ドミートリイ・ プリゴフインタビュー(2000年)

必然的かつ偶然であるもの:ドミートリイ・ プリゴフインタビュー

『Novoe Russkoe Slovo(New Russian Word)』紙(ニューヨーク)、2000年8月5-6日号より(インタビュアー:G・N・カツォフ)

15年ほど前、わたしは初めてドミートリイ・プリゴフ氏のところにお邪魔した。モスクワの質素な団地(フルシチョフカ)、「生ける」古典芸術家のポスト共同住宅(コムナルカ)的快適さ。その当時ペレストロイカはまだ登場したばかりだった。木の床を名簿が飾り、そこには80年代のアクチュアルな文化の代表者たちの名前が階級順にずらりと並んでいた。芸術家のなかで元帥的な地位にいたのはイリヤ・カバコフで、将校の地位にはエーリク・ブラートフやオレーク・ワシリエフがいた……。作家部隊には、ウラジーミル・ソローキン、ヴェネディクトとヴィクトルのエロフェーエフ、レフ・ルビンシュテインが高級将校として属していた。正直なところ、そのころプリゴフ氏が謙虚さの美徳をもっていたかどうか、プリゴフ氏が打ち立てられたヒエラルキーのなかで自分をどこに位置づけていたのか、わたしは覚えていない。今になって言えることだが、元帥の錫杖は彼に保証されていたのである。それも単に(いつでも戦闘状態にある)詩人軍管区の元帥というだけでなく、パフォーマンスアーティストとしても、80〜90年代にかけてのカルト的人物としても、である。今年[2000年]4月の終わりにプリゴフ氏はニューヨークにやって来て、イーストサイドのアイルランド風パブといったあまり文学的とはいえない幾つかの場所で公演し、観客は満足をもって彼を迎えた。

古典芸術家たるものの宿命とは結局こんなものだ——はじめこそ我々はその天賦の才を追い払うが、後になって受け入れる。芸術家は年を経るごとに「人民に奉仕」しはじめ、文化の求めに応じて文化の神話的英雄にまで神格化されるというわけだ。ドミートリイ・アレクサーヌィチ[・プリゴフ]氏は数多い知人をみな「名+父称」の丁寧な形で呼ぶのだが、それによって同時にその記憶能力に限界がないことを証明してみせる。スターリンも同じく全員の姓名を覚えていたので、彼と隠然たるライバル関係にあるということになる。この点にわたしは、現代ロシア文学においてプリゴフに用意された「総司令官」という高い地位についての強い暗示を見てとるのである。


カツォフ:プリゴフさん、どういった運命でニューヨークにいらっしゃることに?

プリゴフ:とても単純な宿命ですよ。一つの場所では一年に一回しか公演できないのはご存知ですよね、ゲンナージイ・ナウーモヴィチ[・カツォフ]さん。自然とジプシーみたいな生活を送る羽目になるわけです。それでこんなふうに世界中駆け回ってるんです。文学やら音楽パフォーマンス、アートの世界に身を置いているんだから、なおさらですよね。

映画にも出ています。アレクセイ・ゲルマンの最新作『フルスタリョフ、車を!』のなかで、陰謀を企む医師役を演じています。ゲルマンが非凡なひとであるということは間違いありません。彼と働くのはとても楽しいことでした。残念ながら今や故人のセルゲイ・アナトーリエヴィチ・クリョーヒンと一緒に公演したのを見て、わたしを招いてくれたのです。ね、つまりわたしの持ち前のこのアクティヴさが、世界中暴れまわるのを可能にしてくれているというわけです。ニューヨークに来る前にも、いくつかの州の大学でレクチャーつきの公演をこなしてきました。

カツォフ:レクチャーは英語でされるのですか? ドイツ語は大変よくお出来になることは知っていますが、英語はいかがでしょう?

プリゴフ:上手だとは言えませんが、わたしの公演のレクチャー部分はすべて英語で話しています。原稿を読むのではなく「思いつくまま」にね。世界中多くの国でコミュニケーションがとれる唯一の言葉・コミュニケーションの方法は、英語です。日本でも英語でしゃべることになりますし、イタリアでもドイツでさえもそうです。あそこは外国人が多いので。

カツォフ:1988年にあなたの連作グラフィック「Bestiary(動物寓話)」が良い値で西側のコレクターに売られたようですね。その時にもうあなたは気づかれたでしょう、現代アーティストが現代詩人と比べていかにたやすくお金を稼げるかということに。レクチャー活動をすることで、あなたはアート活動から距離を置くことになるのでしょうか?

