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復興への特急券:1944年秋の西部戦線とフランス鉄道網の復旧

1944年12月19日にパットン将軍が第三軍を北に向け行軍させ始めると、これはあらゆる種類の驚きと共に受け止められた。

一般的には、即応力の高さが見事とされるが、他にも驚嘆すべき部分はあった。特に、それを成し遂げた兵站的偉業は多くの場合、見過ごされている。

そもそも、パットンの第三軍は、9月上旬、補給難によりドイツ本国への進軍を停止しており、それはアントワープとスケルデの開放を得た10月の間も変わってはいなかった。2ヶ月の再補給を得て、パットンは11月、ようやく動き始めたが、彼はジークフリード戦での消耗戦により多くの弾薬を消費し、12月になるとこれはまた停止した。

しかし、その二週間後、パットンはアルデンヌへ向けて行軍を始めていた。この時、パットンは二ヶ月間かかった再補給を僅か二週間にて済ませることができたのである。

この驚くべき兵站の回天に関し、公刊戦史では一言、言及があるのみである。

「思ったよりも素早いフランス鉄道網の復旧により、これは成し遂げられた」 [1]

これは、その復旧が如何にして行われたかの物語である。

・1・

ノルマンディー上陸作戦に先んじて、連合軍はその戦略方針として、包括的かつ、徹底的なフランス鉄道網の破壊を決定した。これは、ノルマンディー上陸作戦時に、ドイツ本国からフランスの戦闘域への増援ならびに戦闘域ないでの部隊の再配置を阻害する目的にて行われた。一方、この決定は、連合軍がノルマンディーの橋頭堡より進軍する際の補給に関し、困難をもたらすことが想定されたが、それは効用の為に許容される犠牲と判断された。

このツケを実際に払うこととされたArmy Service Forces(陸軍兵站軍)ならびにTransport Corp(輸送軍団)は北アフリカ戦線の経験から、この復興作業が困難になるものであることを予期していた。北アフリカ戦において米軍は劣悪な状態な植民地鉄道を補給路として使用せざるを得ず、それらの資材のほとんどを一新した上で、列車などもアメリカ本土から輸送してくる必要があった。最終的には、米軍はモロッコからチュニジアまで進軍することに成功したが、それは当初計画よりも遥かに困難な事業であった。

しかし、これから起こるノルマンディー戦は、北アフリカ以上の困難がもたらされることが予想された。第一に、ノルマンディーに上陸する軍は、北アフリカに上陸した軍の数倍に及び、第二に、対するドイツ軍の抵抗も北アフリカよりも強いと考えられ、これにより、弾薬や資源の消費量もまた増えることされた。

しかし、同時に、フランスの鉄道網の復旧なくしては、ドイツ本国へ戦争は持ち込む事は不可能であることも事実であった。

連合軍はこの難問を二段構えにて対応する構えを見せた。フランス鉄道網の復旧に十分な軌条や機関車、荷台などを準備する一方、それらの復旧業務に携わる兵員の上陸は、可能な限り速やかに行い、大陸側鉄道網の始発駅であるシェルブール奪取時に随伴できうるものとした。

一方で、これらの作業が行われる間の連合軍全軍の補給は自動車で行われるものとされ、それを可能にする大規模な自動車補給部隊が編成された。

当初の計画で目標の数値とされたのは、D+50日で、この時期に予定されているトゥール陥落と同時の鉄道網の再開が目指された。[2]

・2・

6月6日、ついに大陸反抗が始まり、連合軍はノルマンディーに上陸する。連合軍の鉄道部隊が大陸に上陸するのは、作戦開始から十日ほど経った6月17日のことであった。この部隊はシェルブールへ向かう戦闘部隊に随伴し、同町が陥落した27日に戦闘部隊と共に入城した。[3]

シェルブールの鉄道駅にたどり着いた彼らはいくつかの良いニュースと悪いニュースを手にした。悪いニュースとして、シェルブール東のトンネルは崩落しており、またシェルブールそのものの駅も大きく損壊していた。また、近隣のFolligneyの重要な鉄道分岐点は砲撃と爆撃で破壊されていた。これらの被害は予想されたものではあったが、それでも部隊を落胆させた。しかし、嬉しいことに奇跡的にシェルブールの扇形庫はほぼ完全な形にて残っており、そしてそこには少なくない数の動品の車両が使用可能な状態にて存在していたのである。

シェブールの状況を踏まえ、鉄道網の復旧は予定と別の形を取ることが決定された。すなわち、揚陸させたるアメリカ軍の機材でのみ復興するのではなく、残存したフランスの資材も利用するという形である。これは、当初の形よりもより迅速かつ労力を少なく目標を達成できると考えられた。

しかし、この事業はすぐに問題に出くわすことになる。鉄道事故である。

この事故の原因は自動車道路に関してはアメリカ同様右側通行であるものの、鉄道は左側通行であることに起因したとあり、その記載を踏まえるに、鉄道車両の正面衝突という形をとったと考えられる。

