雑記

Twitterを凍結され、インターネットを追い出されてから3ヶ月が経った。来月から新社会人になる一方、半年間の大卒ニート生活の中では、あまりにやることがなかった。2月までは、塾講師のアルバイトを狂ったようにこなしていたが、シフトを外され始めた最近では、本を読んだり、格闘技のジムに通ったりしている。結構楽しい。
それなりに幸せだと思う。俺の周りにいる人たちの多くと同じように、それなりに幸せだと思う。それでも、自己不全感のようなものが、自分の中で頑固に居座り続けていて、時々苦しくなる。「みんなそんなものだ」と言い捨てて、Netflixを開くことにも飽きが来ているし、モラトリアムの残りカスの使い道も今ひとつ分からないから、ここに書き起こす。
自分の価値が感じられない。苦しい。上手くやれない、卓越していない、理想と乖離した自分を許せない。平凡な自分をまだ認めたくない。どこまで行っても思い通りにならない自分が情けなくて、今すぐにでも変身してしまいたい。
周回遅れではあるけれど、色々なものが見えるようになってきたとは思う。上に書き出したことを見て、被害者を気取ったような物言いに感じられてしまうくらいには、まだ視野が狭いんだろうけど。
アランの『幸福論』を読んだ。岩波のやつ。学のない俺でも、読みやすかった。プロポという形式が気楽だったからか、本にしてはネットのコラム感覚で読める、という感覚が新鮮だった。人によっては、上から目線で説教臭い、と感じるような書き方や内容であるのかもしれないけれど、俺は結構こういうタイプの人が好きだ。なんというか、確固とした自論がありながら、誰にも自分の拠り所を求めないようでいる人。そうでありながら、当人と当人の生き方自体に、腹落ちすることが出来ていて、それが故の説得力と首尾一貫した自論を持つ人。説教臭くて偏屈で、けれど不思議ともっと話を聞きたいと感じる人。そういう人と、そういう人が紡ぐ言葉が好きだ。アランの文章は読みやすさの割にどうにも掴みどころがない感じがしたんだけど、割と一気に読み終えてしまった。分からない部分は分からないし、分かる部分はなんとなく分かる、という印象だったから、あまりにしっかり読み込めていないのかもしれない。
文にまとまりがないな。今日はコンサータの効き目が良くない。なんでアランを持ち出したんだっけ。あの本をざっくりまとめると、「幸福も不幸も一過性のものに過ぎず、特に後者については、身体の不調と連関していることが多い。仮にそれ以外の要因があったとしても、不幸と感じる状態を脱しようという主体的な覚悟を持つことが肝要だ。」みたいな話だったんだけど、それをどう話に繋げようとしたのか、思い出せない。まあ、なんでもいいや。
とにかく、アランの話でもあったように、今の俺に欠けているものは「絶対に幸せになってやるぞ」という覚悟であり、幸せになるための自分なりの方法論なんだろう。少しずつ、苦しくない時に少しずつ考えていきたいな。
めんどくさくなったのでここで終わり。

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