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ちょっとした後悔の話

基本的には「後悔しても意味がないから、反省はするけど後悔はしないよ」って言っていたい強がりタイプだとおもう。

だって「こうすりゃよかった」なんて話、なんにも生まない。後悔してる時間に、今からどうするかを考えたほうがよっぽど有意義だよ。そんな正論を自分にもふりかざしてきたし、たぶん周りにもそんな励ましをしてしまったこともあったと思う。時と場合により、まちがいじゃないとも思っている。

でも最近、そうはいっても「あー、やっぱりあのときこうすりゃよかったなあ」と、非生産的にぼんやり思っていることがある。

べつにそれによって決定的に何かが破壊されたとか、そういう大変な経験ではない。だから逆に「反省」というほどの強い感情もない。ただぼんやりと、「あー、やっぱりああしたほうがよかったなあ」と思うばかりである。

なんとなく、もやもやしている。でも、変えられるのはいまからの行動だけだとわかってもいる。だから自分の内側でぷすぷすくすぶらせていたけれど、まあ書いちゃったらちょっと消化できるので、書いちゃおう。

え、そんな非生産的なお話に付き合っているひまはないわという方は、どうか読まないで。だって今日はひたすら非生産的な話のまま、終わる(笑)。

* * *

わたしは、夫と結婚すると決めてから実際に入籍するまでの間に、以前自分がワーキングホリデーで滞在していたオーストラリアにひとり旅をした。趣味と、ライフワークを兼ねた旅だった。

「あー、やっぱりこうしたほうがよかったなあ」とぼんやり最近思っているのは、このとき、ひとり旅じゃなくてやっぱり夫と一緒に旅すればよかったなあ、ということである。

当時はひとりで行くことを当然のように思い、夫となるひとを積極的に誘おうともしなかった。

単純に、自分の仕事の都合メインで日程を決めてしまったから、日程があわなかったというのもある。でもそれだって、ふたり旅にすることを優先したなら、がんばって調整もきっとできただろう。

ただ当時のわたしは、気楽にひとり旅ができるのはきっとこれが最後だしなあ、と思っていた。だからひとり旅を満喫することに迷いはなくて、むしろわくわくしていた気がする。

それに、その旅ではワーホリ中に出会った友人たちのその後の生き方をインタビューしたい、という目的もあった。だから行程も、観光というより、向こうのわたしの知り合いに会うことがメインとなる。

完全にわたしの趣味に付き合わせるみたいな形になるのに、忙しい仕事を1週間ほど休んでもらうのも非現実的だと思ったし、ひとり旅も好きだし、今回はべつに一緒に行かなくてもいいよねえ。

当時はあまり深く考えず、なんの疑問も持たず、そう思っていたのだ。

* * *

せっかく夫と知り合ってからあのチャンスがあったのだから、やっぱりあのとき一緒に行けばよかったなあ。

最近そう思うようになったのは、すこし前のnote「毎日、目にする景色」にも書いたように、「どこでどう暮らすか」という暮らしのイメージのことをよく考えるようになったからだ。

オーストラリアの郊外での暮らしは、わたしにとって、理想のひとつだった。「だからオーストラリアに住みたい!」という気持ちはあまり強くはないのだけれど(ちょっとはあるけど)、なんというか、ひたすら広大な大地とか、田舎の方の一軒家のスケール感(敷地が日本でいう自然公園なみ)とか、時間の流れ方とか、仕事への気楽な向き合い方とか、そういう暮らしを組み立てるいろんな要素が、ゆったりとしていてとても肌に合った。

オーストラリアとひとくちに言っても、都市部と田舎のほうではかなり異なる。わたしはワーキングホリデー中にも前半は都市部、後半は田舎を転々としながら過ごしていた。そして結婚前に行ったひとり旅でも、都市部に住む友人・知人と会う機会もあり、また、郊外に家族で住む友人をたずねる機会もあったのだ。

ちなみに郊外に住む友人というのはこちらの彼女である。当時1歳の息子くんを、シドニー郊外で育てる彼女に、会いに行って話を聞いた。

自然公園かと思うような広々とした庭。家から一歩出れば、どこまでもどこまでも広がる芝生。その草や岩場のうえをハイハイするのが当然の息子くん。家の敷地内に池というかダムもあって、林もあって、ほんとうに、日本だったら散策しがいのある「自然公園」だ。広々としたその光景が日常のなかにあり、息子くんはそれを当然の景色として、育ってゆく。

いま、自分が子育てをするようになって、あの光景を思い返すと、その暮らしぶりがまたいっそう鮮やかに、違った色合いで見えてくる。

そこで彼女から聞いた話、日本との育児との考え方のちがい。

あの空間を、夫と共有したかったなあ……。

* * *

「どこでどう暮らしたいとか、そういうイメージってない?」「わたしはこんなふうな暮らしがしてみたいってぼんやりと思ってるんだけど」。

そんな話を結婚後、なんどか夫に持ちかけてみたけれど、夫にはあまり、そういう「暮らしのイメージ」という感覚がないらしく、どうもピンと来ていないようだった。

それが悪いと言うつもりはなくて、タイプの違いなんだろうなあ、と思う。紐解いていけば「みんなが楽しく暮らしたい」というのは共通の認識としてあるとわかった。そのなかにはきっと、夫自身も、わたしも、娘も、楽しいと思える環境をいっしょに探そうという気持ちは内包されている。それはわかっているから安心している。

でもやっぱりちょっと、ちょっとだけ思っちゃうのだ。

ああ、あの景色を、空間を、友人の暮らしぶりを、あの雰囲気をいっしょに感じられていたらなあって。

考えてもしかたのないことだけど、思っちゃう。

何度も何度もことばを尽くしても、いつもなんだか「伝わってない気がするなあ」と感じている、「こんな暮らしにあこがれているんだ」っていうところ。その温度感を、あの旅を共有することでもっとスッとつかめていたんじゃないかなって。

その土台があれば、いま「どう暮らすか」を話すときに生じがちな、ささいな「お互いにお互いの気持ちがちゃんと伝わってない気がする」っていうすれちがいや小競り合いを、スポンと飛び越えて、次の話ができたんじゃないかなってさ。

* * *

という、ちょっとした後悔。

でもわたしたちはもうおとなだし、時間は巻き戻せないことも知っているから、いまからできることを考えて、ゆるやかに動き出そうともしている。

そう。これからたくさんのことを、共有したらいいんだ。

それでいい。それで十分だよってわかっていながら、巻き戻せないあのときのことを考えたりも、しちゃう。

自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。