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1993年のカルティエ②

1月の始めのこと。

エマと函館に旅行に行く当日。

前の夜も仕事をして、自分の体中に中年オンナの体臭と化粧品の臭いが染み付いているような気がした。まだ夜が明ける前に部屋に戻り、バスタブにお湯を張って浸かった。

つくづく、この仕事は限界だと思っていた。いや、何度もそう思いながらも考えることを先延ばししての繰り返しだったけれど。
中年オンナのベタついた感情を、肌に擦り付けられるような夜がもう我慢ならなかった。ラブホテルや、女の自宅でシャワーを何度も浴びて帰ってくるくせに、部屋に帰ると何よりもまずバスタブにためた浴槽に、のぼせてしまうまで3浸かる習慣になっていた。身体を清めているつもりだった。

その日も同じようにのぼせるまでバスタブに浸かった。あまりにも熱いので部屋の窓を開けた。正月が終わったばかりの東京の深夜の冷たい風が吹き込んできた。遠くで救急車のサイレンの音がする。空はまだ暗いまま。すぐに身体が冷えていった。

髪を乾かして、前の日に用意をした服を一枚一枚丁寧に身に着けた。

ウールのズボンにモヘアのニット、その上にダウンコート。函館は晴れの天気予報だったが、気温はマイナス10度になるみたいだった。いつもの小洒落た服とは全然違う、普段の俺だった。田舎町を歩いていてもおかしくない服装だろう。ただ、髪の毛だけは変な色をしていたけれど。

準備が出来るのを見ていたかのように、エマから電話があった。

「起きてる?」とエマ。

「寝なかったよ」と俺は言い、電話を切って部屋を出た。仕事は3日間休みをもらうことになっていた。電車の中で二人分の新幹線の切符を何度も確認した。本当は飛行機で行くべきなのだろうけど、俺としては俺が生まれ育った八戸の駅を通過するときに窓の外を眺めたかったから。

東京駅でエマと待ち合わせて新幹線に乗った。グリーン車のシートに座るとすぐに駅弁を広げて食べた。大宮を通過する前にはもう俺は眠りこけてしまった。エマは前の日に紀伊国屋書店で買ったらしい函館のガイドブックをずっと眺めていた。時折、俺の腕にエマが手を乗せる度に俺は目を覚まし、エマの左手首に巻かれたカルティエに触れた。

浅い眠りの中で俺はずっと同じ夢を見ていた。何度目を覚ましても、また眠ると同じ夢を見る。

それは3年前のこと。田舎から東京に初めて出てきて、喪失感というのを初めて味わった「パンク」と呼んだ女の記憶。パンクと過ごした夏は楽しすぎて、そして擦り傷のように痛く、突然いなくなった夜に俺は絶望した。

新幹線の夢の中であの夜のことを思い抱いている。
あの日、あの夜、パンクは俺の部屋に来ると言ったのは、二度と来ることはなかった。確かに「今から行くよ」と行ったのに、朝まで待っても現れず俺は絶望を味わった。

ところが夢の中ではそうではない。パンクが朝になってやってくる。「ずっと待っていたの?」と俺に訊く。
「待っていたよ」
疲れ果てた俺は言う。

「シャワー貸して」と言いながらパンクはTシャツを脱ぎ捨て、バスルームに消えていく。シャワーの音が聞こえるが、そこには誰かがいる気配はしない。

「どうした?」俺は声をかける。返事はない。中で倒れているのかもしれない。ドアに手をかけるが鍵がかかっている。シャワーが流れる音だけがする。

エマが俺の腕に触れる。

すると俺ははっと目を覚ます。「シャワー、してるのか」俺は寝ぼけてエマに言う。エマは笑う。「何の夢みてるの」

夢だと気づく。

パンクは朝まで待っても来なくて、それっきりになった。

「女のトラウマね」エマが笑う。

新幹線の終着駅だった盛岡で降りるた。在来線のホームに向かって階段を降りていき、特急列車の「はつかり」に乗り換えた。

エマは、窓から雪が見えることに驚いていた。エマがさっきキオスクで買ったアーモンドチョコの包を開けて、俺の口にチョコを押し込む。

「何時に函館に着くの」

「14時だよ」

「お腹すくね。ついたら何食べよう」

エマは新幹線でガイドブックを熟読していたらしく、函館山のロープウェーの料金も調べていた。ホテルにチェックインして荷物を置いたら、函館山まで行こうと行った。十字街まで路面電車で行き、そこから函館山の麓を散策しながら16時には夜景が見えるようになるので山に登ろうということになった。

「この靴で大丈夫なのかな」と言ってエマが見せた足元は、ヒールのあるブーツだった。

「無理だよ。函館で靴買ってやるから」と俺。

「函館に靴売ってる店あるの」

「長靴くらいは売ってるよ。いくら田舎でも」

「赤い長靴にしてね」

14時頃、函館駅に到着した。

田舎生まれの俺でも、いつの間にか東京に慣れてしまっているせいか、ものすごい最果ての街に来た感じがあった。昨日の夜は新宿にいて、寒いのに汗をかくような熱気の中で女たちと浮かれ調子で話をしていたのが嘘のようだ。

それが今、表情も服装もまるで違う田舎の人達が行き交う北海道の田舎町にいる。俺はそう思うとなぜだか不安になった。自分の居場所がどこにもない気持ちになってしまった。俺の居場所はあの新宿の街にしかないのかなと。

エマは生まれて初めて北海道に来たらしく、駅の前に見える朝市を見つけて興奮していた。

「あそこでご飯食べようよ」

そう言う。

「何時なの?いま」俺はエマの腕をとり、カルティエで時間を確かめた。

14時35分。

朝市の隣にある大きなホテルを予約していたので、先にチェックインした。

部屋にはいると、窓から函館の港と函館山が見えた。単純に長旅で疲れていたのか、俺はちょっと精神的に不安定になってしまっていた。

昨日抱いたおばさんが俺に言ったセリフが気持ち悪かったせいかもしれない。

「アキラくんの子供が産みたいな」

おばさんが言うことじゃねえだろと思いながらも忘れようとしていたが、気持ち悪さが心に残っていたのかもしれない。

「少し横になりなよ」エマが言う。「30分したら函館山の方に行ってみよう」

そして俺は気絶するように眠りに落ちてしまった。大きな不安の正体が分からないまま。

そして30分後、目を覚ますとエマがいなくなっていた。

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