プリゴフ:わたしは文学のレクチャーよりも、アートのほうにもっと規則正しく取り組んでいます。文学のレクチャーは何ヶ月か単位で区切られたこんなふうなツアーのなかで行われるものなので。アートの活動ははるかにコンスタントで集中して行うものです。そして当然もっとも金を稼げるものでもあります。文学で稼ぐ金額とは比べ物にならないほど大きな額になります。

カツォフ:するとあなたは金持ちなのでしょうか?

プリゴフ:いいえ、金持ちではありません。お金はなぜだか一瞬で消えてしまう。モスクワに家族がいる人であれば想像できると思います。両親は年寄りで、妹は障害をもっていて、妻は病人で。だから金は全部出ていってしまいますが、生きていくには事欠かないというところです。

カツォフ:あなたはアートに取り組んでいらっしゃいますし、ウラジーミル・ソローキンはグラフィック・イラストレーターでもあり、イリヤ・カバコフはアーティストであるだけでなく作家でもありますね。最重要の現代詩人・作家が美術出身であることについて、あなたならどう説明されますか? 彼らのうち多くは本の挿絵やアートスタジオからキャリアをスタートしましたね。

プリゴフ:1950年代の終わりから世界文化の主導権を握ったのはアートであり、まさにアートからすべての新しい潮流が生じていきました。まとまった部数が市場に流れこむ文学とは異なり、アートは唯一無二のオブジェクト一点一点として市場に流れていきます。ですから努力さえすれば自分のために30人のコレクターを見つけてくるのは簡単なことなのです。例えば過激な文学を愛好する100万人の読者を見つけてくるよりはね。

カツォフ:まずはアートで名を売って金を稼ぎ、その後文学に移行する。何人かの現代作家にとってはこれが戦略である……とも言えるでしょうか?

プリゴフ:忘れてはいけないのは、ソ連にはそんなお金もなかったし、そういう種類の芸術に与えられる特権も存在しなかったということです。それどころか芸術のために投獄されたり、迫害されたりしたものです……。ただ革新的な傾向のある人たちがアートの界隈に身を置いていたというだけのことです。そこではいちばん面白いアイディアが現実のものとなっていましたし、近年では造形芸術[*いわゆる「アート(美術)」のロシア語的な言い方]を文字通り「造形」芸術と呼ぶことがかなり難しくなってきましたから(パフォーマンスやハプニング、ビデオアートもありますよね)、クリエイティヴィティを持つ個人にとってはいかにもアーティスト然としてこの空気のなかに存在しているのが気楽だったのです。

このために当時のもっとも先進的な文学者はみんなアートの連中と関わっていました。直接アートに取り組まなかったとしてもです。例えばフセヴォロド・ネクラーソフは自分ではアートをやっていませんでしたが、カバコフやブラートフなどアーティストと仲良くしていました。ルビンシュテインはアートには携わっていませんが、彼のテクストはつねにパフォーマンスと文学、オブジェクトの境界に位置していました。わたしはストロガノフ校[*ストロガノフ記念モスクワ国立工芸アカデミー](の彫刻学科)の卒業生で、1972年からは芸術家連盟のメンバーです。ソローキンはそこまでの美術教育を受けたわけではありませんが、グラフィックに取り組みPROGRESS出版のためにブックカバーを製作していました。

カツォフ:あなたがいまお話しされていることは、かつてイーゴリ・シェルコフスキイ編集のもとパリで刊行されていた雑誌『a-Ya(а-Я)』の中に具体的に反映されていました。あなたはこの雑誌の全号に参加していらっしゃいました。アートをテーマにした六号にも、文学をテーマにした一号にも[*『a-Ya』誌は1979-1986年にかけて全7号刊行。参考:http://vtoraya-literatura.com/razdel_2004_str_1.html]。この雑誌をみれば70〜80年代に文学とアートの領域がお互い侵入しあっていく様が手に取るようにわかったと思います。

