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むすめ2歳の入院日記(17)術後14日目、退院日

9月11日(水)晴れ

寝不足でも、差し込む日差しで自然と目が覚める。娘は柵に囲まれたベッドから、またじっと、付き添いベッドに横たわるわたしのことを見つめていた。

思わずのそりと起きて、娘のベッドの柵を降ろし、ハグをしながら言う。「娘ちゃん、おはよう。今日、おうち帰るんだよ! 嬉しいねえ」。娘も何かを感じとっているのか、歯をカチカチしながら嬉しそうにニヤついた。

最終日もまずは日課の体重測定へ。

ところでこの体重測定、15kgまではベビースケールで計るようにと指示されているのだが、オムツ1枚の状態だと14kg台、かつ身長も高めで大柄な娘を、高さのある台に置かれたベビースケールに乗せるのは毎回けっこうな重労働だ。まあ、それも今日までか。測定結果はまた100gほど増えていた。ここ数日と同じ傾向。

部屋へ戻り、早速できるところからバサバサと荷造りをはじめてゆく。

大量の絵本や洋服、スプーンやコップ類、石鹸やシャンプー、食器洗いの洗剤やスポンジなどなど、持ち物がいろいろな場所に点在している。長期で病室に滞在していると、ここが小さな生活空間になっているため、使いやすい場所に配置しているのだ。それぞれの場所から忘れ物のないようにアイテムをかきあつめ、ひとつひとつ詰めてゆく。

朝食が来たので、いったん休戦。

なんと最終日の朝食、献立が変更になっていて、奇跡の「納豆」がついてきた。テンションのあがる母と娘。「娘ちゃん!やった!納豆だよ!」「なっとう?」「ほらっ!(見せる)」「うふふふふ」。目に嬉しさが灯る。

納豆ごはんはもちろん完食。そしてやはり、納豆ごはんだと、ここ数日懸念していたはずの飲み込みがスムーズに進行している気がする。いや、明らかに早い。「娘ちゃん、今日かみかみゴックン、上手じゃん! いつもどうしてあんなに時間かかってたの?」。スプーンを娘の口に運びながら思わずそうつぶやく。と、娘は一言、「なっとぅ」と。

「えっ。納豆が理由? 納豆があればよかったの?」と聞くと「うん」とまじめに答える娘。どこまで本気かは本人のみぞ知るだが、安堵と拍子抜けで思わず笑ってしまった。それが本当ならいいなあ。このようすなら、期待が持てそうだ。それでもおかずは味が嫌だったらしく、ちょっと残す。食欲や飲み込みについては、退院後の観察が大事だな。

朝食中、循環器科の担当医がやってくる。

聴診器をあてて今日のチェック。音も問題ないとのこと。「ごはん、どうですか?」と聞かれ「うーん、今朝は、納豆ごはんだと食べられてますね……」と答える。ものによって変わるならやっぱり気分かなあ、そうかもしれないですね、退院後のようす見てみます、と会話。

循環器科は、退院日から2週間後に外来で診てもらい、また心エコーなどの検査することになっている。「外科の抜糸については、縫い直しから1週間後くらいかと思うので、今日の外科の回診のとき、また日程相談してみてください」と言われる。

朝食後、「これより外科の回診がはじまります」とアナウンスあり。予想よりも早く外科の回診がはじまった。オペなどの都合だろうか、日によって時間帯の差が激しい。でも、退院日は早いほうでよかった。

しばらくして「コンコン」とノックのあと、ドアを開けてぞろぞろぞろ、と男性ばかり6,7人+看護師長の女性1名が、狭い病室に足早に入ってくる。この感じ、大人だってなかなか怖い。そうやってぞろりとマスクの大人たちに囲まれ、自分に手が伸びてきて、完全におびえる娘。

