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表出する表現  仙台美術史2002‐2012


 そもそもアートもしくは美術とは、人間の生活に必要なものなのだろうか。住む家や、公共に集まる場所を必要とするように、絵画や彫刻やインスタレーションを、人が必要とするだろうか。その議論は数多されている。このことについて、この10年仙台という土地で美術を見続けてきた中で、いくつかの発見があったので、それをここにまとめる。

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 2006年Scale-Out展という展示が、仙台市で行われた。会場はいずみ中央駅の会議室の一室とエントランスで、メンバー(青野文昭、ササキツトム、佐々木健、多田由美子、細川憲一)はその部屋をなるべくきれいなホワイトキューブになるように、設営した。週代わりで、5人の作家が5週間展示し、内3週を私は見に行くことができた。会議室では、青野をのぞき絵画の展示が壁面いっぱいに広がっていた。青野は、インスタレーションでもなく、彫刻でもない、「もの」を展示していた。またエントランス部分では、監視員もいない、スペースに区切りもないその場所で作品が自立していた。子供たちが触りそうになるのだが、母親が止めたり、あるいは実際に恐る恐る触ってみたりするのだが、やっぱりそこから離れて行ったりという光景が見られた。遊び道具ではないし、ただの飾りでもないという認識が産まれつつある、不思議な「美術」展だった。

 筆者がこの企画をした5人に会ったのはこの展覧会が終わり、2007年のScale-Out展の企画会議でのことだった。場所は、宮城県美術館のアトリエに他の用事できいた筆者は、たまたま彼らの会議の席に同席することになり、そこで初めて展覧会の趣旨を聞いた。彼らは、作家自らが企画する展覧会をやりたくて、集まっていた。そこに普及部の学芸員(当時)大嶋貴昭が加わり、作品の共通点を見出し、展覧会の方向性や、開催場所を決めようというものだった。その当時、さしたる経験もなかった筆者は、その運営に直接に関わることにはならなかったが、概ねの趣旨を聴くことはできた。これは、作家自らが自らの表現を発表する場所を見つけることから始まった活動だ。地元の不動産を持つ者と掛け合い、理解してもらい、展示の場所を確保する。また、そこに作品を搬入し、搬出する。広報を打ち、キュレーターがいない、資金もない中、展覧会として成立させる。それが、Scale-Out展の試みだった。
 Scale-Out展は、2007年、東京からのゲストを向かえ、トーク当日には70人ほどの人が集まり、卸町で行われた。絵画に対する真摯な姿勢は、その当時東京には滅多に見られなかったことで、それ故に何人かの批評家が自ら足を運んだ。その後2008年に展示場所を東京に移した。残念ながらその後の活動は個々のものにうつった。青野、多田は、市内の企業のエントランスを使って展示をした。青野は、2012年 ターンアラウンドというギャラリーで展示をしている。彼ら5人は、ともに、60年代生まれで絵画を中心に活動を現在も続けている。

 話は変わって、ギャラリー青城が1975年より仙台に居を構えている。30年以上続いたギャラリーが閉廊の危機に陥ったのが、2010年5月である。閉廊/休業するという話がで、関係者の内々のイベントが開かれた後、数週間たってその場所をアーティスト・ラン・プレイスにするという話を聴いたのだった。主に青城を活動の場にしていた何人かの作家が、仙台で個展を開いていたほぼすべての個人作家に声をかけ、各人が持ち回りで展示をすることを前提に、スペースを約50人で1年間運営する体制を作った。これは今までも続いている。青野文昭、佐立るり子がこの体制を作るのに顕著な役割を果たした。そして、2010年7月にプレオープン、8月に高山登の展示を皮切りに、SARPはスタートした。もうすぐ丸2年たつこの経営方法は、当初危ぶまれた会員の減少の危機を回避しつつ、運営方法を模索しつつも、さらには、他のギャラリーとの連携を組むようになり、展示を続けている。実質50人の作家がひとつのスペースを共有して運営するという例は他に聞いたことがない。その運営方法は独自に編み出されている。ギャラリー青城は、SARPに場所を貸しつつ、規模を縮小して、現在も営業を続けている。

 上記の変遷は、仙台市内でここ10年に起こった作家主体の展覧会や出来事である。では、企画者はどうか。マネージメントは、公的機関はどんなことをしてきたのか。

 民間のギャラリーでは、民家の一部をギャラリーとしているWhat’s Art Gallery(武田昭彦企画)が、長く企画活動を続けていた。及川聡子、椎名勇仁、高橋健太郎など新進気鋭の作家を紹介する傍ら、山内宏泰、青野文昭などの展示も行った。企画展の度に批評を書き、冊子として残している。2006年を最後に企画活動は停止中だ。また2003年にはNPO法人リブリッジが経営を始めたエディットというギャラリーがあった。年に数回の企画展を開き、樋口佳絵、タノタイガなどの展示を行ってきた。メディアテーク世代と言えるだろう比較的若い世代の作家を取り上げ、新しい役割を果たした。現在はエディットとしては閉廊し、場所自体は他の団体が経営しているが、企画展は行われていない。また、2008年にはアートルーム・エノマがスタート。こちらは現在も活動が続いている。取り上げている作家は、エディットと同じ世代の作家が多く、学生などの若い作家の展示も多い。

