アレクサンドル・スキダン「INQUISITIO(審判)」

その人の後頭部から切り取られたのは、セグメント状のかけらだった。太陽も一緒になって、全世界がそこに目を向けている。これが彼をいらだたせ、仕事から気を逸らせ、さらには、まさに彼だけがこの見世物から除け者にされているということに、その人は怒りを感じているのだった。

まさにそのとき、その人は歴史の決定的瞬間に鉢合わせる。それはすべてに疑問符が附されたのだと感じられる瞬間であり、法、信仰、「国家」、来世と現世、つまりすべてがということだが、それらが何の労力も困難もなく非在へと崩落してゆく瞬間である。

メシアは、メシアがもう必要ではなくなってはじめてやってくるのであり、降臨ののちのある日にやってくるのである。単なる終わりの日に、ではなく、本当に本当の最後の日に。

その耳殻は、触れると生々しくて、ざらざらで、ひんやりしていて、みずみずしくて、葉っぱのようだ。

ただことばだけを与えよ、ただ祈りだけを与えよ、ただ嘆息だけを与えよ、そしてお前がまだ生きて待ってくれているという確信、ただそれだけを与えよ。いや、祈りはいらない、ただ嘆息だけでいい、いや嘆息でもなく、ただ存在だけを、いや存在も違う、ただ考えだけ、いや考えでもなく、ただ眠りのやすらぎだけを与えてほしい。

メシア=時間とは、クロノロジカルな時間の胎内で脈打つオペレーティヴな時間であって、それはクロノロジカルな時間を急き立て、削りとり、内部から変形させる。これが、終わりのときまで時をやり過ごすために我々が必要とする時間であって、この意味でメシア=時間は「我々に残された時間」のことなのである。

この感覚はヨーロッパの身体(器官)全体に撒き散らされており、その感覚が霧と消えるところまで護送して送り届けねばならない。

その人は、五感では感じとれない。その実現態は、世界の中で存在することではなく、喜びのあまり迸り出る涙なのである。とするならば、それは、高揚であり、感取できぬ誇張表現であり、心でのみ感じとれるような存在である。もし宣教師がそのことについて口先で語るだけであるならば、どうしてこれが受肉することができようか? 宣教師の話によってではなくて、天啓によってひとは涙を流すのである。

右の方、目の下にチクリと打たれる痛い注射である。

ごまかしのない過去の形象が「滑りぬけて」いった。過去は、一瞬のうちに燃えあがる幻以外の何ものにも形象化することができない。認識したと思うや否やもう二度とは戻らない。この形象のなかで念頭に置かれているのは現在そのものなのだとはあえて考えもしない任意の現在の出現によって、まさにもう戻ってはこない過去の形象こそが、消滅の危機に晒されるのだから。[*1]

なんとなれば、この世界の形象は通り過ぎてゆくものだから。[*2]

テロリストとは、絶対的な自由を欲しながらも、まさにそのことによっておのれの死を欲しているのだと知る者であり、彼らが守備貫徹する自由とはおのれの死の遂行のことであると認識する者たちのことである。であるからこの結果として彼らは生前から、生者のなかにあって生者が行動するようには行動しない。彼らは存在することが配り洩らされてしまった存在として、思想一般として、純粋な抽象概念として、行動するのである。歴史を超越して、彼らは裁判を開き、全体としてのすべての歴史の名の下で判決を下すのである。[*3]

「我々はクロノロジカルな時間のうちに存在しているのだ」という認識が、我々を自分自身から分離しているのである一方(その時は、時間を保持せず駆け抜けていく時を、自分自身の絶え間ない不足をただひたすら眺めるだけの、あたかもおのれ自身の非力な観客へと我々を変えてしまうのだが)、メシア=時間は、時間に関する我々の認識を把握し満たすようなオペレーティヴな時間であって、「我々そのものである」ような時間であることだろうし、つまり唯一のリアルな時間であり我々が保持する唯一の時間であるだろう。

私がこれをまったくはっきりと書いておくのは、私の身体と、この身体の未来についての絶望ゆえである。

私に篝火を燃え立たせることはできないし、祈りなど知らないし、もはや森のなかで場所を探し回ることもできなければ、歴史を物語ることすらできないのだ。私ができることといったら、この歴史をもはや物語ることができないということを物語る、これだけなのだ。もううんざりしていい。

階級が廃止された社会だけが永遠の課題として考えられるやいなや、空疎で均質な時間が、革命的なシチュエーションの到来を多かれ少なかれ落ち着いて待っていることができたいわば「応接間」へと転化したのである。実際、「おのれの」革命の好機をものにすることができないような瞬間は一瞬間たりともなかった。その好機は、特殊な好機、まったく新しい課題によって規定される、まったく新しい決断の好機としてのみ、理解されねばならない。革命思想家たちは、この政治上のシチュエーションから、それぞれの革命のチャンスへの確信をほしいままにした。だがこの確信をもたらすのは、その時までは固く閉ざされていたあの過去の平穏な状態に加えられる瞬間的な暴力というカギとなる行為であるわけではまったくない。この平穏な状態への介入は政治上のアクションと厳密に一致しており、そしてまさにこの「アクションの介入」によってそのアクションは、どれほど破壊的なものであったとしても、そのアクションそのものについて、あたかもメシアの行動についてであるかのように、知ることを可能にしてくれる。[*4]

その抱擁で、その深みのなかで、私を受け止めてくれ。いましたくないのなら、後でもいい。[*5]

そしてその日、予言者はみな予言していたあの幻を恥ずかしく思うのだろう。

誰が言ったって大した変りはない。[*6]

予言と苦しみの間で押しつぶされて。お前はずっと覚えていた。これが起こるだろうということを、そしていま唯一起こっているのは、お前が思い出さなければいけないようなことだけであるということを。そして、こんなことはもうたくさんだろう。覚えていなければいけないことを覚えていることにさえ、もううんざりしているはずだ。同じように、もはや覚えてはいないことを覚えていること、それももうたくさんだ。無限と期待を保持するのでもううんざりして然るべきなのだ。

私は売春宿を通り抜けてゆく、愛する女の家を通り抜けるかのように。

雨が降るなかに立つ針子女。

メシアの領域であるのは、時間の終わりではなく、「終わりの時間」なのだ。

彷徨の向かう先は曠野であり、曠野の接近こそが今後は新しい「約束の地」となろう。

(2002年の展覧会カタログより)

脚注:

[*1]ヴァルター・ベンヤミン『歴史の概念について』

[*2]新約聖書「コリント人への手紙一」

[*3]モーリス・ブランショ『焔の文学』

[*4]ベンヤミン、同上

[*5]カフカの日記より

[*6]フーコーによるベケットの引用

脚注および翻訳は、アメリカのLana Turner誌#7に掲載されたRebecca Bella WanghとKatya Nansonによる英訳「Inquisitio (Aleksandr Skidan)」を参考にした。http://lanaturnerjournal.com/7/inquisitio-aleksandr-skidan

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