プリゴフ:この雑誌のアイディアは空中楼閣といったところで、なぜなら我々非公式芸術はまるきり雑誌や刊行物を通した文化への突破口を手にしたことがなかったからです。展覧会はアンダーグラウンドなものに留まっていました。現実的な人、現実的な可能性が必要でした。その時に、わたしの親友イーゴリ・セルゲーエヴィチ・シェルコフスキイがうってつけの人物だと判ったのです。彼は1975年にパリへ亡命し、尋常ではない気力でもってスポンサーを探しはじめました。だってビジュアル雑誌に高品質の複製写真をつけて出版するだなんて、ひと財産かかりますからね。アイディアは実現することができました。地道な印刷作業も原稿の流し込みもぜんぶ、基本的にはイーゴリが自分でやりました。それもマリーヤ・ワシーリエヴナ・ローザノワ[*作家アンドレイ・シニャフスキイの妻]の作業台を使って。彼自身が夜な夜なこれを全部印刷していたのですよ。カラー写真はもちろん発注していましたけどね。

それから資料の受け渡しの問題が発生しました。シェルコフスキイのモスクワ側のパートナーはアレクサンドル・イワーノヴィチ・シードロフでしたが、彼は強烈な熱意で自分の身を大きな危険に曝して、KGBの文字通りの監視のもとで絵画作品のスライドや写真をつくりました。それらは複製されてフランスに送られたのですが、9割ほどはどこかにいってしまいました。ですが[ともかく]その複製はたどり着いたのです。この全七号の雑誌はやっとのことで刊行されたのです。これに目を通せば、ある意味モスクワにおける指導的立場を虎視眈々と狙っていたモスクワのアンダーグラウンド界隈を把握することができました。危険を冒した甲斐があったとわたしは思います。ペレストロイカの後どうにかして国際的な芸術プロセスのなかに加わっていったのは、まさに『a-Ya』誌の寄稿者たちだったわけですから。西側のアート界は長年この寄稿者たちを追いかけてアーティストを選びだし、モスクワにやってきては「人名録」的なハンドブックの役を果たしはじめたこの雑誌をみながらアーティストを探し出していたものです。

カツォフ:1979年に西側で出た『Metropol』[現代作家のアンソロジー]の著者たちは深刻な迫害を受けました。ミハイル・シェミャーキンの『アポローン77』[同様のアンソロジー]の著者たちも厭な目に遭いました。ですがこれらは一度きりの文学出版アクションでした。ブレジネフ時代、西側で定期的に出されていた刊行物の寄稿者であるということは、どんな感じがしたものでしょうか?

プリゴフ:大体のところはまったく同じです。雑誌は3、4ヶ月に一度刊行されてモスクワまで届き、必要なところで繰り返し読みこまれ、みなが議論に巻き込まれました。どうやってスライドが国境を越えられたんだろう、どんな方法でテクストを受け渡したんだろう? といった議論です。こんなことを答えて煙に巻いたものでした。「誰かが見て、誰かが撮影したんだろうな。でもぼくらは何にも知らないんだ……」とね。

『a-Ya』誌だけでなく雑誌『Katalog』に関係したことでも、わたしのところで家宅捜索が行われて、全部没収されました。本当はこの話はする必要もないことです。ゴルバチョフ以前の時代にソ連から亡命した30歳くらいの人ならば、どんなアメリカ人にだって続きを話して聞かせることができるはずです。

幸いなことに我々の身辺では誰も逮捕されなかったですし、投獄もされませんでした——もっともコズロフスキイは『Katalog』誌のせいで牢に入れられ、他の人も投獄しようとする試みはありましたが。それでもいつも張りつめた感じで、呼び出しの度にみんなで集まって話し合ったものです。「何を聞かれた?」などなどと。この冒険(アヴァンチュール)は全体の気分を高揚させましたが、精神的には多くのものを奪っていきました。

カツォフ:ゴルバチョフ以前の時代についてお話しいただいています。ところでわたしも覚えていますが、1987年になってプリゴフが逮捕されたというニュースが耳に入りました。これはもうペレストロイカの時代になってからでしたね。

