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詩が音楽的であるとき、そこにはまず調和があった。<PSJ2018ファイナリスト・石渡紀美>


2018年9月に開催されたポエトリースラムジャパン(以下、PSJ)前橋大会から全国大会へ出場された石渡紀美さん。

朗読活動を続ける中で2017年春大会から本大会に出場。常に予選大会を勝ち進み、ファイナリストとして本選に上がってゆく強さを見せ続けてきました。

スラム出場への経緯や、普段の朗読との違い、そして声や音楽のことなど多岐に渡るお話を伺いました。


スラムとオープンマイクは対極のもの

―朗読活動を長く続ける中で、スラムに初めて出たときのお話を聞かせてください。

石渡紀美(以下、石渡):スラムに出たのは、PSJの2017年春大会が初めてです。それ以前の1回目、2回目の大会はスタッフとして関わっていました。

―朗読活動を開始したのは1998年ですね。その時期ですと2003年から始まった新宿スポークンワーズスラム(以下、SSWS)(詩人のさいとういんこが発起人となったスラムイベント)などのスラムがありましたが、そちらには出場経験がないんですね。

石渡:出産などの時期ともろに重なってSSWSのことは全く知らないんですよ。夜まで起きているのが普通だった生活から一転して夜は寝る生活になったので、一回も行ってないんですよ。(SSWSはオールナイトイベントだった)。当時はむしろ、そうやって勝敗を決めることにはそんなに惹かれませんでした。はじめPSJをスタッフとして観ていて、すごく面白かったんです。思っていたよりもバラエティーに富んだ表現者が出場して、それで私もなにかやってみたくなったという感じです。

―当時惹かれなかった気持ちが、PSJで関わることで変化していった。

石渡:やっぱり、勝敗なんてつかないと思っていたし、詩で勝負事をするのがなにか腑に落ちなかったんです。でもPSJを通して遊びだという側面も分かりました。もちろん勝ち負けは関わってくるけど、大掛かりな遊びだなと分かって「ちょっと乗ってみるか」っていう余裕が自分に生まれてきたと、というのもありましたね。
元々、代表の村田活彦さんがPSJを始めるって聞いて、若い女の子がPSJを紹介するPR動画を見たんですけど、(その動画や情報だけでは)小さな子供のいる女性は来ないんじゃないかと思いました。私自身、当時2歳の子供がいましたから。
でも外側から意見ばかり言うのって悪口にもなりかねないから、関わりながら話し合っていこうかなと思ったんです。それで、保育スタッフを作ろうと提案したり、あとこれは別の年に大阪大会を主催された河野宏子さんの提案で、モニター付の別室のある会場選びが実現されていましたね。小さい子供が会場にいないっていう選択肢もあったかもしれないけれど、私だけじゃなくて女性のスタッフが関わったことでそういう色を加えることができたかなと思います。

―スラムにはルールや制約があって、普段の朗読会やオープンマイクと異なる点があるかと思います。そのような違いについて考えをお聞きしたいです。

石渡:制約はありますけどゲームである限り当たり前のことですし、それが逆に冷静さを呼び出していいなって私は思っています。ただ感情に任せて時間オーバーしちゃったけど良かったねっていうのは、なんかクールじゃない気がします。そういうことがある場面も時にはいいのかもしれないけど、この大会に関しては誰もが3分間で音源や衣装はなし。その上でどう組み立てるかっていうのがスリリングさを生んで、だらっとしない要素なんでしょう。どんなに良くても音楽使ってやったら残念でしたってなっちゃうし。同時にその辺は微妙なところで、歌は音楽だけどほぼ歌っている人もいます。けれどそれをどう捉えるかは観客から選出された審査員に任されるんです。だから限りなく自由だけれどもパフォーマーは自分の中でちゃんと制約を頭の中に叩きこんだ上で何ができるかを考える必要があります。
普段のオープンマイクや朗読会はむしろ制約を取っ払ってどこまでいけるかが重要だと思うので、真逆ですよね。でもそれが面白かったんです。たとえば3分以上長い作品だったら前半と後半に分ければいいんだっていうのが拙いながらも私の戦略でした。制約やルールは窮屈というよりは面白がるための道具だと思います。だから朗読会やオープンマイクとは違うけれど、それだからこそ面白いかなって。
あと戦略なのかキャラクターなのか分からないけど、MCでもっていく人とかいますよね。蛇口さん(詩人)とか。手が震えている中でぽそっと「今日は風が強いな」って言ってみたり(笑)。それが点数に響くかどうかは分からないけど、MCっていうのも侮れないっちゃ侮れないですよね。


