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血管をなぞるように理解する夜④【2015年】

18歳で東京に移り住んでも、最初の2年くらいは基本的にアパートと新宿のごく狭い地域しか知らなかった。

まだ幼かった俺は、時間を見つけてはあちこち探検するような性格はしていなかった。心に病気を抱えていたので、新しい環境では毎日同じことを繰り返すのがやっとだった。
だからほんの狭い世界で怯えながら生きていた。目線を外して遠い景色を見ることすら怖かったのだと思う。

電車も毎日決まった路線と駅しか使わなかった。いつも決まった地下鉄の入り口から階段を降り、決まった号車に乗り込み、決まった階段を上って決まった出口から出る。

仕事では複雑な感情を扱っていたけど、やることとやれることはごく限られた同じ行動だけだった。お世辞、笑い声、浮ついたセリフ、旨そうに食う食事、セックス、女の髪の匂い、舌が口の中に入ってくる感触、ライターで火をつける音。
地下鉄に乗るように毎日同じことを繰り返すだけ。

仕事が終われば終電がない時も多かったので、歩いて帰ったり自転車で帰ったり。その時も同じ道を通った。歩道の歩く位置すら決まっていた。

当時新宿の紀伊国屋で買った本によるとそれは強迫神経症と呼ぶらしかった。アパートに帰るときに、ある場所のマンホールの蓋を踏むというルーティンがあって、それを間違えて踏まずに帰った時は寝る前に気になって走って戻ってマンホールの蓋を踏みに行ったりもした。

夜の女たちの複雑な感情をマシンガンのように浴びて蜂の巣になり、心の瘡蓋を剥がすような毎日のせいもあったと思う。次第にマンホールだけではなく、帰り道のこの場所ではこんなことを考えるとか、こんな独り言を言うとか、どんどん症状は重くなっていった。
そのルーティンを破る時、俺には一番恐れていることが怒ると思いこんでいた。
それは、死ねないまま生きること。
死ぬことすら許されずただ生きていく地獄の人生になると思い込んでは恐怖に怯えていた。

明け方に眠る時には、ベッドの中で幻聴と幻覚に襲われたりすることも多かった。自分の名前を誰かが何度も呼んでいたり、ベッドが傾いて沸騰した油の釜に落ちていったり。自分が眠って見ている夢のか、起きてみている幻覚なのか、はっきりしないままパニックを起こし、汗だくで冷蔵庫まで這って行きいつも買い置きしていたコーラを飲んでは、冷たい床の上で眠ってしまったり。

俺の病気が深刻なことを、他人に話したことは何度かある。
20歳の時、パニックを起こした夜に自分の病気のことを思い切って告げた。でも付き合っていた女はこう言った。「自分が病気だと思えるならまだ大丈夫よ」

何度も聞く言葉だ。世間の理解なんてそんなものだった。
健常者には、発達障害と脳死の区別がついていないのが現実だ。障害というとよだれを垂らして寝たきりになっていなければ詐病だと言い出したりする。それは今でも変わらない。いくら自分の幻覚の話をしても、自分が取りつかれている強迫観念の話をしても、「アキラは芸術家みたいね」なんて言う。理解してほしい人には理解されないものだ。

次第に俺は自分のことは好き好んで語ることはしなくなった。「アキラ」という新しい人格を自分の中に定住させることで、病気を忘れていこうとした。喧嘩早く、いつも苛立っていて、駅から店までの道すがらさえ揉め事を起こすような厄介者。

そのおかげか20歳を過ぎた頃から、病気を抱えている事実すら忘れていくことが出来た。
なんてことはない。俺は忙しかった。仕事でもセックス、終わるとセックス、会う女がいないと風俗、その帰りに誰と会えたらまたセックス、その合間に恋愛。心を壊していくような恋と愛。壊れていく恋愛、指の間から滑り落ちて壊れてしまう恋愛。夜明け前の物影が一番暗くなるように、新宿のまぶしい光の下の暗い路地をすり抜けるようにやさぐれて生きていた。