プリゴフ:いちばん奇妙なのはそれが1987年の春だったことで、1985年でさえなかったということでした。おそらく党とゴルバチョフと何やかやの争いに伴ったものでしょう。当時わたしは1982年から「New Sincerity(新しい誠実さ、Novaya iskrennost')」という流儀に取り組んでいました。こんなアピールを紙切れに書きつけていたのです。「市民の皆さん! 鳥の巣を壊したり、草を踏みつけてしまったなら、そのあとどんな眼をしてお母さんの眼を見ることができましょうか。 ドミートリイ・アレクサーヌィチ」——このようなエコロジカルな訴えでしたが、わたしはこれを街じゅう貼りつけて回りました。古い記憶を辿ればこれは危ないことだということは想像できたでしょうが、なぜか信じたくなかったんですね。

それである時道路でわたしに向かって駆け寄ってくる人がいました。煙草を吸いたいんだなと思ったので、「吸わないんですよ」と言いました。すると男は「わたしも吸いません」と応えるのです。わたしは車に座らされ、ルビャンカ[にあるKGB本部]に連れていかれました。そこからまた移送させられました。看護士がやってきて、医者はわたしの病歴がすでに書きこまれた帳簿を開きます。わたしには何の質問もしてきませんでした。ただ座らせられ、連れ去られたのです。まあ冷静によく考えてみれば、昔の経験からしてこれは10年の懲役を食らう可能性もありました。

わたしはKGBの第十五精神病院に連れていかれましたが、妻にも誰にもこのことを伝えてくれませんでした。二日ものあいだ誰にも、ですよ。そこにある看護婦が現れました。おそらく彼女は何かの展覧会に行ってわたしの朗読を聞いたことがあったのでしょう。「あなた、ここで何をしてらっしゃるんです?」と聞くのです。彼女に家の電話番号を渡すと、外に出て街頭の公衆電話から電話してくれました。妻はヴィクトル・エロフェーエフ、エヴゲーニイ・ポポフ、アフマドゥーリナ、イリヤ・カバコフ、映画監督のアレクサンドル・オレイニコフに電話してくれました。この6人がみんなでわたしを救い出そうと奔走してくれたのです。

時はもうソヴィエトの時代ではありませんでした。ラジオ「スヴォボーダ(自由;Radio Free Europe)」や「Voice of America」が喜び勇んで放送を開始していましたし、何かのプレス・コンフェレンスもいくつか始まっていたのに……。三日後にわたしは大規模な医者の立会診察に呼ばれました。40人ほどの医者が腰かけていました。医学部の教壇がふつうどんな様子かご存知でしょう。机には死体が横たえられているものですが、死体代わりにそこにいたのがわたしだったというわけです。医者たちは座ったまま厳しい目で見つめてきました。そして代表者がこう言いました。「現代アートなるものに職業上関わる機会がそう多くはないもので。経験がないのですよ。何かしら私たちに説明していただけませんか。そうでなければ途方に暮れてしまうので」。わたしは彼に答えます。「喜んで。あなたたちがわたしを解放してお金を払ってくれるなら、現代アートのレクチャーだってして差しあげる準備があります」と。私は解放されましたが、電話はもう二度と来ませんでした。

カツォフ:ペレストロイカの時期には、あなたは巨大な講堂で公演して、千人、いやそれ以上も観客が集まったものでした。いまそんなことが起こり得るでしょうか?

プリゴフ:モスクワではもう無理ですね。ニージニイ・ノヴゴロドのような大都市でも無理でしょう。文化や芸術についての基本的な情報を得られない小さい街、変に聞こえるかもしれませんが例えばワリャーグ人のところではいままでと変わりなく朗読が行われています。これは単に詩の朗読というよりはもっと大きなもので、文学の問題よりもかなり広汎な事がらについて質問されます。テクストはインターネットからとってくることができますが、とりわけアートは田舎の個人宅にあるようなコンピュータでダウンロードすることはまずないですからね。

それでもいまアンドレイ・エロフェーエフ率いる「現代アート・ミュージアム」というプログラムもあります。彼のコレクションがロシアの各都市を巡回し、ロシアの現代アートの網羅的なコレクションを展示しています。50年代、フルシチョフ時代のヒーローたち(ズヴェレフ、ハリトーノフ)、そしてシュテインベルクやヤンキレフスキイといったアーティストからはじまり、カバコフ、ブラートフ、「ムホモールィ(テングタケ、Mukhomory)」グループ、そして多くのわたしの作品も……。このコレクションは唯一無二のもので、ロシアにとって本当に価値のあるものです。残念ながら今のところこのコレクションには置き場所がないのですが……。