自然体でいられる場所

―石渡さんは朗読する詩人の中でも声の響かせ方についていち早く意識した方だと感じています。声に関するこだわりはいつ頃から意識されましたか?

石渡:詳しくは『て、わたし 第1号』(以下、『て、わたし』)(詩人・翻訳家の山口勲発行の詩誌)に私が初めて朗読した経験とその前後に受けた呼吸法のことを書いています。
最初に朗読したときから一貫して感じているのは、自分が声を発しているときじゃなくて、声が発せられてないときに、聴いてもらっている感じがすごくするということです。そのことを感じるための間や沈黙は大事にしていると思います。やっぱり詩は言葉ですからすぐに変換されて意味が伝わるとは思っていません。朗読は身体を使うパフォーマンスの中では不利な方だと思います。ダンスや歌に比べたら断然不利で「なんでわざわざ朗読するの、だったら黙読した方がいいじゃない」と、私自身が思うこともあります。それでもあえて朗読するのはその言葉からなにかを受け取ってもらいたいからです。そのためには急いで読むのは良くないって思うんです。ミヒャエル・エンデの『モモ』じゃないけど、ゆっくり行くほど早い。
そのことに関して一度失敗した経験があります。PSJ2017年春大会のときに3分間で2つの詩を詰めこんだんですよ。それが誰かのツイッターに「すごくひどかった」って書かれたんです。「他の詩は良かったけど、そのときがとにかくひどかった」って書かれて、そのことにすごく感謝しているんです。そのときはさっき話したことの正反対で、すごく急いで機関銃のように読み切ることだけに集中したんですね。2つ読みたかったんです。欲が出て、それが決勝の2本読むうちの1本目で実際点数がよくなかった。それで2本目はすごくゆっくり短いのを読んだのね。1分くらいの詩を。そうしたらまた同じ人から感想がありました。「空調の音がうざく感じるほど言葉に吸い込まれる感じがした」と書かれていて、受け止めてくれたんだと感じました。

―石渡さんの声は会場の空気を一段静かにさせるようなところがあって会場の耳を集中へとより戻すような力を感じます。

石渡:別に私の声がいいってわけじゃないと思うんです。それは違って、あと声を磨くとかボイストレーニングとかでもないと思います。むしろ真逆のところにあって、別になんにもなくてもできることをやっている。
普段の生活では緊張しちゃったり怒ったり気を遣ったりとか声がリラックスしていない場合があります。でも朗読の場、マイクの前は自分が一番自分でいられて誰も別に邪魔してきません。安心な場所なんです。声を出すために自分が安心して声を出せる場所を作る習慣を得ることが必要です。そのような場所があれば、私は自分でいることを感じて自分を響かせることができると考えています。


音楽的とはリズムよりハーモニー

―詩人の小夜さんと一緒に開いた『ピアニシモ、ラルゴ』(2019年3月に開かれた朗読会)を観させていただきました。そこで感じたことは「音楽ではなしえないような音楽」を朗読でやっていたことです。石渡さんの朗読はラッパーのような節回しや歌のような雰囲気もなく話芸でもありません。スタイルはすごくシンプルなのですが、その中に音楽があることに衝撃を受けました。朗読における音楽性というものをどのように捉えていますか?

