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あのとき親に反対されても旅に出てよかったよって、自分が親になっても言っていたい。

初めてのひとり旅は、大学3年の12月だった。

行き先はタイのチェンマイ……ではなく、チェンライ。……ですらなく、チェンライからさらに車でずっと移動した先にある、小さな小さな村だった。

「だってあなた、日本国内でもひとり旅なんかしたことないのに。そんなところにひとり旅なんて、危なくて行かせられないよ!」

初めてその旅へ行きたいと告げたとき、両親は猛反対。父はともかく、理解してくれていると思っていた母にも、そんなふうに強く否定されたのはショックだった。

父のほうはというと、母のように理由を告げることすらなく、終始ムスッとした態度で「ダメだ」の一点張り。なぜ行きたいのかと理由を聞くこともなく、ただただ、頭ごなしに否定された。「ダメと言ったらダメなんだ」。

まだ血気盛んな21歳だったわたしは、それがものすごく悔しく、同時にはらわたが煮えくり返りそうなくらい腹が立った。なぜ父は、人の話をまず聞こうともしないのか。これでは話し合いにすらならないじゃないか。

悔しくて、悔しくて、でもどうしてもそのタイミングで行きたかったわたしは、いつもなら泣いてふて寝しそうなところ、このときだけはそうしなかった。そうして泣きながら部屋に帰り、その勢いで鉛筆を握り、裏紙にプレゼン資料を殴り書きしはじめた。わたし史上、最高に憤っていた。

これは親に試されている。

勝手にそう感じていたし、一度頭ごなしに否定されたくらいで泣き寝入りするくらいの気持ちならその程度、と思われるのもしゃくだった。

絶対に、行ってやる。格好悪くてもなんでもいいから、きちんと思いの背景から、両親相手にプレゼンをして説得してやる。ひとえにその一心で、涙をだらだら流しながら、荒々しく裏紙に気持ちをつづった。

大学3年で就職活動をはじめ、会社のセミナーなどに行きはじめたこと。そんな中、11月にゼミでベトナムを訪れる機会があり、初めて自分の目で見た"途上国”の光景に衝撃を受けたこと……。

――自分がスーツに身を固めてセミナー会場に座っている間、ベトナムの田舎の道端では、何をしているのかよくわからないおじさんたちがボードゲームに興じていた。自分から見れば今にも崩れそうな屋根の掘っ立て小屋で、子どもたちが笑顔で遊んでいた。

どこか“テレビの中”だと思っていた風景のなかで、当然のように毎日を過ごしているひとたちがたくさんいた。自分と同じ世界の、同じ24時間が流れていた。そこに生活が、毎日の暮らしがあった――。

そんな異国での“日常”を目の当たりにして、自分は日本以外の暮らしや、時間の流れ方を知らなすぎると思ったこと。その状態で、行きたい会社、就きたい仕事を考えることに疑問を感じていること。もっと、異国の”日常”や“暮らし”を知りたいと思っていること。

それを踏まえて自分なりに情報収集をして、今回のツアーを見つけたこと。

そう、当時わたしが行きたいと主張していたのは一応、小さな旅行会社のパッケージツアーだった。ただ、「一人から催行可」という、その年に初めて企画された前例のないツアー。タイ人の日本語ガイドさんの実家である、田舎の家にホームステイして、現地の暮らしを体験するという1週間ほどのプログラムだった。

ひとり旅の経験がない自分なりに、それでも現地の生活に触れられるものはないかと、いろいろと探してその旅プランを見つけたこと。危ない危ないと言うけれど、日本にいたっていつ事故にあうかもわからないし、リスクはどこにいてもあると感じていること。

とにかく旅へ出たくて、出たくて、必死だった。

娘の尋常ならない食い下がりに、両親もついにOKを出してくれた。

いま思えば、きっとあのあと両親は話し合ったのだろう。当時、海外へ出かけたことは一度もなかった両親だから、今のわたしが想像するよりもよほど大きな不安があったに違いない。それでも最終的には、この血気盛んな娘を応援しようと決めてくれたのだろう。そう、今なら思える。

