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やりたいことだけをやっていたら、それが仕事になっていた 【1/5】【ワーホリ、その後#001】

”ワーホリ”とひとくちに言っても、その内容は千差万別。ワーホリって実際どんなことができる? その後は、どんな人生を送っている? そんな疑問に答えるべく、ワーホリを機に「その後自分らしく人生を楽しんでいる」ひとをたずね、話を聞いていく『ワーホリ、その後』。今回は、ワーホリ中に資格を取得して現地で独立開業、帰国後の現在は東京・麻布十番で整体業を営む渡辺元秀さんに話を聞いた。

※本記事は全5回連載の第1回です。

※この連載は、2015年9月のインタビューをベースに、2018年5月に行った追加インタビューの内容を添えてお届けします。

■PROFILE 
渡辺 元秀 (Motohide Watanabe)
1982年生まれ、埼玉県出身。大学卒業後、ビールメーカーで広報を担当。自身がパニック障害に陥ったことを機に「心と体」に興味を持ち、心理カウンセラーやひきこもり支援相談士の資格を取得、カウンセラーに。その後ワーキングホリデーで渡豪し、ボウテックと出会う。猛勉強の末、日本人ながら現地の技術試験を首席で突破。その後セラピストとしてシドニーで独立、2015年帰国。同年開業、東京・麻布十番にて自身のクリニック「Body Therapy TEN」を営む。


■ プロローグ

熱いのに自然体。ふざけているようでものすごく真面目。そしてフラット。それが私の中の、もとさんのイメージだ。

私が「ワーホリをきっかけに、人生を思い切り自分らしく楽しんでいる人たちに話を聞いて、それを紹介するページを作りたいなぁ」とぼんやり妄想していたとき、それならまっさきに紹介したい、と思い浮かべていた人が3人ほどいた。そのひとりが、もとさん。

というよりもむしろ、もとさんのような友人たちが身近にいたからこそ、私は趣味の時間を費やしてまでこんなページを作りたい、作らなくっちゃ、と(勝手に使命感をせおって)思い続けてきたといってもいい。

当時もとさんはオーストラリアに住んでいて、私は日本にいたけれど、場合によってはもとさんの話を聞かせてもらうためにオーストラリアまで取材にいこう、と本気で考えていた。

2015年、そんなもとさんが、なんと、日本に帰ってきた。しかも、ようやく私が3年ごしに重い腰をあげてインタビューを本気でやろうと思いつつあった、そのタイミングで。

これは、やっぱり神さまが、私の重い腰…いや背中を押そうとしているに違いない。都合のいいときだけ神さまの存在を肯定する私は、そんなふうに思った。


■ ほがらか – 心が晴れ晴れとしているさま。こだわりなく快活なさま。

取材に訪れたのは、もとさんの帰国からしばらく経ったころだった。

オーストラリアのシドニーで出張治療のボディセラピストとして活躍していたもとさんが、今度は東京・麻布十番でクリニックを開業した(2015年当時)と聞いて、取材がてらにお邪魔した。

「いい天気だから先にちょっと撮影を」とお願いして連れて行ってもらったのは、クリニックの入っている建物の屋上。その日は気持ちいいくらいによく晴れていて、屋上からは赤い東京タワーが青空にくっきりと映えていた。高層ビルに東京タワー。

ディス・イズ・ザ・トーキョー。イッツ・シティ!

そんな東京一等地の風景をバックに、もとさんはいつものように自然体で気負いがない。別にはしゃいでいるわけではなく安定感があって落ち着いているのに、なぜか楽しそうなオーラに満ちている。

ああ、なんていえば伝わるんだろうこの感じ、と言葉を探していて「ほがらか」という言葉が頭に浮かんだ。そんなふうに、心の中の方が晴れ晴れしている感じ。

どうしたら都心で働きながらもそんなふうに、ほがらか、が相手にまでダイレクトに伝わってくるような心持ちでいられるのだろう。それを知るために、少しだけ時計を巻き戻して、もとさんのストーリーを聞いていきたい。


■ ある日ふと「このまま20代を終えるのはイヤだ」と思った

もとさんが海外行きを決めたのは、27歳のとき。その衝動は、ある日突然やってきた。

「20代後半のとき、ある日ふと、『このまま20代終わるのは嫌だ!』と思ったんだよね。これ、何もしなかったらこのまま30になるなと。それは嫌だ、とただ直感的に思って」。

当時のもとさんは、大学卒業後に大手ビール会社の広報として3年ほど働いた後に退職、独学で心理カウンセラーやひきこもり支援相談士の資格を取得し、その後は2年半ほど、うつ病などのカウンセラーとして働いていた。会社員からカウンセラー、というのも、初めて聞くと突飛な転身に見えるかもしれない。