この事故の仔細は不明であるものの、この事故はアメリカ人たちに鉄道網運用に関し見直しを考えさせる程度には重大なものであった。結果、通常、権利を別けたがらない軍が権利を割譲するという異例な事態が発生することとなる。フランス鉄道網の運営、管理は依然連合軍の管轄下で行われるものの、運用そのものはフランス人の手により行われることとなった。

予期せぬ権利の割譲はフランス人は歓迎した。これは連合軍によるフランスへの行政権の割譲として最初期のものの一つであり、このことにより、フランス人による、フランスの鉄道網運用は、再開した。その運営母体は、当然の事ながら、フランス国鉄、SNCFであった。

・3・

第二次世界大戦の勃発前夜に、フランスは自国の鉄道運営をフランス国有鉄道、Société nationale des chemins de fer français、SNCFの元で一元化させる。

フランスの鉄道は元々、国鉄と五つの民間鉄道、いわゆる六大鉄道会社により成り立っていたが、30年代後半にはこれらの多くの鉄道は大恐慌を発端とする経営危機に直面していた。時の政権であるレオン・ブルムの人民戦線政権はこの解決策としてこれらを合併の上、国有化することを決定し、これは1938年に実行され、フランス国有鉄道、SNCFが生まれた。

開戦前のフランスの鉄道は規模においても、定時運行率においても、欧州最高峰の鉄道網であった。また、速度においても、フランスの鉄道は非常に優れており、「急行(Rapides)」や「特急(Express)」区分の鉄道はそれぞれ120km/hや140km/hで運行していた。[4]

しかし、全てが素晴らしいわけではなかった。そもそも全てが薔薇色ならば合併や経営危機には陥らなかったからだ。現行の運用とメンテナンスへの偏重は未来への投資を犠牲にして行われた。老朽化している資材の更新費は雇用を守るため給料へと転用された。開戦直前、資材の平均使用年数は28年に達していた。[5]

・4・

1944年に再度これらの機材がSNCFの手に渡ることになる。しかし、状況は当然の事ながら、悪かった。これらの資材は開戦直前より若返ることはなく、多くは依然更新を必要とする状態にあった。

また、戦争は様々な禍根をSNCFに残した。進駐したドイツ軍はあらゆる種類の機材をフランスから奪っていき、特に深刻だったのが荷台車の略奪であった。戦中、ドイツ軍は26000台の荷台車をフランスより奪っており、フランスには1万台程度しか残っていなかった。[6]

また、連合軍の空軍も車両の不足に寄与した。ドイツ軍の略奪の手が荷台ほど徹底されていなかった客室車の多くはフランスにあったが、その内8465台が連合軍の空軍などにより破壊され、SNCFは戦前の36000台の内、13500台程度しか受け取れず、また、その内使用可能な状態にあったのは7500台に過ぎなかった。[7]

そして、最も多くの攻撃を受けたのは、鉄道インフラそのものであった。戦前の37000kmの線路の内、使用可能な状態にあったのは約半数の18000kmにしかすぎなかった。しかもこれらの使用可能区間は各地に点々と存在していた。この他に571台の信号や71箇所の車両集積場が攻撃を受けており、また、戦前31箇所あった整備施設の内、19箇所が破壊されていた。[8]

前述の事故の後、8月まで、フランス国鉄の鉄道運用者はアメリカ軍の輸送軍団(Transportation Corp)の軍用鉄道部隊(Military Rail Service)隷下で鉄道の運用業務を担当した。しかし、9月には彼らは連合軍より独立し、一部の鉄道を除いたパリ以西の鉄道を運営することとなった。そして10月にはフランス国内の鉄道網のほぼ全てがSNCFの管轄下へ移された。[9]

ここでSNCFが鉄道網を受け渡された時、その機材は前述の、素晴らしく素晴らしくない状態にあったが、戦損し、老朽化した車両群を、連合軍が上陸後に備えていた資材が補った。アメリカ軍は2000台近い各種機関車に、16000台の荷台車、5500台のその他車両を提供した。これらはフランス鉄道網の能力の復活に大きく寄与した。[10]

そして、鉄道網の復活に関しては、アメリカ軍は協力を惜しまなかった。鉄道運営がSNCFに受け渡されたことにより、軍用鉄道部隊は積荷の決定と鉄道網の修理の専門部隊となることができて、各地にて軍用鉄道部隊は、多くの場合SNCFの要請に応じ、車両や鉄道網を修理し、1944年の終わりまでに1600kmの鉄道、1570個の橋、250の信号が復旧することになった。[11]

しかし、それでも鉄道網の完全復活には心もとなかった。特に、復活しつつあるフランス民間経済と、依然続いている戦争の両方に十分な輸送を共有するには十分とは言えなかった。これを踏まえ、1944年12月、SNCFは車両購入の為の委員をアメリカに派遣し、その後、ド・ゴールの認可の元、8000万ドルにて700台の機関車の購入を決定した。