とにかくその年の12月、私はひとりでタイの田舎の村に1週間ほど滞在することになった。

前例のないそのツアーに申し込んだのは、わたしが初めてだったらしい。

「初めてのお客さんです。何をしてみたいですか」。空港で落ち合ったタイ人女性の日本語ガイドさんは、にっこり笑ってそう言った。

ああ、受け入れる側も初めてなんだな、それってツアーといえど、まだ“お決まりのコース”もできていないってことだ。それこそわたしがのぞんでいたもので、楽しそうだなあ、とわくわくしたのを覚えている。

1日目は夜の空港に着き、そのガイドさんと街を歩いて、タイ舞踊を見ながら屋台のタイラーメンを食べるという、いかにも観光っぽいことをした。

2日目には車で、ガイドさんのお母さんが暮らしている村へ移動した。街の中心部を離れると、道路の舗装もなくなり、村の近くは土がむき出しのままの道だった。砂ぼこりが舞う中で、ガイドさんの実家がある村へと到着。

家についたら玄関先には飼い犬がいて、村の道端のそこかしこにも、たくさんの野良犬(?)たちがいた。わたしは少々面食らった。当時のわたしは、犬が苦手だったのだ。

けれどなかなかどうして、村にいる犬の多くは、日中は暑さからか道端でべたっと寝そべってぐうぐう寝ていて、戦意が感じられないというか、なんだか人間みたいで親しみがわいた。

それに子犬たちにお乳をあげている母犬もいて、両手のひらにおさまりそうなくらい小さくてふわふわとした子犬たちは、どうがんばってみてもかわいいとしか言えなかった。

犬と人間というより、同じ生き物としてただ、共生しているような感覚に近いような気がした。

街中では英語もそれなりに通じるが、もちろん村では英語すらも通じない。

頼みの綱はその日本語ガイドさんで、彼女がいるときは大いに助けてもらった。もちろん四六時中、横にべったりといるわけではないので、お母さんや他の村人とは、完全にボディランゲージだ。あと、笑顔。

(↑向かって左がガイドさん、右がお母さん)

近くの市場に、一緒に買い出しにいって、野菜や肉を買った。

“市場”はベトナムでも大きなところに行っていたので初めてではないけれど、そういう観光客が訪れる市場とはまったく違う雰囲気の、臆さず言うならちょっと薄暗くて埃っぽい、生肉の周りをハエがぶんぶんと飛び回る、ほんとうに村のひとだけが訪れる市場だった。

笑顔がチャーミングなおばさんが、生肉をぼん、と袋につっこんで渡してくれた。豪快。

買ってきた野菜を、ガイドさんが台所で調理してくれる。にんにくや香辛料を、小さな石器みたいなものに入れてごっごっ、とつぶし、ガッと入れる。ちょっと炒めるのを手伝わせてもらったりもする。

その台所の床に、ゴザみたいなものをひいて、料理を並べ、みなで囲んで食べる。テーブルは使わない。ピクニックスタイルのような感じだ。

知り合いもいない土地で、こうやって外食じゃなく「おうちのごはん」を食べられることが、とても嬉しかった。そして驚くべきことに、そのどれもが本当においしかった。

ハエがぶんぶん飛び回っていたところのお肉かあ、だいじょうぶかなって、一瞬だけ頭をよぎらないわけではなかったけれど、口にした瞬間、おいしさでどうでもよくなって、ばくばく食べていた。

やっぱり自分はアジア人なんだなあと、胃袋で実感する。

近所にはこどもたちも住んでいて、ちょくちょく遊びに来ていた。小さい子たちとお絵描きをしたり、中学生くらいの女の子と話したり……と言っても、ガイドさんづてか、ボディランゲージだけど。

笑顔がすてきな中学生の女の子は、わたしにいくつかタイ語を教えてくれた。ガイドさんのいないときも、わたしが持参した語学本のイラストを指さしたりして、なんとなく会話を楽しんだ。言葉が通じなくても、コミュニケーションってとれるんだな。

ガイドさんを介して話を聞いたら、将来は先生になりたいのだと言っていた。通りでわたしの下手なタイ語の発音練習に、嫌な顔ひとつせずにこやかにつきあってくれるわけだ。弟の面倒見もとてもよかった。