言い換えれば、情報を得る手段のない小さな街々では、いまだに「文学の夕べ」に500人ほどの聴衆を集めることができる、ということです。

カツォフ:それについては嬉しく思います。ところでこの機に、切りのいい誕生日もお祝いさせてください。今年60歳になられますね。

プリゴフ:ええ、60歳です。ソヴィエト政権であれば、ふつう60周年に称号を与えてくれたものです。「文化功労労働者」の称号がもらえたらいいなと思います。略称が好きなんですよ——「ZasRaK」ですね。

カツォフ:でもあなたは本当のところ貢献してらっしゃいますよね。「一行なくして一日なし」といった感じのスタハーノフ的な標語をお持ちでしたね。毎日一定の量の詩を造りだすということでした。あなたの長年にわたる成果は、いまどうですか?

プリゴフ:「理想の詩人」というプロジェクトがあります。世紀の終わりまでに(文化人みなにとってそうであるように、わたしにとっても[20世紀は]2000年ではなく2001年に終わるのですが)、わたしは詩を二万四千篇書きあげなければなりません。つまり、毎月詩を一篇ずつということになるわけですね。これはすべて特別なサイトに移されて、次の世紀が始まったら後の二千年のあいだ一ヶ月一ヶ月が新しい詩で始まることになります。これは今後来たる二千年間にわたる毎月のプロジェクトなのです。このプロジェクトには『Wiener Slawistischer Almanach(ウィーン・スラヴ年鑑)』誌の発行人も加わっていますが、彼は印刷所も持っていて、この詩をぜんぶ印刷してくれます。もう読者もいます。モスクワの文学研究者マクシム・シャピールですが、彼はわたしの家に通ってきていて、世紀の終わりまでにこの詩をぜんぶ読むことになるはずです。

カツォフ:あなたのプロジェクトは、あなたが現代ロシア文学の総司令官であるということを納得させてくれます。そういう偉大な詩人というものは、たいてい弟子や生徒を従えているものです。しかしあなたはずっと動き続けていて、自己認識のプロセスのなかではまだご自分の豊かな経験を後続の人々に受け継ぐべき時ではないと考えていらっしゃる、という印象を受けるのですが。

プリゴフ:残念ながら派閥を形成するには立ち止まり、自分の美学に基準となる一定の規則をつくらねばならないのですよ。わたしの根本的な問題は、絶え間なく変化しつづけること、そして動き続けるというストラテジーにあります。ですからわたしが教えられることといえば文学のなかでの生存様式だけであって、テクストを産み出す方法を教えることはできないのです。それでもわたしの経験から何かしらを学びとることができた人がいるのかどうか……わたしには定かではありません。

カツォフ:それならばあなたの基準(スタンダード)について、永久にのこる言葉をいただけませんか?

プリゴフ:わたしはテクストではなく、アーティストとしてのふるまいのある種の戦略に重点を置いているのです。それはいったいどのようなものか? ——なによりも、アート空間における方向性でありメインストリーム、そして基底的な諸言語のことです。わたしは常に話し言葉の基底的な型がどのように機能しているのかを理解しようと努めてきました。例えばソヴィエト権力が存在していた時代には、ソヴィエトの神話と関わる仕事をしてきました。当然今やソヴィエト神話の実効性は崩れ去りましたが、優位を狙うありとあらゆるイデオロギーやら言語やらはあり余るほど存在します。マスメディアの言語にしろ、国家主義的・愛国主義的な言語、民主主義的な言語、ハイカルチャーの言語にしろ……それらはすべて〈全体主義〉というウイルスに冒されています。注視を続けなければ、こうした言語は動物のように鎖を引きちぎり、自分たちに似ていないあらゆる者たちを喰らい尽くそうとするでしょう。だからわたしのふるまい、わたしのテクスト群は、そうした言語の全体主義的野心が内にもつ危険性の布告なのです。