傷のチェックは問題なしとのこと。

科長が「これ、抜糸は?」と聞き、外科の担当医が「抜糸は外来でということになってます」と答える。よしよし了解、みたいな空気が漂って、そのまま「じゃ」という感じでサクッと出ていこうとするので、いやいやちょっと待てこれまた主張しないと埋もれるやーつ!と気持ちを奮い立たせて主張する。

「あ、あの。その外科の外来の日程を、この回診のときにご相談するように言われているのですが」というと、「外来は循環器科の日程と合わせてなので、また○○先生(循環器科の担当医)から連絡があると思います」と言われる。いやいや、その〇〇先生から、外科の外来予約をここでとれと言われているんだってば。やっぱり共有されていないのか……。

「ええと、循環器科の外来はもう2週間後の●日で決まっているんですが。抜糸もこのときになるということですか?」と確認する。それを聞き、科長が「ん?●日?」と(空きすぎだろう?)と一瞬けげんな表情を若い担当医のほうに向ける。と、外科の担当医はすかさず「いや、〇〇先生(循環器科の担当医)には、一週間後で外来予約をとるように伝えてたんですが」と慌て気味に自分をフォローする。そしてこちらを向いて「おそらくまた、〇〇先生(循環器科の担当医)から日程の話が後であると思うんで」と繰り返す。

あの……。自分のフォローもわかるしぱっと出て行きたいのもわかるのだけれど、まずはちゃんと状況確認をしてほしいのです。

「ええと、循環器科の方の外来は2週間後の●日で決まっていて、その○○先生から、それとは別に、1週間後くらいに外科の外来予約をとるようにと言われているのですが」。もう一度整理してそう言いながら、○○先生に渡されていた退院計画書の書面もあわせて提示すると、ようやくわたしの主張が認められた。

「あ、〇〇先生からそう言われているんですね。ちょっと今、初めてそれを聞いたので。あの、また〇〇先生と相談して連絡がいくようにします」とのこと。おうおう。そうしてくれよ。今に始まったことじゃないんだけど、本当に最後の最後まで、連携のとれていなさにびっくりする。

その後しばらくしてから再び外科の担当医がやってきて、ようやく状況を把握したらしい。結局最初にこちらから言っていたとおり、2週間後の循環器科の外来予約とは別に、1週間後に外科の外来予約をとることになった。だからそう言ってたじゃん!と心の中で思うが、おとなしくする。とりあえず、いろんな情報の連携体制を見直してほしい。何度同じ話をすればいいのかと、入院中何度も思ったからなあ。最終日もやはりそこはそんな感じ。

ちなみに一応、退院時には病院へ提出するアンケートがあり、わたしも前日に記入していた。気になっていた点を書いていたら自由記述欄は罫線が足りないくらいの勢いでみっちりと埋まってしまった。

ひとりの患者に対して情報連携がされていないこと、骨のもりあがりについては事前に説明がなく術後に初めて知ってショックだったこと、同じ内容を聞いても人によって対応に差が大きいこと、検温や回診など病棟の一般的なスケジュールが暗黙知になっていて、ちゃんと明文化して説明されないまま始まるので、最初の数日間は特にとまどうこと、などなど。看護師さんは、とても丁寧に優しい対応をしてくれる方もいれば、効率を重視して傾聴してくれない方もいたので、全体としての評価は難しいと思うこと(スタッフ全体を数値で評価するという項目があったので)。

でもそのアンケートを「提出BOX」に入れようとしたら、スムーズに差込口に差し込めないくらい、これまでのアンケートがまだぎゅうぎゅうに詰まっていたので、なんだかやりきれない気持ちになった。きっとみんないろいろ書いているだろうに、少なくともこんなにぎゅうぎゅうになるまで、開封されていないのだなあ。書くことで満足させるためのアンケートなのだろうか、と思うと悲しい。

ちょっと話が脱線したが、とにかくそんなわけで、外科の回診と次回外来予約も完了。

娘に「先生のお傷チェックも終わったからね。もうあとは、帰るだけだよ〜!」と笑顔で言うと、娘もようやく現実味を帯びてきたのか、「あと、かえる、だけ?」と、いきいきとした目でこっちを見つめて言う。「そうだよ、かえる、だけ! やったあ!」と返し、ふたりでぐふぐふ笑う。

