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ことばとせかい

1歳の娘はまだ、はっきりと意味のある語をしゃべらない。

「あば、あば、あば」「でゃーでゃーでぃ!」「あびゅでゅー!」などと、宇宙語のおしゃべりをしている。

はやく何を考えているのか聞きたいな、意志の疎通ができたらいいな。そう思うから、娘が話し出すのはとても待ち遠しい。

けれど一方で、いま毎日耳にしているこの宇宙語が聞けなくなってしまうのかと思うと、それはそれでとてもさみしい。

* * *

ことばのない世界で、彼女は何を感じて、どう世界をみているのだろう。

わたしたちは、何かを「考える」ときに無意識にことばを使っている。言い換えれば、ことばなしに、「考える」という行為ができないのだ。

「いやいや、まぁ確かに普段はことばありきで考えているけれども、ことばを使っちゃいけないというルールがあれば、脳内での考えごとくらいできるでしょう」

そう思う方がいたら、ぜひ実際に試してほしい。

わたしもやってみようとしたが、なかなかどうして、難しいのだ。難しいというか、できない。

「よし、まずは頭を空っぽにするぞ」とか考えている時点で、すでにことばに操られている。「さて、何を考えたものか」「意識を遠くに飛ばしてみよう」とか、結局ことばで考えつづけてしまう。

ことばの制限のなかでしか、もはやわたしたちは考えられない。

* * *

だからそれとは切り離されて、完全に自由なフィールドにいる1歳の娘をうらやましく思うし、とても尊敬している。

手に入れたくても、もう手に入れることのできないものを、彼女は持っているからだ。

わたしたちが、ことばという制限のなかでしか考えられないとしたら、ほんとうはその外にも、いろいろなものが広がっているんじゃないだろうか。

「毎日、なにをどんなふうに考えているんだろうね」

とくに生まれたばかりのころは、娘の顔をみながら夫とよくそんなことを話していた。

新生児のころは自分と他との境界もあいまいだ。そこから、手を発見して、足を発見して、数ヵ月をかけて少しずつ、自分というものを獲得してゆく。

2、3ヵ月くらいになると、起きている時間が長くなってくる。でもまだおすわりして遊ぶ時期ではないから、1日天井を見つめてごろごろしている。

おとななら、「ああ、退屈だなぁ」とでも思っているところかもしれないが、そんなふうには見えない。はたから見ていると、この世界のことを少しずつ理解しようと、がんばって分析しているところなのかなぁ、なんて想像する。ほんとうのところはわからない。

あの時期、いったい何を考えて1日を過ごしていたのだろう。そして、ことばを持たずに、いったいどんなふうにイメージしていたのだろう。

娘が話せるようになったら聞いてみたい。覚えているかしら。それにしても聞ける答えは、「ことば」で表現されたものになってしまうのだけれど。

ことばと出会って間もない、幼児ならではの表現力に大いに期待している。

* * *

念のため補足しておくと、わたしはことばというもの自体は好きだ。とてもおもしろいものだと思っている。

ひとが、自分の脳内にあるイメージをとりだすときに、それをことばという共通の形に変換する。文字にすれば、それは目に見える形にもなる。

ことばがあるから、目の前の人はもちろん、こうしていま読んでくださっている方と、コミュニケーションがとれる。

けれど、同じ単語で全然ちがうイメージを持っていたりすると、コミュニケーションにズレが起きる。そんなことはしょっちゅうだ。

でも、当然だ。ことばは万能じゃない。不完全だ。あたまのなかにある「その人の思い浮かべているイメージそのもの」を、そのままとりだして共有することは、まだ人類にはできない。

それがいつか簡単にできるようになったとして、そうしたらわたしはさみしく思うんだろうな。ことばは不完全だ、とかさんざん言っているくせに。人間はないものねだりだ。

* * *

結局、ことばが好きなのだ。

ああでもない、こうでもない。どういったら伝わるだろうか。思っていることをそのままぶつける以上に、伝えられるのはどんな表現だろうか。不完全な枠のなかで、限界を感じながらもそうやってウンウン探す。だからことば選びには、人となりが見えてくる。

どんなことばに、どんなイメージを持っているか。どんなときに、どんなことばを使うのか。それはそのひとが生きてきた環境によって変わってくるものなのだと思う。

娘はこれから、どんなことばたちと出会ってゆくかな。そして、どんなことばを選んでゆくだろう。

「だーでゃ!」「んーでぃでぃでぃ」と楽しそうにおしゃべりを繰り返す娘に、「でゃ、でゃでゃ!」と笑って返事しながら、そんなことを考える。

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P.S. 娘の宇宙語を聞いていると「音」も自由だなと思う(五十音で表現するのには限界を感じる)。外国語教育は早期からと言われるのもわかる。いまはまだどんな音でも出せるのに、言葉を習得する過程で「日本語」にある音しか発音できなくなってゆくのだなぁ。ちょっと切ない。

自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。