わたしの基本的な課題は、どんな言語にせよ、どんなイデオロギーにせよ、それはそれぞれの公理体系の内部ではたらく構造体なのだ、ということを示すことにあります。例えばマルクス主義は政治経済学の領域に生じましたが(専門家に言わせればこの政治経済学と社会学の分野では今だにアクチュアルなものらしいですが)、しかし空や神々、形而上学をマルクス主義自身のことばで解き明かそうとしたところ、〈全体主義〉ウイルスがマルクス主義をそんなことができなくなるほどに吹き飛ばしてしまったのです。ホモセクシュアリズムの言語、フェミニズムの言語、「緑の党」の言語——どんな言語であっても、うかうか見過ごしていると全体主義的なものになってしまう。だからわたしの文化的な使命は、問題をいわば暴き出すようなテクストをつくりだすことです。前々からわたしはこれらの言語が長い年月の間に陥った限界状況を描きだしていますし、これら言語が独裁的になっていく場合の危険性についても以前から書き表しています。

言語の〈全体主義的野心〉とわたしが呼ぶもの——これは人間の本性なのです。どんな人にも全世界を掌握したいという欲求があります。そうした欲求をもつのはその人が権力欲のある人間だからではなく、真っ当な人間だからです。この「おれ」が真っ当でないことなどあるものか?!……というわけですね。いつだって誰にとっても自分はすばらしい、善良な、公明正大な人間であり、一方自分以外の人たちは自分のことを理解しようともしない単なる悪党どもなのです。だからどんな人も、どんなイデオロギーも、自分こそがこの世のなかで最良のものなのだと表明したがります。ここで一番大切なのは、どういう時にイデオロギーがおのれの境界線を踏み越え、「全天空を喰らいつくそう」とするのか理解することです。フロイト主義も同じことですね。

実際のところ、とりたてて探しまわる必要はありません。組合——例えば漁師の組合があるとしますね。もしその組合を好きなようにやらせたら、みなに魚を捕るように強いるでしょう。それから独自のことばで全部を説明しようとして、独自の専門用語を仕立てあげて……などなどということになる。だからわたしの課題は「わたしのシステムは漁師たちのシステムより優れているんだ」と言って新しいシステムを立ち上げることではなくて、システムを試験しながらこれらシステムの領域内ではたらくことです。良い例があります。パリにメートル原器がありますね、こんな金属の棒です。その棒がメートルであるということを頭で理解することはできません。これを使って釘を打ちこむこともできれば、頭を殴ることだってできるわけですよね。この棒は“測定”という一連の過程においてのみメートルであるわけです。わたしの課題は、任意の言語をテストするためのある種の一続きの過程をつくりだすことであり、そしてその過程のなかでこそわたしの詩は詩としてはたらくのです。この過程の外では、わたしの詩は抒情の吐露だの日常のスケッチだのに似ているかもしれませんね。わたしの詩には二重の役割があるのです。

カツォフ:あなたの代表的な「警察官」についての詩も、この類に関係しているのでしょうか?

プリゴフ:もちろんです。国家体制がもはや人の手になるものではなく、空から降りてきた何か絶対的な光り輝くイデアであるときに、この「警察官」の詩はその天空の国家体制の理想をこんな極致にまでもってゆきます。こんなふうに。

「ここ、詰所に〈警察官〉が立っているとき/ヴヌーコヴォまで広くその視界は開ける/そして西へ東へ〈警察官〉は目を光らせる/彼らの後ろには空虚さが開けているのだ。/〈警察官〉の立つ「ど真ん中」には/——どこからでも視線が彼に向けられる。/どこからでも見えるのだ、〈警察官〉は。/東から〈警察官〉が見える。/南からも〈警察官〉は見える。/海からも〈警察官〉が見える。/空からも〈警察官〉が見える。/地のなかからも。/そう彼は隠れずに立っている。」

もしもこの〈警察官〉が地上におけるそのような天の国の代表者であるならば、この神話の敵役はロナルド・レーガンということになったでしょう。わたしのところに、『ソヴィエト文学におけるレーガンの表象』というタイトルの論集があります。レーガンはソヴィエトのイデオロギー神話における悪役だったのです。こんな感じでした。

「レーガンは我々を養いたくないという/どうしようもない、自分で思い違っているんだ。/だってこう考えてるのはアメリカのあいつらのほうだろ/生きるためには食べねばならぬって。/こっちにもレーガンのパンなんて必要ない/こっちのイデヤで生きてゆくのさ/朝ハッとして気づくだろうよ、『奴ら、どこにいった?』って/我々はもうレーガンの心の中にいるのさ。」