もしかしたら今頃は、ほんとうに教師になっているかもしれない。

一番印象に残っているのは、お母さんと一緒に、お菓子づくりをしたことだ。(↓バナナの皮を拭くお母さん)

残念ながら詳細なレシピは覚えていないのだけれど、もち米と何かを混ぜたものに、カットしたバナナを入れて、バナナの葉っぱで包む作業がおもしろかった。

日本で「お菓子づくり」というときれいなシステムキッチンでやるようなイメージだけれど、そのお菓子作りは外でやる。

(↑慣れないわたしの手付きをあたたかく見守ってくれるお母さん)

縁側にゴザをひいて、あぐらをかいちゃったりしながら、バナナの皮で包む作業をみんなでのんびりとやる。

そのまま外のかまどで火を起こして、それを蒸したり煮たりする。別にアウトドアクッキングという特別なものでもなく、それが日常の光景で、犬もそのそばでのんびりと過ごしていた。

翌朝早くに、修行僧が托鉢にくるというので、早起きしていっしょに参加させてもらった。

まだ薄暗い朝、ひんやりとした空気の中で道端に立っていると、ほんとうに、鮮やかなオレンジ色の袈裟を見に付けた若い修行僧たちが歩いてくる。お母さんやガイドさんといっしょに、食べ物などをお供えして、しゃがんで手をあわせた。

朝陽がのぼってきたのは、それからしばらくした後だった。

この旅の記憶はもう10年以上も昔のもので、正直なところ、こうやって淡々とふりかえることしかできない。

当時のわたしに書かせたら、きっと荒削りでも、もっといきいきとした、温度感のあるものになっていただろうなと思うけれど、もうそれができない。それはちょっとだけ、さみしい。

でも今、時を経て改めてこうやってふりかえると、ああ、たしかにこれが、わたしの旅の原体験だったのかもしれないな、と思うのだ。

海外旅行自体は、初めてではなかった。でもわたしにとって「旅人になった日」というテーマに思いをめぐらせていて思い当たったのは、このタイの村で過ごした日々のことだった。

わたしにとっての「旅」は、観光地をめぐることよりも、異国での日常に触れることなのかもしれない。

タイの旅でそのおもしろさに確信を持ってしまったわたしは、その後も友人と行く旅行とは別に、ひとりで飛び出して"いろんな国の家庭で時間を過ごすこと”を選択するようになった。

大学の卒業間際にカナダへ2週間だけ語学留学したときにも、現地でホームステイをした。初日に車酔いをして到着した家で、気分がすぐれなくてと伝えたその日の夕飯はフライドチキンのみで、異文化の洗礼を受けた気がした。

さらに大学を卒業して3年後、会社を辞めて海外へ飛んだ。最初は南の島フィジーから。そこでもホームステイをしたけれど、価値観の違いがトラブルにつながって1ヶ月で離脱した。短期間なら異文化体験と楽しめることも、ほんとうに日常にしようとすると馴染めないものもあるんだな。そんな自分の中の一面にも、旅の中で新たに気づかされた。

そしてオーストラリアでのワーキングホリデー。前半はシドニーで、現地の日本人向けフリーペーパーの編集部で働かせてもらい、後半はバックパックをしょって、田舎の方を転々としながら、オーストラリア大陸を半周した。

田舎を旅するときには、「WWOOF」という、ファームステイの一種のようなしくみを使った。ざっくり言うと、自分がその農家や家庭で農作業や掃除などを手伝う「力」を提供するかわりに、ホストから「食事と寝る場所」を与えてもらうという、交換のしくみだ。わたしの場合、ひとつの家では1週間から1ヵ月ほど過ごし、約4ヵ月で合計8箇所の家庭を回らせてもらった。

その形を選んだのも、旅人だけが集う宿で過ごすのではなくて、「一般家庭の暮らしに触れたい」という思いが、20代のわたしにはずっと貫かれていたからだ。

日本以外の日常が知りたい。暮らし方、生き方を知りたい。そうしてそれを、ただの願望ではなく、現実にしてくれた初めての体験が、あのタイの村へ行ったツアーなのだと思う。