ほどなくしてばあばも合流。

娘はほんとうに家に帰れるとわかりテンションがあがってきたのか、病室内で「あーーーーーーーー!!」と大声をあげた。思わず「しーっ」と言ったけれど、よく考えたら術後はじめての大声だ。嬉しい、嬉しいんだね。

残りの荷物整理をしていたら、看護師さんが最後の検温にやってきた。そこで「(すでに渡されている薬に加えて)追加で3日分の処方が出てるので、それができたらまたお持ちしますね。それまでお待ちください」とのこと。

はーい、と答えて、その間に荷造りを終わらせる。

荷造りが終わってもまだ薬は来ないので、部屋でしばらく待っていると、最後のおやつにフルーツゼリーが運ばれてきた。家に帰ったらむしろなかなか食べられないねえと笑いながら、娘にゼリーを食べさせる。ゼリーを食べ終わってもまだなかなか、追加の薬は来ない。お昼どきにかかる前に、早く帰れると思ったのだけどなあ。

退院予定時刻と言われていた時間をとうに過ぎてもなかなか来ないので、うーん、まだ準備できていないのかもしれないけれど、一応……と思い、ナースステーションに行ってみる。「あの、すみません。追加の薬ってまだ来てないですよね……?」。すると「ちょっと確認してみまーす」と言って確認しに行ってくれた看護師さんはわりとすぐ、袋を持って戻ってきた。いや、来てるやん(笑)。やっぱり、主張せなあかんのや、グローバルにな。

無事に薬も受けとったので、部屋の忘れ物チェックに立ち会ってもらい、ついに病棟をあとにする。すれちがった看護師さんが娘に声をかけてくれ、娘も「バイバイ」と手を振って「タッチ」と手を合わせたり。うんうん、笑顔が素敵なやさしい看護師さんもね、いっぱいいるんだよねえ。

1階に降りて、ばあばに娘を見てもらっている間に、わたしは会計の処理へ。

数十分かかってようやく会計が終わり、セキュリティカードも返却し、いよいよ退院手続き完了。カウンターにかかれていた番号でタクシーを呼ぶ。まだ夫が出張中なので、今回の帰宅はタクシー一択だ。

下道だったけれど昼間で渋滞もなく、40分ほどでスムーズに帰宅。1万円超えを覚悟していたタクシー代も実際は4000円台で、いろいろホッとする。

スーツケース3つにトートバッグやリュックなどを皆でがんばって運ぶ。エレベーターなし、階段で3階まで。ばあば、私がやると言うのに重たいスーツケース運んでくれちゃって、明日寝込まないといいのだが。

もう12時だったので買い出しへ行く時間もなく、お昼はあるもので。ばあばが朝、宿泊施設で詰めてくれた、おかか海苔梅干しごはんと、家で冷凍しておいたとっておきの枝豆、それからばあばが持ち帰ってきたトマトで。

娘、納豆ごはんでもないのによく食べる。そしてちゃんとカミカミ、ごっくんしている。前はあまり食べなかった普通のトマトも、「おいしぃ」と言って食べている。食欲、明らかに違う。昨日までなかったやる気を感じる。

夕方、わたしが食材の買い出しに行こうと思ったが、娘がいやがる。かたくなに「いや……」と言うので、ばあばに買い物をお願いする。

調理はわたしが担当。ひさびさにちゃんと出汁をとり、揚げとネギとかぼちゃの味噌汁、白身魚のムニエル、付け合わせにきのことピーマンのソテー、あとは娘の大好きな人参きんぴら、はたまた娘好物のオクラのおひたし、そしてもちろん……納豆ごはん(これがメイン)!

