消えゆくもの

なんでもない瞬間にふと、死について思いを馳せることがある。

病にふしているときや、誰かの死を見送ったときではなくて、むしろ幸せいっぱいな夜なんかに。

たとえばこの前は、日中、友だち家族と子連れで牧場にでかけて、1日めいっぱい遊び、とても充実した時間を過ごした日の夜だった。ひとりでシャワーを浴びながら「ああ、今日楽しかったなあ」なんて思い返していたら、いつのまにか、死のことを考えていた。

楽しかったなあ。幸せだなあ。

そんな満たされた気持ちが心の中にあるときにこそ、ふとした瞬間に、「ああ、この楽しさとか、嬉しさとか、幸せって、永遠にここに存在するものじゃないんだよなあ」ということに思いいたる。

息ができなくなるくらいおかしくて笑いあったことも、はらわたが煮えくり返るくらいむかついて怒りの感情をぶつけたことも、だれかへの愛おしさで自分のなかに信じられないくらい優しい気持ちを抱けることを知ったことも、そんな途方もないたくさんの強い気持ちも、小さな小さな光のつぶみたいになって、塵みたいになって、誰も知らないどこか遠くへ消えてゆく。

死を体験したことがないから、ほんとうのところはわからないけれど、いつもわたしの中では、そんなふうにすべてが細かな粒子になって宇宙に消えてゆくようなイメージが思い浮かぶ。

ああ、全部なくなるんだな。ほんとうに、全部なくなってしまうんだ。自分も、子どもや、その子どもも……、地球すらも、いつかは全部。

その大きな流れを意識してしまうとき、体内の血がすう、と冷えて体温が下がるのを感じる。わたしにも、本能が宿っているのを感じる。そして、本能が宿っているのを感じると、自分もやはりひとりの動物であり、生き物であるのだなと感じる。そして、確かに死があるのだなと。

“どこへ行くのだろう。なぜ生きているのだろう”。小学校高学年のころには一番真剣に悩んでいたような気がする。当時、死について考えて夜にひとり発狂しそうになると、「どうしておとなたちは、自分より死に近いはずなのに、笑って毎日暮らしているんだろう」と思っていた。

けれど、いつのまにか感覚が麻痺したのか、はたまたそんな「なぜ生きているのか」という真面目でまっすぐな問いを笑われることがかっこ悪いと思い出したのか、わたしもすっかりそんな「おとなたち」のひとりになっている。

事実はあのころと何も変わっていない。小学校高学年のころ、自分がいつか死ぬという事実に発狂しそうになった夜と、何も。

死はずっとそこにあるし、自分も死ぬ、家族も死ぬ。何も残らない。

誰かが亡くなったとき、肉体はなくなっても、ひとの心のなかに、ストーリーは生き続けると言われる。確かに短期的にはそうだとも思う。でも、たとえ歴史上名を残す人物になったとしても、地球だっていつかなくなる。どこか別の星に移住したところで、その星だって永遠ではないのだ。

何をしたって、どんなに徳を積んだって死ぬ。じゃあ何もしなければいいのか。でも生まれた以上、わたしたちは何かをせずにはいられない。

どうせ死ぬのに、わたしたちは恋をする。胸が苦しくなるような、狂ってしまうような恋を。どうせ死ぬのに、わたしたちは学を身につけ、働き、恋をしたり、仕事に悩んだりし、結婚したり、転職したりする。どんなストーリーも、エンディングは変わらないのに。

頭がわれそうなほどに感情をゆさぶられ、涙を流すような激情も、髪をかきむしるような嫉妬も、地の底に落ちたと思えるような絶望も、それを抱く自分自身が、いつかは確実になくなるのに。

恋をするのは、子孫を残すという本能のためなんだろうか。それが本能なら、それこそ、わたしたちが「個人」の死を前提に、「人類」という動物として生き続けようという意思のあらわれなんじゃないか。

自分がいなくなるということも、大きな流れのなかでは当然の変化のひとつにすぎないのだろうか。じゃあ自分が考えていることや、感じていることの意味ってなんなのか。なぜ個人に感情が、思考が与えられているのか。それもすべて子孫のためによい社会や環境を残していくためなのか。それだけなんだろうか?

仮に人類存続のため、という大きな流れの中で自分が生かされているとして、それでも「個人」という意思をもってしまった自分が、個人として生きる意味はなんだろう。

どんな人生を送っても最後には等しく死が訪れる。その事実が変えられないなかで、確かなことはなんなんだ……。

そう考えていると、やっぱり最終的には、「残された時間」のことを思う。

確かなことは、いつか死ぬけれど、いまは死んでいないということ。まだ、生きているということ。

結局はこの残された時間をどう使うかしか、いまの自分に変えられることはない。ほんとうにそれしかできないし、でも、それならできる。聞き飽きたような結論に自分でもがっかりするけれど、そのくらいしか思いつけない。

ああもう今日最悪だよという日も、あいつありえねえという夜も、この先どうしたらいいんだろうという葛藤も、もやもやもすべて、残された時間がまだあるからこそ抱ける気持ちで。イヤなことはもう逃げたってよくて。

ごくごくありふれた結論で新しさなんて何もないけど、悔しいくらいに月並みだけど、目の前の幸せを少しでも大きくして、噛みしめるくらいのことしか、できないのかななんて思う。それで十分なんじゃないかなとも。

今日も娘に大好きだよと言ってぎゅうとハグして、なでなでして、ちょっとイヤって押し返されたりしながら眠る。その瞬間に抱いている、愛しいなあ愛しいなあというわたしの気持ちも、わたしの存在も、娘の存在すらもいつかは消えてなくなってゆく。なんて切ない、寂しい、悲しい、でもだから涙が出るくらい愛おしい。大好きだよ、大好きだ。この気持ちは永遠に残る何かではないけれど、どこかへ流れて全部消えてしまうのだけれど、でもいまこの瞬間、あなたのことが大好きだ。

日常のなかにたくさんちりばめられている、小さな幸せを意識して、そうやって生きるしかないのかもしれない。

この世に生まれて、感情や思考を与えられた以上、楽しいと思えることを楽しむことに時間を使いたいし、愛しいと思うひとにその愛しさを伝えたいし、嫌だ、と思うことには極力時間を使いたくない。

もちろん日々いろんなアップダウンがあるし、イライラしたり凹んだりすることもたくさんあるのだけど。そんなとき、「いまのわたし、貴重な時間をイライラすることに使ってるんだな」という感覚に立ち返れるようになりたい。

「個人」の時間が有限であることは、だれにも変えられないと思うから。

今日もわたしたちは、残された有限な時間を、刻々と消費して生きている。使われたら、戻ることはない。ゲームのリセットボタンみたいには。だからどう使うのかを、あなたが決めるんだ。


(おわり)


P.S.……と、そんなようなことを、ひと月くらいぼうっと考えていたのですが、考えている間に、タイムラインにもいろいろと、他のnoterさんが書かれた、命や死に思いを馳せるようなnoteが流れてゆきました。どれも心に触れるnoteだと思っているので、あわせてそっと置かせてください。


みなさま、よい日を。



自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。