娘の検査入院の日に考えたこと
たくさんの同意書に、次から次へとサインをした。
医師は、ていねいに説明をしてくれたと思う。
“ほとんどのひとにとっては問題なく安全にできる検査です。それでもごくまれに、次のような重篤な症状があらわれたり、命にかかわる事態になることがあります。”
その「起こりうる事態」についても、語句の下にアンダーラインを引きながら、ひとつひとつきちんと説明してくれた。医師という立場上、毎日多くの患者と接しているだろうに、「こなす」ではなく「あなたに説明する」という姿勢が伝わってきたことに、好感をもった。
そんな冷静な自分の視点はありつつも、一度にたくさんの“万が一”のリスクを次から次へと聞き、それをわが子に十分起こりうる事態だと理解したうえで、何枚もの同意書にサインをするのは、とても……。
気持ちをすり減らす? 骨が折れる? 心が折れる? ……ちがう。なんだかしっくりとする表現が見つからない。
とにかくとても、とても、であった。
* * *
長らく鼻水と咳がつづいていたから、リスケになるかもなあと思っていた娘の検査入院が、意外にも予定どおり、今日から3泊4日ではじまった。
娘は心房中隔欠損といって、心房の左右をへだてる壁に穴があいている。これ自体はよくある病気だそうだ。穴があっても日常生活には支障がないことも多く、穴が小さければ、成長とともに自然とふさがったりすることもあり、気づかないひともいるらしい。
かくいう娘も去年、川崎病で緊急入院したときに行った心エコーで、たまたま発覚した。日常生活にはいまのところ支障がないので、その入院がなければいまも気づいていなかったかもしれない。そういうケースも多いという。
ただ娘の場合は、穴の大きさが比較的大きく、自然にふさがるサイズではないこと、またカテーテル治療(太ももの血管から折り畳み傘のような装置を挿入して穴を閉じる)が適応できるサイズでもないということで、おそらく開胸手術になると言われている。
また、こどものころには生活に支障がなくても、おとなになると運動面に支障をきたしたり、ほかにもいろいろな症状がでてくる場合が多いそうだ。
心房中隔欠損とひとくちにいってもさまざまだが、娘の場合はそういったもろもろの状況を総合的にみて、将来のことも考えると、2歳になったいま、早めに手術をしておくのがよさそうだ、という判断になっている。
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……というのがまあ、これまでの所見なわけだけれど。手術について本格的に検討すべく、心臓の現状をさらにくわしく知るための検査をするのが、今回の検査入院。
心臓カテーテル検査といって、太ももの付け根から、血管を通して2mmくらいの管を心臓へ通して検査するものだ。
そのために、検査自体のリスク説明はもちろん、眠り薬についてのリスクや、造影剤によるリスクなど、さまざまなリスクについて事前に説明を受けることになる。それが、冒頭の話。
すべて、「ほとんどの子には問題ない」「ただ、ごくまれにこういうことが起きる可能性があります」というスタンスで説明を受ける。
ただ、「こういった場合には起こりやすい」という欄にプリントされた文字、「アレルギー」や「気管支喘息」や「染色体異常」なんかはどれもわが子に関係するもの。つまり端的にいうと、命にかかわるリスクが高いよということだ。その文字を見つめ、脳内ではその情報をどう処理してよいのかわからないまま、なめらかにつづく医師の話にただ淡々と頷いていた。
医師が去ってから、もう一度落ち着いて、書類一枚一枚に目をとおす。
理解はできた。でも結局のところ、「そうなる場合もあるし、ならない場合もある」。それだけのことしかわからない。
そして何度読んでも、結論は変わらない。そんなリスクがあるのなら今から荷物まとめて帰りますと言うだろうか、いや、言わない。
これから元気に成長して、おとなになっても楽しく生きるためにはいま手術をしたほうがよいという状況で、その手術のためにはまず検査が必要だとわかっている。だから、検査を受けることに同意する。