この規模の民生品の購入は第二次世界大戦勃発以来初めてのことで、これをNew York Herald Tribune紙は、「戦後復興への第一歩」ともてはやした。[12]

・6・

1944年、アルデンヌにてパットンが決戦を行っている間、別の戦いがフランスにて行われていた。冬を凌ぐ戦いである。

1944年の冬はヨーロッパでも稀に見る厳冬であり、戦争にて食料不足が申告な中、各所にて燃料用の薪の不足が起きた。特に内陸の大都市圏にてこれは深刻であった。フランスの首都、パリは、その中でも最たるものであった。

パリは、凍えることとなった。

そして、この時、パリを支えることができる手段は、鉄道網の他なかった。

フランス暫定政府は配給制などにより食料供給を一元化する一方、SNCFに
食料供給を求めた。

SNCFは、その要請に答えた。

12月の月を通じ、SNCFの鉄道網は9600トンの野菜、10600トンの果物、40700トンのジャガイモ、13000頭の羊、3500匹の豚、21600頭の牛、700万リットルの牛乳、そして、1600万リットルのワインがパリに供給された。一日の平均必要カロリー数こそ満たさなかったものの、パリは大規模な餓死や凍死を免れることに成功した。[13]

あるパリジアンはこう語る。

「あの冬、パリを生かしたものは鉄道だった。」[14]

・7・

1945年、戦争がフランスを離れ、ドイツ本国に移行すると、フランスの鉄道網への戦争の負荷も下がっていった。最終的に、SNCFのアメリカ軍向けの輸送はフランスの総輸送台数の18%程度まで落ち込んだ。最早、戦後はそこまで来ていた。[15]

しかし、ここで 場当たり的に運用が始まったSNCFとアメリカ軍の協力関係のその即時性の解決が求められることとなった。特に問題となったのが、車両の扱いである。連合軍は鉄道網と車両の運営権をSNCFへ受け渡したものの、車両そのものはアメリカ軍の輸送軍団持ちのままであった。この捻じれの解決に、少しの努力が必要となった。

最終的に、これはアメリカが車両をフランスへレンドリースとして供給したことにし、ほぼ同額になると試算されたリース費をアメリカ軍が支払って借りているという扱いにされた。これにより輸送軍団はわざわざ車両を米国に戻す手間が省け、そしてSNCFは民間に転用可能なほぼ新車の車両を手に入れることができ、アメリカ・フランス両政府は煩雑な財務処理から開放された。これにより、各車両は一両、一日、一ドルの契約にてレンドリースされ、再リースしたものとされた。誰もが幸せになれる解決であった。[16]

戦争が終わった三年後の1948年のイースター休暇、SNCFは45万人の乗降者をパリ駅にて迎え入れることになる。これは、1938年の水準を上回るものであった。この事により、フランスの鉄道は完全なる戦後復興を果たした最初の産業の一つとなった。[17]

"La France peut étre fière de ses cheminot"(フランスは自国の鉄道労働者を誇りに思うことができる)

[18]

戦中、フランス国民より多くの批判に晒されたSNCFのプロパガンダポスターにはこの言葉が記されている。

これは、鉄道会社自らが言うにしては、尊大な一言にしか見えないものではある。

存外に、言う通りだったかもしれない。

参考文献

[1] H. Cole, "The Lorraine Campaign", p595, 物語性の為、前後文脈を削除した文面に。
[2] U.S.Official History, "ORGANIZATION AND ROLE OF THE ARMY SERVICE FORCES", p237
[3] U.S.Official History, "ORGANIZATION AND ROLE OF THE ARMY SERVICE FORCES", p285
[4] Jacob Meunier, "On the Fast Track", p17
[5] Jacob Meunier, "On the Fast Track", p18
[6] Jacob Meunier, "On the Fast Track", p21
[7] Jacob Meunier, "On the Fast Track", p21
[8] Jacob Meunier, "On the Fast Track", p18
[9] Robert Fuller, "The Struggle for Cooperation", p1404/5449, digital
[10] Robert Fuller, "The Struggle for Cooperation", p1430/5449, digital
[11] Jacob Meunier, "On the Fast Track", p18
[12] Jacob Meunier, "On the Fast Track", p20
[13] Jacob Meunier, "On the Fast Track", p19
[14] Jacob Meunier, "On the Fast Track", p19
[15] Robert Fuller, "The Struggle for Cooperation", p1454/5449, digital
[16] Robert Fuller, "The Struggle for Cooperation", p1450/5449, digital
[17] Jacob Meunier, "On the Fast Track", p20
[18] Jacob Meunier, "On the Fast Track", p19

表題写真
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/ad/Reculafol-6-juillet-1944.jpg via Wikisource

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