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プーの世界なら、食べこぼしもゆるせるのに。

先日『プーと大人になった僕』を観た。

ストーリーもとてもよかったのだが、個人的に一番印象に残ったのは映画の筋とはまったくちがうところだった。

全体を通して、てくてく、のそのそと動き回るかわいらしいプーの一挙手一投足に、1歳の娘の姿を重ねずにはいられなかったのだ。

まるっとしたフォルム。ぽっこりと突き出したおなか。自分のそんなおなかを、小さな手でペチペチと触るしぐさ。足を広げて、よたよた、ペタペタと歩くようす。抱っこされたときの、腕におさまるようなサイズ感。

そのすべてに、いちいち娘の姿を連想してしまう。

* * *

そんな視線で映画を見ていて、思ったことがあった。

それは、食事のシーンを見ていたとき。

プーは仲間の動物たちと一緒に、森の中に置かれたテーブルとベンチにつき、ちょっとしたパーティをしていた。賑やかで、みなとても楽しそうである。

食べているようすに注目してみれば、動物たちがケーキをぼろぼろとこぼしながら食い散らかしたり、はちみつのつぼに手を突っ込んだり、そのベタベタが地面にそのままだらーっとこぼれていったりしている。

その様子を見ながら、また思う。「わー、この食べこぼしっぷり、まさに娘を見ているよう」と。

でも同時に、気づいたのだ。

ああこれって、森の中だったらまったく、怒るに値しないことなんだなと。

当たり前といえば当たり前のことなのだが、地面やベンチをはちみつでベタベタにしようが、ケーキのかすをあちこちに飛び散らせようが、それを嫌がったり、悪いことだからやめなさい!なんて怒るひとはだれもいないのだ。

そんな暗い空気はみじんもなく、プーと仲間たちは食べ散らかすことも含めて遊び、楽しんでいた。

* * *

それを見て、わたしはとても複雑な気持ちになった。

そうか、「人間の生活」が窮屈なだけで、場所や文化がちがえば、それは怒るに値しないことなんだ。

わたしは、このプーたちの世界ではまったく怒るに値しないことで、毎日イライラ、がみがみしているんだ。娘も、プーたちの世界ではまったく怒られなくていいことで、私にがみがみされているんだ。そう思ったのだ。

室内で、自分が掃除した床のうえに、ごはんつぶがばーっと散らばされたり、牛乳やスープやシチューが机や床の上に小さな池を作ったり。

そのたびに、こどもはそれを五感で研究しているんだ、この遊びも成長過程なんだとわかっちゃいるけど、実際はエンドレスな食べこぼしと拭き掃除の繰り返しに、「はーーーっ」と深いため息をつく。自分の心に余裕がないときは「もう!何やってるの!」と怒鳴って、そんな自分がイヤでさらに落ち込む。

そんな日々のイライラ、がみがみの原因って、プーたちの日常ではぜんぶ、怒るに値すらしないことなんだ。

わたし、なんで毎日そんなことに必死なんだろう……。

* * *

何を怒り、何を怒らないか。

それはほんとうに、生活の上で何を重んじるかで、がらりと変わってくるんだなと思ったのだ。

自分がイライラしてしまうシーンを思い出してみると、たとえば食事がスムーズに進まないとか、料理をつくりたいのに子が邪魔をしてきて作れないとか、「ひとりなら何のストレスもなくできる日常のささいなことが、全然自分の思っているようにいかない」ときが多い。

でもそれって、人間の生活じゃなかったら、ほんと、どれもまったく、怒る必要性のないことなんだなあ……。

極端な例をだせば、たとえば自分がアフリカのサバンナで暮らす動物の親なら、料理なんてしなくていいし、食べ散らかすことなんて気にならないし、食べ散らかされたところでそのまま時がたてば地面にかえってゆく。群れで生活をしていれば、人間のように孤独な子育てに悩むこともないだろう。

もちろんそういったストレスがないぶん、サバンナでは「子どもを食べられないように守る」とか「食べものを狩ったり/ある場所を求めて移動したり」というストレスが常につきまとうわけだ。

逆にいえば、わたしたち人間は、そういったストレスをなくすために、安全な家という建物に暮らし、室内で暮らすのが当然という概念をもつようになった。狩りや、食べものを求めて移動する生活から、安定的に食料を確保する農業や畜産業をはじめて、定住生活をするようになった。

そうして「人間の文化/社会」ができて、いま、自分たちの暮らしがある。

* * *

なんだか壮大な話になってきたけれど、つまり一番思ったことは、「当然ダメ」なんてことは、なんにもないのだなあということだ。

わたしが日々子育てをしていてこどもに言い聞かせたりしようとしていること――たとえば「お片付けしようね」とか「お皿を落とさないで」なんていうことたちは、ほんとうに、「人間の文化/社会」という前提のうえでしか意味をもたないことなんだな、ということを、思い知ったのだ。

そうして、何を怒り、何を怒らないか、というのは、同じ「人間」社会においても、育つ環境によって大いに左右されるものだと思った。

以前、田舎へ遊びにいって、道端で寝っ転がって「いやいや〜!」とぐずっている子を見かけたのだが、その子の親もちょっと遠くから見守って「ははは」と余裕ある感じで笑っていて、こちらもその親子の様子をなんだか微笑ましく眺めていて、ああこの感じいいなあ!と思ったことがあった。

例えば同じシーンが、都会の混み合ったスーパーの通路で繰り広げられていたとしたらどうだろう。周りの人が「邪魔ねえ」とイライラしたり、親も「いい加減にしなさい!」とがみがみしたりしてしまう気がする。

どういう文化のなかで育つかは、何を怒り、何を怒らないか、にもつながるのだな。

おそらくわが子も人間社会で生きてゆくことになるだろうけれど、その中にも幅広いグラデーションがある。

サバンナは極端すぎるけれど、人間の生活をつづけながらも、もうちょっと心にゆとりのもてる、田舎よりの土地で、子どもを育てたいという思いが、また強まってきた。

まさかプーの映画で、こんなことを考えることになろうとは。

(おわり)



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