本当は伝えたいことがある。そういう思いを心の奥の扉に押し込んで、見たこともないほど美しい顔立ちの女の深い胸の谷間に顔を押し込んでは眠ってしまう。新宿のラブホテルの一室で死んでしまうんじゃないかというほどのパニックに襲われたりする夜もありながら。

それでもたまに、幸せを感じるほど脳が軽い夜もあるんだけど。

ある12月の深夜2時。20歳。

自分がどこにいるのかさえ分からなくなり、都内のどこかオフィス街にあるコンビニ前のベンチに座っていた。財布には千円札が3枚と小銭が入っているだけだった。いつも入っているカード類が全部ない。幸い、いつも使っていた赤い革の手帳はポケットに入っていた。アドレス帳を見て、コンビニの公衆電話からつい客の女性に電話を入れてしまった。

30代で英語塾を経営している女性で、結婚していた。たまに俺を呼んでくれて火遊びする程度だったが、いつも優しくて俺に面白い話をいつも聞かせてくれた。美人だったし正直楽しかったんだよね、仕事で呼ばれる時も。

でもそんな深夜に、自宅の固定電話に電話するのは非常識だとは自分でも思った。既婚の客相手にルール違反だし、マナーも最悪だ。きっと眠っているに違いない。

でも、電話は2コールで出た。ナンバーディスプレイがある時代でもない。「もしもし・・・?」と伺うような小さな声で出たのは、客の女性だった。

「・・・」俺は声を振り絞るように、何かを言った。

女性は、夫は香港に出張中なのでいないと言った。今から車で迎えに行くねと言い、俺の居場所を聞き出そうとした。

コンビニのドアに書いてある店舗名を伝えると、20分くらいで着くよと言った。どうやら俺は八重洲にいるようだった。なぜそこにいたのかは今も分からない。でも八重洲南口のバスターミナルで、当時付き合っていた女の子を見送ったことがある。実家に帰省して3日くらいで帰ってくるね、お土産楽しみにしていてねと言った。でもそれから二度と会うことはなかった。その直後のことだったのかもしれない。

深夜の静かな通りに、紺色のレンジローバーが現れた。英語講師だった。車の中から手招きする。長い髪を後ろに束ね、眼鏡をかけている。白いパンツに上はダウンジャケットを着ていた。俺はベージュの革シートに座ると、まず謝った。

英語講師は、「アキラに電話しようかなと思っていたからうれしいよ」と明るい声で言った。「どう?体調悪いなら私の家に泊まる?そういうのは違反かな?」

この時間に新宿まで送ってもらったら、片道30分はかかる。

「いいの?」俺はかすれる声で言った。

「残り物だけど食べるものもあるのよ」

俺は申し訳ない気持ちだった。何を考えて電話したのか分からないし、でもほかに頼る人もいないし、付き合っている彼女とは別れる寸前の冷めた空気が漂っていたから、心づかいが嬉しかった。

でも、英語講師にも俺の病気のことは詳しくは話すつもりはなかった。客だし、変な噂が広がっても俺がまた追い込まれるだけだ。英語講師の自宅マンションには、すぐに着いた。地下の平置きの駐車場にはポルシェやBMWなど高級車ばかり停まっていた。レンジローバーから降りると、足元がおぼつかない俺を支えながらエレベーターで上がった。

部屋に入るとびっくりした。大きな窓からはきれいな夜景が見えた。東京タワーも見えた。カーテンをせず開けっ放しにしていた。

ダイニングテーブルに座っていると、白で揃えた食器に酢豚とごはんとみそ汁をよそってくれた。うまそうだった。自分がその日いつ食事をしたのかさえ思い出せなかった。俺は酢豚にがっついた。それは本当に美味しくて、言葉を失って無言で食べた。

「普段会うアキラと違うのね」と英語講師は笑った。俺は複雑な気持ちで、何故か少し負けた気もした。罪悪感もあった。こんなことプロとして失格なのだが、別に俺はプロなんてどうでもいい。でも、何か見透かされているような気になったんだ。