 公的機関に移る。仙台市には、大きなところで、宮城県美術館とせんだいメディアテーク(以下smt)という二つの公的な美術に関わる機関がある。1.展覧会 2.公募展 3.教育普及の3点で主に仙台の美術に関わってきている。
 宮城県美術館では、「アートみやぎ」という宮城県に関わる美術作家を取り上げる展覧会を数年に一度行っており、その際に件にあげた様々な世代の作家を美術館という施設で取り上げることによって、内外に作家の存在を知らせること、また作家の活動の質を高めることに寄与している。また、これは教育普及部の活動になるが、在仙の作家の公開制作と展示を行っていた。現在このプログラムは参加作家の趣旨が変わり、在仙には限らなくなった。
 公募展としては、smt主催で、2001年から2005年に渡って「せんだいアートアニュアル」が行われた。在仙の作家の育成に目を向けた大規模な公募展で、様々なジャンルを横断した作品が良く見られた。また、みやぎ県民文化創造の祭典実行委員会と宮城県が主催して、smtで行われていた「ニュー・アート・コンペティション of Miyagi」も2002年から2006年に渡り行われ、5人の作家の作品を公募し、大賞を決めつつ、公開展示をするというものだった。
 仙台ではないが、気仙沼のリアスアーク美術館では、2002年よりN.E.Blood展として、東北・北海道の若手、実力作家を毎年数名ずつ、個展形式で取り上げてきている。この展覧会にでも都度カタログを残している。仙台の作家がN.E.Blood展に取り上げられることもあり、先にあげた県美術館の普及部と共に美術館での展示のキャリアをこれらからスタートする作家も多い。
最後に教育普及、アトリエ機能などに触れる。宮城県美術館では、教育普及部が「何でも相談」という看板を掲げて、美術館が開いているときはいつでも誰でも、美術と美術館について相談ができるようになっている。このアトリエの機能は、長く地元の作家や見る者の社交の場、学習の場、制作の場として機能してきた。
 smtも、市民育成活動に力を入れており、2011年から10人~20人のワークショップを行っている。市民キュレーション講座(コール&レスポンス)や、本の編集(ちいさな出版がっこう)、または、美術について先輩から話を聴こうという(はじめての美術準備室)など多数。また、少人数ではないが、てつがくカフェとして、市民のディスカッションの場も設けている。これらの少人数に対するワークショップは、結果が出るまでに相当年数がかかるものもあり、かつ、成果が見えにくい。にも関わらず、事業として継続されていることは、興味深く並びに先駆的な試みである。これとは別に、震災以降「3がつ11にちをわすれないためにセンター」の立ち上げがあり、100名以上の市民や参加者が集い、様々な映像記録をアーカイブしている事業もある。表現活動の広がりや、新しい視点の創造として注目したい。

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 冒頭にScale-Out展を取り上げたのは、この展覧会が作家自らが立ち上がり、展覧会を行おうとしたものだからである。それに続くSARPの試みも同じである。ここには、在仙の専門の批評家はほぼいない。SARPのHPで読むことができるいくつかのレビューはあるが、あくまで、作家ありきの活動になっている。これらの活動が、何らかの資金を得つつ、活動を継続していることは、少なくとも現在仙台に置いて表現をし続ける場は作り出されているといえる。そこに、ここでは取り上げ切れていない民間のギャラリーがあり、さらに公的機関が存在し、作家やその周りの人材を育てている。だが自発的な活動としては、現時点では作家の活動が顕著であり、特徴的だ。これに対して、批評家が少ない、文章が少ない、あるいは、企画者が少ないということは指摘できる。また、そのことに公の機関がすでに気が付いており、いくつかの手を打とうとはしている。

 冒頭に戻ろう。はたして、人間はアートや美術を必要とするのか?その答えのいくつかは、この仙台の現状を考察するとある程度は見えてくるのではないだろうか。すなわち、表現は必要性がある、ないに関わらず、立ち上がり続ける。しかし、それを継続したり、受け手として受け止めたり、あるいは、買ったりするにいたるには時間と知恵が必要なのだろう。少なくとも、表現は表出することを求めている。誰にやれといわれるでもなく、表現は立ち上がり、形を見せるものであるということは、どうやらいえそうである。そこからでは、わたしたちは何をすることができるのか。考えてみることはできるのではないだろうか。

2018年2月追記:
このとき取り上げられなかったギャラリーの活動に、仙台駅前のヒューモスファイブを使ったギャラリー五番街(旧称五番街タウンギャラリー)がある。樋口佳絵、霜山直良などの宮城県在住の若手作家を取り上げた。この場所も作家としての登竜門として機能していた。1995年1月から2005年5月まで続いた。

S-meme 04  2012年 初出

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