見出し画像

旅人になった日と、それから。

初めてパンパンに荷物が詰まったバックパックを背負ったとき、「ああ、旅に出るんだな」と思った。

リュックは手に持った状態からパッと担ぐもの、というイメージで生きてきた自分にとって、座った状態で背負ってからよいしょ、と慎重に立ち上がらなければいけないそれは、特別感を高めるのに十分なものだった。胸と腰のベルトをカッチリ閉めることで、体全体に重さが分散して楽になる。リュックについている腰ベルトの機能性なんて、そのときまで知らなかった。

それまで使っていたスーツケースは、日本に送り返した。

日々暮らすために必要な装備は、実はとても少ないと知る。このバックパックひとつだけで、わたしはこれからの数ヶ月、生活できてしまうのだ。

この相棒さえいれば、どこにだって行ける。行ってもいい。わたしにとってそれは旅の象徴であり、自由の象徴のようにも感じられた。

「バックパックが旅の象徴だなんてありがちだね」「夢見がちだね」。そう冷笑するひともいるかもしれない。若いころのわたしには、確かにわかりやすく「旅人っぽいひと」への憧れもあったと思うし、否定はしない。

でもたぶん、一度でも長い旅をしたことのあるひとなら、きっとこう言ってくれる気がする。「あ、わかるわかる」って。ちょっとはにかんだような、めちゃめちゃいい表情をしながらさ。たぶん、たぶんだけど。

そのときわたしは、オーストラリアでのワーキングホリデー生活を半年ほど終えたところだった。

前半はいわゆる大都市のシドニーで、在住日本人向けのフリーペーパー編集部でライターとして働かせてもらいながら、多国籍のルームメイトたちとシェア暮らしをしていた。

そこまでは、日本からフィジー、フィジーからオーストラリアへとずっと転がしてきたスーツケースを使っていた。でもここからの旅では、スーツケースは足かせになる。だからスーツケースは日本へ送り返し、バックパックのみに切り替えようと決めた。しかもちょうど友人が、使っていない新品状態のバックパックを譲ってくれたのだ。

スーツケースが足かせになってしまう旅。つまりそれは、それまでのように「どこか一箇所に腰を落ち着けるわけではない」旅。機動性高く、心の赴くままに、次から次へと動くつもりの旅、ということだ。

都市部で働き暮らした半年を終え、わたしはオーストラリアの田舎の暮らしが見てみたい、という思いをむくむくと高めていた。なにせ、オーストラリア大陸は日本の約20倍。地図で比べると、日本地図はオーストラリア大陸の中に柄のアクセント、くらいの印象ですっぽりと小さくおさまってしまう。

日本国内ですら、北海道から沖縄まで、各地方であれだけいろいろなカルチャーがある。たとえば外国から来た観光客が“Tokyo”と”Kyoto”だけを見て「それが日本だ」というイメージを抱かれるのは、まあアリだとは思うけれど、なんだかちょっと釈然としない気持ちもある。

それと一緒で、わたしももっとローカルで、地元の人しかいないような土地での暮らしを、のぞいてみたかったのだ(異国の“日常”に興味がある背景は前回のnoteに書いた)。

だからWWOOFという、ファームステイのような形を選んだ。旅人側は、半日ほど働く代わりに、食事と寝る場所を提供してもらえるという交換のシステム。金銭的な報酬を得ないかわりに、支出もほぼない。

このWWOOF旅をしている間、かかったのは交通費と、滞在先を変えるときに必要に応じて間で泊まる、ドミトリーの宿泊費くらいだった。

どのくらい続くのかもわからず、とりあえずバックパックに荷物を詰め込んで、最初の一軒目だけを決めてふらりとはじめたWWOOF旅。

でもあとからふりかえってみれば、オーストラリア大陸を半周する形で転々としながら、8箇所の家庭で時間を過ごさせてもらった、4ヵ月以上の旅となっていた。

よく「どこが一番よかった?」と聞かれるのだけれど、ひとつひとつの家庭がまったく違う性質を持っているので、比べることができない。ありがちな回答、だろうか。でも、ほんとうにそうなのだ。それぞれの場所でしか聞けなかった言葉があり、そこでしかできなかった体験がある。

それぞれの滞在先で1週間から、長いところでは1ヶ月以上も日々を過ごした。帰国直後に旅行記を書いたので、記憶を引っ張ってこれないことはないのだが、今回はひとつひとつのエピソードを記すのはやめておく。

かわりに、その旅行記では書かなかったことを書こう。

「旅をしている」

その感覚を強く味わうときは、いつだろう。

わたしの場合は、長距離バスや飛行機などで移動しているときと、それから次の行き先を考えたりしているときだ。さあ、これからどうしようかなあ、と、明日の、1週間後の自分に思いを馳せているとき。

そう、WWOOF旅ではすべてが、自分に委ねられていた。

この場所にもう少し滞在しつづけてもいい。1週間後、隣の町の農場へ移動してみてもいい。飛行機で、遠くの町へ向かってもいい。日本へ帰ってもいいし、別の国へ行ったっていい。たとえ滞在先の事情で移動せざるを得ないことがあっても、その行き先はやはり、自分に委ねられている。