あなたはこれらの説明を受けましたね、何が起こっても、たとえ命にかかわることがあっても、サインしましたね。そんな文言が自分の頭のなかにちらちらと浮かびながら、それでもわたしはサインをする。自分の一筆に、ひとつの命が委ねられている感覚を味わう。ボールペンは、とても重たい。
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娘が眠り薬で眠り、心エコーの検査へ行っている間、部屋で夫と待機。
“万が一”の説明千本ノックを受けたようなあとは、やはり、疲れる。
なんとなくスマホでtwitterをひらいてみるけれど、元気なときにはとてもおもしろいと思えるたくさんのいろんな情報が、いまの自分にはすべて、どうでもいいなあ、なんて思えてしまう。
念のために補足すると、もちろん批判しようとか卑下しようとかいう気はまったくないのである。これは完全に受け手側の心の持ちようの問題であって、発信側にはなにも責任はない。
元気なときや、仕事モードのときならば自分も「おもしろい!」と前のめりで読んでいるだろう情報も、いまの自分には「層がちがう」ように感じるのだ。他人のコンテンツばかりではない。自分の書いてきたコンテンツすら、いや自分の書いてきたコンテンツのほうがむしろ「ほんと、どうでもいいなあ」と思えるといってもいい。
書いた時点では、自分もとても熱量を入れて、わくわくしたりしながら書いたものも、「ああ、層がちがうなあ」「遠いなあ」という感じ。はたして伝わるのか、わからないけれど。
「層がちがう」というのをもう少しかみくだくと、たとえばtwitterなどであふれている、有益といわれる情報たちがいつにもまして「嗜好品」のように感じるということだ。
生活必需品に対して、嗜好品。いま、自分は生死について考えている中で、仕事上で使えるお役立ち情報などを目にすると、ああ、わたしはいま米を確保することに必死で、とてもケーキやマカロンについて考える余裕がないのだな、と自覚するという感じ。
プログラミング連載の第2回の記事も、もう内容はできて下書きに入れていて、今日公開するつもりでいたのに、なんだかまったくそんな気分になれなくて、結局公開ボタンを押せずにいた。今日は今日感じたことを書きたいなあ。そんなふうに思って、早々にスマホを閉じて、目も閉じた(プログラミング連載の第2回は、明日公開しようかと思う)。
* * *
今夜は夫に泊まってもらうことにし、わたしは夕方、帰路につく。
こども病院は陸の孤島のような場所にあって、我が家からも遠い。なかなかの長旅を終えて、自宅の最寄り駅でバスを降りる。そのまま家に帰ろうとして、信号待ちをしている間に気が変わって、引き返す。
和菓子屋に入る。いちご大福を見て、ああ、これだなと思って買う。
家に帰って夕飯を食べ、「夜に家にひとり」という産後はじめての事態に、ものすごい違和感でそわそわしながら、おもむろにいちご大福を手にとる。
白い粉をこぼさないように慎重に包みをあけて、がぶりとかじりつく。いちごの果汁が、じゅわあ、と口の中ではじけて、ああ、と思う。柔らかな餅がびよんと伸びて、あんこの甘ったるさを感じながら、それがたしかにわたしを癒やしてくれるのを感じながら、また、いちごの爽やかさとジューシーさに心をもっていかれる。
やっぱり、いちご大福だよなあ。
ふだんは買っても豆大福だから、いちご大福なんてめったに買わないくせに、なぜだかそんなフレーズが頭に浮かぶ。
じゅわり。びよん。もちっ。
感動しながら夢中で食べていたら、一瞬のうちにいちご大福はわたしの手のなかからなくなった。
そしてエネルギーを得たわたしは、このnoteを書くことができたのだった。
(おわり)
▼家に帰ってから、昔拝読したかおりさんの記事をもう一度読み直した。読んだ当時も思わずコメントしたnote。今日みたいな気分を味わう日、何度でも読み直したい。
“親としての自分にできるのは、目の前にいる我が子の生きる力を信じて、「どちらの結果になっても受け入れる」と覚悟を決めることのみなのだ。”
自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。