ごはんの水加減をちょっと間違えてやわらかかったこともあるかもしれないが、昨夜までの「ずっと飲み込まず口でもそもそ……」耐久レースの娘の姿はどこへやら。娘は納豆ごはんをおかわりして2杯も食べた。これは入院前のデフォルト。頼もしい。また娘ねらいで作った人参きんぴらとオクラのおひたしも、何度もおかわりしてパクパク食べてくれた。

た、退院効果、すごい。

数日間ようすをみていかないと確信はできないが、あまりの食欲の変貌ぶりに、わたしも一気に嬉しくなる。1食2時間かかっていたあのようすはなんだったのだろう。なんだ、娘ちゃん、食べられるんじゃん! カミカミゴックン、できるんじゃん! もはや忘れてたよ、その光景!

しっかりと口を動かして咀嚼する娘の姿がひさびさすぎて、まぶしい。

ところで今日の娘は、とっても甘えん坊だった。

これまで以上に「まま!」と言ってわたしと離れるのを嫌がるし、時折ぺたん、と肩にもたれかかってきたりする。ときどき困るけど、とてもかわいい。そして健気で、愛おしい。だって、たくさんたくさん、我慢してきたんだもんね。術後すぐにモニターで映し出された痛々しい娘の姿や、PICUで寝返りすら打てないほどあちこちの管につながれていた娘の姿を思い返すと、抱きしめずにはいられない。存分に、甘やかしたい。

よくがんばったね、たくさんたくさん、がんばったね。なんども押さえつけられて針や管を刺されて、痛い思いいっぱいして、しかもひとりっきりで。不安だったよね、いつ何があるかもわからないし、安心したと思ったらまた針を刺されたりして、毎日怖かったよね。ほんとうによくがんばった。

夜、寝室に移動して絵本を1冊だけ読んだら、もう「ねんね、する」と言う娘。とてもめずらしい。やっぱり疲れているんだろうな。

電気を消す。

「まま、となり、いいの!」と言って子猫のようにすりよってくる娘と、思う存分にべたべたして、歌を歌って、くっつきながら眠る。もうベッドの安全柵もない。夜中に柵にぶつかって起きることもない。どこまでも転がってゆけるよ。

娘が寝たのを確認して、そっと抜け出し、最後の日記を書く。

実際は、わたしの気持ちはまだまだ落ち着かない。

最低でも2週間、次の循環器科の外来までは、もちろん保育園もお休み。医師からも、退院してもしばらくはおうちで治療をつづけるつもりで、と言われている。抵抗力が弱っていて感染のリスクが高いので、人混みにはでかけられない。利尿剤の投与もつづいている。傷口はまだまだ生々しいし、抜糸だってまだ1週間後だ。それまでにまた傷口が膿んできたりしたら、すぐに電話するように言われている。

でも、そんな状況でも、やっぱり「おうち」はいい。

なんてったって、なんてったって……娘がごはんをもりもり食べる。

それを見て、逆にこれまでの環境下で、一見“元気“に回復していた彼女の、モニター数値にはあらわれないストレスの大きさを思い知る。

2歳の彼女は表現をするすべをまだ細かい精度で持たないだけで、今の彼女がもしおとなと同じ文章力を持ち、入院中の気持ちを鮮明につづったとしたら、わたしの入院日記なんか吹き飛ばすほどの、理不尽さや恐怖やつらさがつづられていたんじゃないかと思う。

ほんとう、小さなからだでよくがんばった。母も経験したことのないことを経験しているあなたはもう、先輩だ。

しばらくは「おうち」で、おとなしくゆっくりと過ごしたい。

あれほど感情がゆさぶられても、日常に戻るのは簡単で。一緒にいすぎると、きっと瞬間的にイライラしたりしてしまうときもわたしにはあると思うのだけれど、そんなときに何度でも、PICUでの日々のことを思い出したい。思い出せなければ、この入院日記を読み返したい。

さあ、布団に戻ろう。そして広い布団で、となりに娘の寝顔をたっぷりと見つめながら、何度でもやさしくなでて、ゆっくり眠ろう。

(おわり)

自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。