「今日はここの雑草を抜いてね」「ゴミはここに分別してね」なんて、その場所で暮らすための細かな指示はあるけれど、これからの旅路については、誰かに何かを指示されることが一切ない。

そのかわり、資金や安全面、手続きなどは自分でなんとかしなければならない。束縛や制約がないかわりに、安定や保証もない。なんとかする方法を自ら探したり、探しても見つからなければ、自分でなんとかする方法をつくるしかない。

さっきすべてが自分に委ねられている、と書いたけれど、それでもWWOOFerは、最長でも数ヶ月くらいで、次の場所へ移動するひとが大半だ。基本的にみな「旅」の中だと認識しているので、ここで永住しよう、という気持ちではない。それがあるから、だいたい数週間、長くても数ヶ月という単位で、選択することになる。「さあ、次はどうしよう?」と。

わたしの場合は、ひとつのWWOOFホストのところに滞在しながら、そろそろ動こうかなと思ったときに、空き時間に次の滞在先を探していた。

リスト本を見ながら、気になる農場を見つけてはそこへメールを送り、受け入れの可否を聞く。運良く最初にメールを送った先で受け入れが決まることもあれば、オフシーズンなどは何件メールしても全然決まらない、ということもあった。夜な夜な必死で、メールを送りつづけたこともある。

向こう1週間ほどの自分が何をしているのかも知らず、それを今の自分の選択が決めてゆく。

それはひとによってはものすごいストレスを感じる体験でもあるだろうし、ひとによってはスリリングで、おもしろさを感じる体験でもあるだろう。

わたしがこの旅を通して一番感じた旅のおもしろさは、たぶん、ここだった。印象的な体験、心に残ったひとことはたくさんあるのだけれど、純粋に「旅のおもしろさ」という意味では。

自分の決断によって、毎日が作られていく。今の行動が、1週間後の自分の生活を決める。その関係性がとてもクリアだった。

「日々を自分で作っている」という実感があった。

いまここまで書いていて、この旅の感覚はフリーランスの働き方にも通じるものがあるような気がする、と思い当たった。

自分で自分の選びたい歩き方を選択できるかわりに、安定や保証はない。たとえば仕事が得られなかったり、目指す収入に到達しないならば、営業をして仕事をとるとか、他にアルバイトをするとか、なんとかする方法を自分で探さなければならない。

ちなみにわたしはいま個人で仕事をすることを選択しているけれど、これだけ多様な働き方が増えてきている世の中で、みんなフリーランスになればいいよハッピー!なんて言うつもりはもちろんまったく、ない。

むしろ、会社員でありながら基本リモートワークで、仕事量もスケジュールも自分の都合にあわせて非常に自由度高く調整できて、成果物さえちゃんとあげてれば他の時間の使い方に一切文句の言われない、それぞれが尊重しあってるような組織があるなら、そっちのほうがよほどいいと思う(実際もういくつかあるとも思っている)。

”会社は守ってくれない”というのはある意味では真実だと思うけれど、毎月安定したお給料が振り込まれたり、体調を崩したときにカバーしてくれる人員がいたり、扶養外となれば健康保険や年金などのメリットがあったり、守ってくれている部分も確かに大きい。

それだけ書いておきながら、わたし個人は、もうたぶん、会社員にはならないと思う(まあ会社側が願い下げかもしれない笑)。いや、なるとしたら、さっき書いたような理想をすべて叶えてくれるような組織だ。そんな組織があれば喜んで一員になりたい。おい、我ながらなんか偉そうだな何様だよ。

うん、でも、自由には厳しさがついてまわるよ、っていうのが前提だから、自分は会社員にならない、なれないっていうのは偉そうでもなんでもなくて、ただ「あ、そう。あんたはそうなのね」くらいのことだと思うのだ。

さっき出てきたような、旅で小刻みに選択を迫られる感じを、ストレスと感じる人もいれば、おもしろいと感じるひともいるのと同じで。どういう状態があなたにとって「いいなと思える状態」かは、それぞれ違うと思っている。

ただわたしの場合は、自分に委ねられている要素が多いほうが、おもしろいと思ってしまうんだな。使い古された表現だからあまり書きたくはないけれど、人生はほんとうに一度きり。格好悪くてもうまくいかなくても、できるかぎり自分で選択をつづけたい。

それには個人で働くとか会社で働くとかいう話だけじゃなく、日々の生活の中で行う選択も含まれている。数年後どう生きるか。数カ月後どう生きるか。数週間後どう生きるか。明日どう生きるか。そこへつながる選択を、わたしたちは毎日している。

「人生は旅だ」とよく言われるのも、きっと毎日がこうして、行き先を選択しつづける日々の連続だからだろう。

あなたは、ほんとうは、自由だ。

いま自分が抱えていると思っているもの、足かせだと思っているもの、課題だと思っているものは、ほんとうにそうなのだろうか。

それがいま守りたいものならば、動かずにそのまま守ればいい。それも確かな幸せの形だ。でももし、違った気持ちがあるなら、次の選択はいつだって、変えてみてもいいはずなんだ。

バックパックひとつで旅をしていた、あのときの感覚を忘れたくはない。何もかもが変わったと思っていたけれど、ほんとうはすべて延長線上にある。

どうか、軽やかに。

自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。