ベトナムで初めて感じたあの小さな気持ちを、そのままにしなくてよかった。両親に反対されても、粘り強く交渉してよかった。旅に出てよかった。

あれはきっと、その後のたくさんの旅につながる、入り口の旅だった。


「じゃあ、その旅は、いまのあなたにどう活かされていますか?」

そう聞かれると、わたしはうまく即答できない。

タイの村で、特に忘れられないひとことがあったかと言われるとそうでもないし、価値観を覆すほどの体験があったかといわれると、そうでもない。

でも旅は、ひとつでは終わらないのだ。

自分の気持ちに素直になる。旅をする。旅の中で、また新たな自分に気づく。その気持ちをつきつめてゆくと、また旅をしたくなる。

旅は、次の旅を生む。

そう考えると、タイの旅を入り口に連なった、数々の旅たちは、わたしの人生に大きな影響を与えている。

旅を通じて出会った友人たちの一部は、わたしの人生を構成するのに不可欠だといえるほど大切な人たちになった。ライターという肩書きでは当時、未経験の状態だったわたしを、シドニーの編集長が拾ってくれたことが、わたしのライターとしてのはじまりだった。オフィスや取材には編集長のお子さんたちが遊びにきていて、仕事の概念をいい意味でふっとばされた。田舎の家庭で長期間一緒に過ごさせてもらった家族にもらったことばは、今でもふとした瞬間に頭をよぎる。

旅先で出会ったひとびととの会話が、旅をしなければできなかった経験が、すべて今のわたしの考え方に影響を及ぼしている。

そしてそれらは、暮らしに直結するものであり、生き方に直結するものだ。だから一時期のものとして色褪せることなく、むしろ自分が年を重ねるごとに、違った気持ちで思い出されるのだろう。

あのときホストファザーが言ったあのひとことは、ホストマザーがくれたあのことばの意味は、もしかしたらこうだったのかもしれないと。

いま、タイの旅から10年以上を経て、自分は子どもを産み親になった。

当時の親の気持ちの一片くらいは、感じとれるようになったと思う。

自分の好き勝手なことばかりしてきてごめんね。たくさん心配をかけてごめんね。わたしも父に似て、結局頑固なだけだったのかもしれないね(笑)。

今となってはそういう気持ちも大いにある。

でも、それでも。いつか子どもが自分から「こんな旅がしたい」と言い出したら、まず第一声、「おお、いいね」と言いたい。それがどんなに突拍子もないものだったとしてもだ。それから「どうして?」と理由を聞きたい。

身の守り方や安全の確保、旅のTipsを教えるのはそれからだ。もしかしたら状況によっては、その時期は見送ったほうがいいとか、ほんとうに難しい場合もあるかもしれない。でもそういう場合も、なぜその旅がしたいのかの背景をちゃんと聞いて、実現可能な代替案を、いっしょに議論したい。

そのくらい、行きたいと思った旅には絶対に行ったほうがいい。安全面などで多少のプラン変更はしてもいいけれど、その気持ち自体にフタをしてしまわないほうがいい。わたしが旅から得たと思っているものは計り知れない。あの旅の数々がなかったら、今のわたしは今の状態で存在しない。そう思っているから。

わが子よ、いつか君がひとりで旅に出て、旅先で何を感じるのかを、わたしは聞きたい。秘密のいくつかなんて当然あっていいし、こぼれ落ちていく気持ちの方が多いとわかっているけれど、いつかその断片だけでも、聞いてみたいんだ。直接語るのがもし億劫なら、書き記したり、撮ったものでもいいから。

そうそう、ちなみに君の祖父母はね、わたしが旅へ出てから、海外旅行をするようになったよ。きっとわたしも、君から刺激をもらって、枠の外へ飛び出そうと思うことが、この先いろいろあるんだと思う。期待している。

でもひとり旅までは、まだもう少し時間がかかるから。その日が来るまで、しばしいっしょに、たくさんの旅をしていこう。まだまだ母も「次の旅」がしてみたいんだ。

(おわり)

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P.S.海外生活をきっかけに、自分らしい生き方を楽しんでいる友人・知人に話を聞いたインタビュー記事などもたまーに書いています。これも、旅に出なければ生まれていなかった気持ちや思いたち。


自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。