大学のときに自分自身がパニック障害になったことがあって。それをきっかけに、どうしてこういう現象が起きるんだろう、と精神や健康に興味を持っていたんだよね。その後、一度はレールに乗って企業に就職したけれど、サラリーマン生活に疲れ果てて。そんなときに大学生のときの興味を思い出して、そっちの道の方がきっと、自分のやりたい方向なんじゃないか、と。それで働きながら勉強してカウンセラーの資格をとって、会社を辞めた」。

そんな話を、すごいだろうと誇張するわけでもなく、なんでもないことのようにさらさらと語るもとさん。でも、はたから聞いていると結構大きな舵切りのように思う。当時、迷いとかなかったんだろうか。

「これだ!と思ったら、もうその瞬間、不安とか考えないんだよね。やりたいと思ったら、ねぇ……(笑)? 失敗するにしても、まずはその土俵に立たないとわかんないから。失敗したらそのときに考えよう、と

昔からそういう思考の持ち主かと思いきや、「10代のときはそんなことなかった」と言う。

「サラリーマン時代が本当に歯車のひとつだったから、その歯車から抜け出したいというか、そっちの思いのほうが強かったんだと思う。サラリーマン時代がすっごい、バネだったんだよね。そのバネの反動で、ピィヨン!!ってはねた感じ(笑)。だからそのときに戻ろうとか、不安とかはなくて」

会社を退職し、カウンセラーとして2年半ほど働いた。仕事に不満があったわけではないけれど、30歳までのカウントダウンが始まるころにふと「このまま20代を終えるのは嫌だ」と、もう一度、バネが弾けた。

「なんか、飛び出したかったんだと思う。仕事がどうとかではなくて、ただ、毎日狭い空間で生きていたから、とりあえず違う世界に行ってみようと」。

「留学 格安」で検索をして、「なんか突拍子もなくて面白そうだから」と、とりあえず3ヵ月だけ、南国フィジーで語学留学をすることに。その時点ではその後、別の外国へ行こうという気持ちは一切なく、「フィジーの3ヵ月が終わったらまた日本に戻ろうと思っていた」という。

■ 「もう3ヵ月」のつもりでオーストラリアへ。これがすべての始まり

「3ヵ月楽しんだら日本へ戻ろう」。

そんなふうに思っていたもとさんだが、フィジーの語学留学で出会った友人たちと話す中で、ワーキングホリデーという制度を初めて知ることになる。

「やれカナダだ、やれオーストラリアだって、その後他の国へ行くために語学留学に来ている人が多くて。聞いてみたらワーキングホリデーという制度があるというから。で、ワーホリ行くって決めてるひとたちは、やっぱりなんか、輝いてみえるんだよね」。

日本に帰る自分と、次の外国のためにフィジーで英語を勉強している友人たち。その輝きがうらやましく見えた。それならば自分も「もう3ヵ月だけ」、自由な時間を過ごしてもいいんじゃないか。

そう考えて、自分も他の国へ行ってみようと決めた。この「もう3ヵ月だけ」がきっかけで、その後オーストラリアで独立開業して3年も働くことになるのだから、人生はおもしろい。

フィジー留学を終えて日本へ一時帰国したもとさんは、ワーキングホリデービザを使い、オーストラリアはシドニーへと向かう。シドニーに入った当初は、「とりあえずの反動で、自由奔放にカジノへ行きまくっていた」。

だがそんな生活も2週間ほど続けていると、自分の中に自然と劣等感のようなものが出てきたそうだ。 

「そんなとき、シェアメイトが現地のエージェントを紹介してくれて。相談してみたら、『目的がないなら、日本と真逆の生活してみたら?』と。その流れで、『農場行ってみれば?』と言われて。なんだそれはと思ったんだけど、でも自分が日本で送ってきた生活とは確かに真逆。じゃあとりあえずやってみよう、と思って」。

そこでもとさんは、農場の仕事を手伝いながらホームステイができるWWOOFというしくみを使い、農場生活をしてみることにする。そして、ここで起きる出会いが、もとさんのその後のワーホリ生活を大きく、がらりと変えていくことになるのだ。

(つづく)


■次回は明日6/12(火)にアップ予定です。内容はこんな感じ↓

やりたいことだけをやっていたら、それが仕事になっていた 【2/5】【ワーホリ、その後#002】
・「なんじゃこりゃ!」タスマニアで衝撃の出会い
・ 大反対を押し切って、修業の道へ突き進む
・ 技術試験をトップで突破。独立OKのお墨付きを得る
・ 激動の半年を経て、それを仕事に生きていこうと決めた
・ 出張治療の傍ら、サッカースクールの人気講師に

全部で5回とかちょっと息切れしそうなので、全体の目次ページも別noteでアップしますね。

それでは、またー。

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※『ワーホリ、その後』を始めた理由はこちら

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