エッセイになる気持ち

おなじみ(?)プログラマの夫が、1週間ほど前から突然、エッセイめいたものを書きはじめた。

これはわたしにとって青天の霹靂である。

いや、だって。これまで彼が書くものといえば、技術の話とか、関わっている仕事やプロジェクトの、ものっすごい細かいポイントについて説明したいがための話とか、またはこういう言葉の使い方には違和感があるとか、とにかく「伝えたい主題や思いがはっきりしている文章」が多かったのだ。

それは文章としてはとてもしっかりとしているのだけれど、ただ妻のひいき目から見ても「わかりやすい!」ようなものではないなと感じていた。

なんだろう、たぶんちょっと高度すぎるのだ。たぶん彼の脳内では、文章としては書かれていない部分が、前提としていろいろ考えられ処理されていて、その上でその文章が出てきているのだと思う。でも読み手にはその前提が伝わっていないので、突然感があり、読んで深く「なるほど〜!」と共感するところまではいきづらいのだ。

でもまあ、そもそもそこを目的にした文章ではないのだろうから、べつにそれでいいよなあとわたしも思っていた。わたしにはわたしの、彼には彼の好きな世界観があってよいし。

そんな夫が、ある日突然、「朝食に出たトマトスライスの種が取り切れなかった」みたいな日常の話を書きはじめたんだよ。なんだなんだ、突然こっち側来たじゃん。めっちゃ近いじゃん。どうした。

きっとあれだ、それを切り口に、途中から普遍的な話に結びつけて考察したり、賢そうな結論を導いたりして終わるのかな……と思って読んでいたら、とくにそうではなく、夫史上一番、宙ぶらりんな形でその文章が終わった。

いや、読み手側にいろんな解釈を残す、ともとれる余韻のある文章で、わたしは大好きなんだけど。とにかく、夫のそれまで書いていた「伝えたい主題や思いがはっきりしている文章」とは180度違った。

わたしは、夫の出勤中に初めてその文章をWeb上で知ったので、PCを見ながら目を疑った。寝耳に水というか、「ひあっ?」となった。

とにかく事件である。

* * *

その日帰宅した夫に、思わず聞いた。

ぽ:「ねえ、あれびっくりしたんだけど。トマトの種の話さ。なんでああいうの書こうと思ったの?」

夫:「なんかねえ。エッセイを書いてるひとって何が楽しいのかなと思って。それで考えてみたんだけど」

ぽ:「ほう?」

夫:「自分の場合はこれまで『文章を書こう』と思う動機がさ、ネガティブにしろポジティブにしろ大きく感情が動いたときとか、どうしても言いたいこと説明したいことが決まっている、みたいなときだったんだけど。でもエッセイってたぶん、違うんだよね」

ぽ:「というと」

夫:「たとえばグラフの軸をイメージして、横軸にネガティブ←→ポジティブがあって、縦軸に感情の度合いが0から100まであるとするじゃん」

ぽ:「う、うん……(←数学アレルギー)」

夫:「それで、自分は今まで、『ネガティブ100』とか『ポジティブ100』とか、そういうグラフの端っこエリアに感情が動いたときに文章を書くことが多かったんだけど。たぶんエッセイだと、そうじゃないんだなと。グラフの軸の近くの、このへん?(ボディランゲージで示しながら)。別にポジでもネガでもなくて、さらに感情の幅も別にさほど大きくなくてもいいところというか」

ぽ:「へえ、なるほどねえ。全然意識したことなかったけど、言われてみればたしかにそうかも。日常のとるにたらないこととか、べつにどうでもいいよなあって思うこととかをさ、それをきっかけにおもしろさを感じたりして、なんか書いてみたくなるというか」

夫:「だよね。っていうことに気づいて、日常のそういうささいなことを楽しめると幸福度があがるんじゃないかなって思ったんだよね。それいいなと思ったから、やってみようかなって」

ほー。

前々からわたしは「日々流れてゆく、とりとめのないことを書き留めたい」「ささいな、とるにたらない日常のことを書きたい」なんてことは言ってきたけれど、それが夫の脳みそを通すと、そんなふうにグラフ上のエリアで図解処理されるのかととても新鮮だった。

そうかそうか、そうなんだなあ。なるほど。

たぶん、すでに日常の話をたくさん書かれているnoterさんたちは息を吸って吐くくらいの自然さで身につけている感覚なので、今さら何?みたいなポイントだと思うのだけれど。

でも、もともとエッセイになじみがなく、普段エッセイを読んだり書いたりする習慣がないひとにも、なるほどそうやって伝えると「こんなこと書いても意味ないよなあ……」から、「こんなことこそ書いてみるといいのかもしれない」って考え方にシフトして、簡単にエッセイのネタをどんなところからでも見つけられるようになるのかもしれないなあ、なんて思った。

別に大きく感情が動いたわけじゃなくて、ああ豆大福おいしいなあとか、キャラメルマキアート飲むとホッとするなーとか、きゅうりにはやっぱ味噌だよねとか、そういう”どうでもいいけどさ”って枕詞をつけたくなっちゃうくらいのことが、十分ひとつの文章を書いてもいい、書けるようなことなんだなと認識できるというか(役には立たなくてもさ)。

縦軸横軸の話は、自分にはなじみがなかったけれど、そう言われることでやりやすくなるひともいるかもしれないなあ、と思ったのだった。

ぽ:「ところでさ、なんでそもそもエッセイに興味をもったの? もしかしてそれは、少なからずわたしのダラダラnoteの影響が……(おそるおそる)」

夫:「まあ少なからず、それはあるよねえ」

ほうほう。

なんと、noteを続けているとそんな効果効能もあるのか。

本当は、"いや少なからずっていうのはどのくらい少なからずなんですかねそれはつまり大いに感化されたってことでいいのですかね”とぐいぐい聞いてみたかったが、期待に反して自分が傷つくのもいやなので、ぐっとこらえて「ほほう」とだけ言った。

ぽ:「それはつまりあれですね、歩み寄りってやつですかね

夫:「そうだねえ」

ぽ:「いや、それはなんか嬉しいですね!あのプログラミング連載で、わたしもかなりがんばって夫さんの脳みその中を理解しようと歩み寄った感があったんだけど」

夫:「うんうん」

ぽ:「こんどは夫さんが、わたし側の脳みその構造を理解しようと歩み寄ってくれてるだなんて!なんと、すばらしいことですね。これは我が家において、極めて貴重な一歩ですね」

とても嬉しかったので、浮かれてなんだかめっちゃ讃えた。

”ひとはみな、違うから、おもしろい”。

きっと今まで何度でも聞いてきたようなそのフレーズが、なんだかとてもしっくりときた夜だった。


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