見出し画像

どすこーい! (95)

今の時代は綺麗なものが好まれると、誰かが言っていた。価値観なるものが時代によって変わっていくのだろうからそうなのだろう。それは創作物においても例外ではない。一昔いや、ふた昔前(そんな言葉あるのか?)の少年JUMPでは、原哲夫先生を筆頭に劇画タッチの漫画がズラリと並んでいた気がするが、最近では線が綺麗な漫画が増えたように思う。これは時代に合わせたのもあるが、様々な道具によって漫画やイラストが進化した証でもあるのかもしれない。唯一昔ながらのタッチで描いているのは、漫⭐︎画太郎先生くらいだろう。念のため言っておくが原哲夫先生の絵は素人目にもめちゃくちゃ上手く、今もまだ進化し続けているように思う。

さてここで疑問がある。今の時代は創作物において、汚いものは受け付けないのかどうか。表現者の端くれとしてこれが今最も知りたい。落語には酷い話が幾らもある。鼠穴、心眼、もう半分、鰍沢などなどなど。しかしさほど作品自体が現代で受け入れられている。それはおそらく映画でも小説でもなく落語だからではないだろうか。着物を着て座布団に正座をしている。どんなに酷いこと話してもお辞儀して帰る。カタチに失礼がないので、よっぽどじゃない限り怒るに怒れない。帰ってからSNSで呟くかもしれないが、正座して頭を下げた人をその場で怒るのはなかなかハードルが高い。但し、例外はある。演者が残飯をかぶってハエをたからせ、臭いを撒き散らせながら高座に上がり、延々と屁をこきながらとんでもない下ネタやタブーを話した場合だ。この場合例え最後に丁寧にお辞儀をされてもお客様は怒って良い。お辞儀に見合っていなく、お客として等価交換出来ていないからだ。おっと、話がズレてしまった。

つまりだ。創作物そのものが綺麗である必要はない。それに関わる人間が汚くないことが重要なのだと思う。では逆に考えてみる。とても綺麗な創作物。

一人の潔癖で潔白な男性が、真っ白な衣装を見に纏い、浄化された水を浴びながら、背中につけた孔雀の羽を広げて求愛のダンスをする。もちろん本場のバレエのような美しい踊り。それに惹かれた清廉潔白潔癖な女性が、同じく真っ白な衣装を着て、やはり背中につけた孔雀の羽を広げて、両手に消毒用アルコールのスプレーを持ち、シューシューと噴射しながら求愛を受け入れ綺麗な声で歌を歌う。

面白さは置いてこんな短編映画(自主制作でありもちろん孔雀の羽はつくりものである。)があったとする。内容はどう考えても非難するところがないように思う。何しろ清潔だからだ。この映画を何も問題のない人達が作り上げたとするなら、非難はされない。内容自体は清廉潔白なのである。しかし、この作品の監督もしくは演者が、泥棒であったり、DVをしていた場合はそうならない。泥棒した金で制作してるかもしれない。いかに演者の手がアルコール消毒されようと、その手で誰かを殴っているかもしれないと思うのでないだろうか。そうするとせっかく清廉潔白なはずの作品が、途端に汚れてしまうのだ。

この現象は一体何なのだろうか。筆者はこの現象について否定も肯定も考えていない。どちらかというと、倫理観的に当たり前だと思ってもいる。しかしこの倫理観なるものも実に流動的で、その時代時代によって違ってくる。簡単な話をすると、”オヤジギャグ”というものがある。あれはオヤジだけが言うのではなく、言う奴は若い頃からある程度言っていると考えている。それを周りが”ノリ”という言葉を使って面白がっているだけである。理性で止めるべき言葉が、脳の衰えで止まらなくなり、オヤジギャグとなる。そしてそれの多い少ないが人によって違うだけだと考える。言葉を理性で止めるには、どの程度まで倫理的にセーフなのかを理解する必要がある。これについては気をつけることを意識していけば良いのだろうと思う。しかし、このセーフティラインは流動的である。昨日まで安心な言葉が今日には使えなくなることもある。表現者は勿論、政治やスポーツの人は殊更に意識をしなくてはいけない。かくいう筆者も間違えるかもしれない。皆さまもSNSで世間に公開する際は気をつけて欲しい。ダメなものはダメなのである。どすこーい!!

この連載は±3落語会事務局のウェブサイトにて掲載されているものです。 https://pm3rakugo.jimdofree.com