石渡:不器用なのでラップや演劇的なパフォーマンスはできないんですよ。色んなスタイルがダメってことではなくて、私自身が一回の表現で色んなことができないんです。
ずっと前、演劇やっていたときにアンケートで「あなたにとっての音楽はなんですか」という質問がありました。そしたらある女の人が「日々の生活音」って書いていて、それにすごい衝撃を受けました。
たとえば電波の届かないような山の中でも音はあります。音がなくなるどころかすごく豊かなんですよ。だから音楽というのを音やリズムとして捉えてはいないかも。調和みたいに捉えています。私の詩を作曲するのは難しいと思いますけど、たとえ1行がすごく長くてもそこにハーモニーがあれば音楽的なのかなって感じています。
だから音楽的=音楽というよりはやっぱり調和。調和という言葉が安心に繋がっているような気がします。

―安心と調和という言葉がすごく腑に落ちる気がします。石渡さんの朗読において重要なところは、安心・調和の中に共感を入れない点だと思います。たとえ共感される点があったとしても、あなたにもこういうことあるよねという問いかけをしていません。

石渡:安心と調和だけだとピースフルな詩人みたいですけど全然そうじゃないし、共感されてたまるかっていうところは基底にありますね。音楽はカタルシスだけで終わっちゃうことがあって、それは嫌だなって。それぞれで受け取ってほしい、みんなでひとつになって、というのとは全然違うところにあります。
形式も内容も調和と安心だったらつまらないから、どちらかを崩してびっくりさせたいですね。でも普段から考えて意識しているわけではなくて話しながら気づきました。表現が過激で中身が凡庸っていうのは避けたいです。


朗読する距離感

―石渡さんは朗読される以前に演劇や歌の現場を経験されていますが、朗読とはどのように違いますか?

石渡:演劇や歌には装置があってその中に入っていく感覚がありました。でも詩や朗読は装置を自分で作っていって聴いてもらう雰囲気や空気に入っていきます。演劇はみんなで作るものだからそういうものはむしろ邪魔ですし、その辺りは違います。
朗読において私が不思議なのは自分の詩を読んでいても、ある程度俯瞰している自分がいるという点です。私の詩を読みたいという気持ちはあるのに自分自身とは同時に距離を置いています。

―距離という言葉が出てきました。安心や調和の中でも共感には距離を置いていたり、自分の詩とも会場の空気とも共感させようとしないで距離を置いていくことが、身体の冷静さや声の落ち着きに響いてくるような気がします。

石渡:PSJの話に繋げますけど、3回出場して1回も勝つことができなくて、いまとなって感じるのはそれじゃ弱い部分があるのかな、ということです。やっぱり共感して巻き込むのは勝つ要因になりえますよね。結局私はその点にトライしなかったわけですけど。別に共感がないとダメってわけではないけど、私が弱かったのはそこかなって思います。今後そこを強化するかどうかは別の問題ですけど。突然私が共感を呼びこんで朗読したらみんなびっくりしますよね(笑)。それと同時に共感って勝手なものでもあるから、難しいところですね。

―最後に今後の予定や目標があれば。

石渡:おそらく今年PSJには出場しないと思います。他にやりたいことはちょこちょこやっていますけど、イベントのオファーはいつでもお待ちしています。
今後の予定としては、6月29日(土)にiidabiiさん(今大会の準優勝者としてパリの本選に出場)主催の大宮(非)暴力詩人というスラムにDJとして呼ばれています。どうぞお越しください。

【プロフィール】
石渡 紀美 <いしわたきみ>

埼玉県の詩人。DJ 早喰い名義でDJ活動もしている。1998年から朗読活動を始める。PSJにはスタッフとして関わってから2017年春・秋大会、2018年大会に出場。2010年に詩集『つぎの十年』『あたらしいおんがく』、2015年に詩集『十三か月』(いずれもプリシラ・レーベル刊)。

石渡さんのNoteはこちら https://note.mu/jupiteriya

                                                                                      (取材・原稿/遠藤ヒツジ)

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