寿を歩いてる人が全く違うと感じたんです。まちの見た目は、僕が子どもの頃の恵比寿と同じなのだけれど、ちょっとズレたトレーシングペーパーみたいに、元には戻らないという感覚がありました。でも、恵比寿ガーデンプレイスに落ちていく太陽の沈みかたとか、夕日の影は全く変わらないんです。その感覚がすごく不思議でした。

金山:恵比寿は「日本で一番住みたいまち」と言われた時期があります。歴さんは、その時期に恵比寿に住んでいました。どんな気持ちだったのか、覚えていますか?

山口:子どもながらに、「いいな」と思いましたよ。自分が住んでいるまちに「住みたい」と言われるのはうれしかったです。それこそ、その頃に士朗さんたちはカルチャーを作りあげていたんですよね。そうやって自然にまちが盛り上がっているのを住人として見るのはすごく高揚感がありました。

一方で、「こんなはずじゃなかったな」という思いもあったんです。やっぱり、恵比寿ガーデンプレイスができたことで地元のお店が変わってしまうんだなと感じていました。たとえば、当時は朝4時の恵比寿西口ロータリーには誰もいなかった。でも、今はいつも人がたくさんいます。静かだった恵比寿が恋しくなることもありますね。まあ僕も、「住みたいまち・ブルックリン」に引っ越した人なので、他人のことは言えないです。

高橋:恵比寿ガーデンプレイスがオープンしたのが1994年です。その頃は第一ファクトリーがあって、1995年には『恵比寿みるく(※”エロとロック”がコンセプトのナイトクラブ。2007年閉店。2022年東京駅の新丸ビルに『ニューみるく』として復活)』がオープンして、いわゆるライブハウス・クラブバウス文化が花開きました。当時の恵比寿は、音楽を楽しむ場がどんどんオープンして、サブカルチャーで活性化していたと思います。

恵比寿新聞 編集長・高橋賢次さん
1975年、奈良県生まれ。2009年に『恵比寿新聞』を立ち上げる。恵比寿ガーデンプレイスにあったパブリックスペース「COMMON EBISU」のプロデュース、大学の非常勤講師、各種イベントの企画・運営など活動は多岐に渡る

山本:第一ファクトリーのあとに、今の消防署(※渋谷消防署恵比寿出張所)あたりに『第二ファクトリー』もできたんですよ。第一ファクトリーが成功したので、新築で建てたんです。同じころに、恵比寿ガーデンプレイスの中に東京都写真美術館ができることになり、一時期は第二ファクトリーの中に写真美術館がありました。その後、線路沿いのビアステーションが閉店した空間で『第三ファクトリー』もやりました。これは短い期間でしたが、意外と皆さんが知らない歴史ですね。

高橋:知りませんでした! 第三ファクトリーも、表現の場だったのですか?

山本:そうですね。

高橋:女優さんや演劇をしていた先輩がたに話を聞くと、よく恵比寿の劇場に立っていたという話をしてくれます。若いころの蜷川幸雄さんが舞台をやっていた歴史もあります。今の恵比寿ガーデンプレイスのあたりは、恵比寿の文化の発端があったのだと思います。

金山:まちの再開発や発展で生まれるスペースに文化的な仕掛けをしないと、ポップアップの店鋪やスーパーマーケットになっていくと思います。恵比寿は、文化のまちをつくるというサッポロの大きなコンセプトがあって、そこに士朗さんたちがいて文化的な活動を生み出す場をつくった。いま振り返れば、奇跡的に生まれた場だと思うんです。


>>後編に続く
後編はこれからの恵比寿のアートシーンについて4人が語ります。

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