むかしは〈レーガン〉も〈警察官〉もとても具体的な政治批評として受け取られていました。いまはこれらの人物は後景に退いてしまいましたが、人びとはわかっています。こんな風にして〈レーガン〉が出来上がったのなら、〈ゴルバチョフ〉でも〈クリントン〉でも誰であっても同じようにして仕立てあげることができるだろう、と。
これがポップ・ヒーローたちや諸言語に取り組むときの文法であり、これゆえに具体的な名前が偶然の結びつきを持っているのです。第二に、〈警察官〉は退場するとして、それでは後に残されるものはいったい何なのか? レールモントフ時代の槍騎兵だとか軽騎兵だとかが〈警察官〉よりもアクチュアルであることはよもやないでしょうけれど、槍騎兵や軽騎兵は、彼らが何ものであるかではなくて、プーシキンやレールモントフが彼らを永遠のなかに流し込む方法を発見したというその点において価値がある。ですから「天空におわす〈警察官〉」を描いたことを、わたしはまったく後悔していません。いったいなにが「天空におわす…」だというのでしょうか、今日警察官はマフィア組織でしかないというのに。

カツォフ:雑誌『a-Ya』の寄稿者たちがこんにち著名な作家であるということについて話すときに、あのカルト的なワロージャ(ウラジーミル)・ソローキンを避けて通るわけにはいきません。彼の最新の長篇小説『青い脂』はベストセラーになり、ペレーヴィンの『ジェネレーションP』と一番人気を分かちあっています。

プリゴフ:ソローキンとわたしはまだアンダーグラウンドにいた頃にお互いを見つけだしました。わたしのところにやってきたときソローキンはまだ18歳で、画家のエーリク・ブラートフが彼を寄こしたのでした。ソローキンはブラートフのもとでグラフィックを学んでいたのです。ソローキンは何やら書いて、ブラートフに見せました。ブラートフは「プリゴフという知り合いがいるから、あいつのところに持っていきなさい」と言ったのです。すぐにわかりました、ソローキンはまったく正真正銘の作家であるということが。わたしの考えでは、ソローキンは現代ロシア文化に数少ない天才の一人であり、プラトーノフの時代以降われわれロシア人はこの種の本質的なエクリチュールを有してこなかったと思います。

ソローキンとプラトーノフは新しいエクリチュールを創造する原則において同じ精神を共有した作家です。良い作家は多いですけれど、そんなふうに言うことができる作家は少ないですよね。「プラトーノフのように(как у Платонова)」とか「ソローキンのように」ということはできるけれども、例えば「ビートフのように」ということはできません。「ビートフは良い作家だ」とは言えますけどね。「ブルガーコフのように」ということさえちょっと難しい。それからたぶん「ゾーシチェンコのように」とは言うことができると思います。

その時わたしは38歳でしたが[*プリゴフは40年、ソローキンは55年生まれなので、年齢については記憶違いがあるようだ]、わたしとソローキンは平等な立場にありました。わたしが文学的生活のなかで誰かしらをうらやましく思うとすれば、何の腹黒さも悪意も込めずに言いますが、それは当然ソローキンです。わたしと彼とはお互いの美学的共通原則から言っても文学的課題へのまなざしから言っても、それから単に社会的なふるまいの点でもうまくいったのです。だって周りにはおもしろい人たちがいたわけですが、ひどい飲み癖をもっている人も、ひどい性格の持ち主もいたのですよ。例えばフセヴォロド・ネクラーソフですね、彼は本当に素晴らしいのですが、性格だけはね……。こんなわけでわたしはもう長いことソローキンと一緒にいます。

『a-Ya』の寄稿者であったわれわれみながロシア文化のなかでかなり重要な地位を占めることになったという事実は、なにはともあれ、おそらく偶然なのだと思います。

カツォフ:ヨシフ・ブロツキーが「メアリー・スチュアートへ捧ぐ12のソネット」の終曲で言っていますね。「必然的でありながら偶然であるもの……」と。わたしは喜んでこのステイトメントに同意したいと思います。

(了)

*原文のURLは以下の通り(リンク先PDF)。
http://www.prigov.org/media/interview/06.03.14.11.18.37.am.Sluchaynoe_Prigov2000NY.pdf


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