「服もいつもと違うし。でも可愛い男の子って感じね。」

俺の服を自分で見てみると、毎日着すぎて形が崩れた紺色のニットにリーバイスの白いジーンズを履いていた。仕事ではありえない服の趣味をしていた。でもそれが本当の俺だった。

窓の外は冬の東京だった。こんな深夜なのにまだ灯りがついているビルがたくさんある。英語講師がホットチョコレートを作ってくれた。チョコレートをホットミルクに溶かし、ブランデーを入れて。マグカップでそれを飲みながら、窓の外の景色をずっと見ていた。新宿の猥雑な灯りを見上げるしか知らない俺には、本当の意味で都会の生活の夜景だった。あと数時間で朝が来るというのに、東京は昨日の19時のまま夜が続いているかのようだった。

「体調は少し落ち着いた?」英語講師が言った。

「うん、本当にありがとう。」ブランデーが効いたホットチョコレートのおかげで、体が熱くなっていた。正直言って、体調は変わらなかった。頭の奥が痺れている。でもこの女性にとても感謝していた。横顔が美しいこの女性に。

「よかった。じゃあそろそろ寝ましょう」

そしてソファに座って夜景を見ていた俺の腕をとった。

「アキラ君。いま突然そう思ったんだけどね」英語講師が突然言う。

「いつの日か、そうして縮むような胸の中を抱えて眺めた景色を思い出す時が来るのよ。それはきっと、何十年も経ってから。おじさんになったアキラ君のことだから、東京のどこかの夜景を若くてかわいい女の子と見るのかもね。その時、今日のこの日の夜景を思い出すの。絶対。そして私に、あの時一緒に夜景見たねって伝えたいって思うはず。でも、私はもういない。記憶を伝えたいとき、その人はいないっていうのは人生の苦しみの一つよ。大人になったらいつか分かる。」

「よく分からないよ」と俺は言う。そんなにこの関係にノスタルジーを感じることはないと思うけどな・・・と悪いけど考えていた。

でも、おじさんになった今になって、その意味が分かる。

確かに、思い出は、思い出を作った人とシェアしたくなるものだ。でも多くの場合、シェアしたくてもその人はもういない。

遠い将来に絶対にシェアできない相手と、皮膚がひりひりするような思い出を毎日作って生きていたとは、あの頃考えもしなかった。英語教師はそれを言いたかったのかもしれない。自分のものにもならない若い男とホットチョコレートを飲んで夜景を見たことが、きっと彼女はこれは儚いマボロシだと思ったのだろう。そのくらい楽しかったのだろう。

その若い男はきっと、将来、どこかで見た夜景で自分を思い出す。でもその時にはもう二人は会うはずもない他人になっていると。

その若い男はいま大人になって、確かにこうして思い出している。もちろん彼女本人はもうどこにいるのか知らない。興味もない。でもあの混乱した脳みそを抱えてホットチョコレートを飲んだ記憶は、俺の中には感謝とともに少しの思い出となっている。彼女本人にできることならあの時の感謝を伝えたいとは思う。もちろん叶わない。

あの英語講師とは、それからも客として会っていたが、突然音信不通になった。

おじさんとなったあのアキラ君は、一つだけ言えることがある。

思い出も恋愛も、実はシェアすべき相手は過去の相手ではないんだよ。誰かって、実は今の生活で愛している人となんだよ。

俺は過去に愛した女性たちにそう思っている。俺との思い出が楽しかったかどうかは分からないが、わずかに楽しかった思い出は今の彼氏や夫とシェアしてくれと思う。

脳が腫れるような日々と、たまにあった救いと癒しは、俺も懐かしい思い出になっている。それは、今の生活で大切にしている愛の中でシェアしている。

それが人生の苦しみの一つだとあの頃言われたが、それは間違いだった。俺には苦しみではなく、恋愛の持つ喜びの一つだ。

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