アルカージイ・ドラゴモシェンコ『家と木々のあいだに』(抄)

アルカージイ・ドラゴモシェンコ『家と木々のあいだに』(1978、長篇小説からの断章)

多くの部分で錯綜した、自分にも他の人にもよくわからないような話を語り終えながら、そして私がよく知っている数多くの終わり方のなかから、一番退屈な終わり方、そのなにも目新しくもなく大したことのない貧弱さによって許容する——いや、正しくはこう言うべきだ、いまではすっかり老いぼれてしまったように思えるがために、もはや呼吸に耐えられず嘆息が灰になり撒き散らされていると思われるような(ただし、おそらく少数の人の顔を除いて……麻痺してしまった湿気のなかで遮られたような—そうでなくとも毎日:朝から北風が吹く—まだ生の気配が残っているうちは)、半ば偶然の、実際に起こったかどうか定かでないような出来事の連なりを「完成させる」と——ことができる終わり方を選びとりつつ、わたしは、あたかも背中のほうからふっと浮上してきた、尋常じゃないくらい簡単な問いについて思案していた。——「で、どうだった?」と。

このときに、言う必要があるだろうか、あるときヴィテプスクで5月の明け方、行き当り、目線をあげると、そこに家を見たことを。その家は、屋根組と扉、窓枠を形づくる少し塩気のある石灰と材木に身を震わせ慄然としていた。——材木はしかも、この世のものならぬ、旧いもので、大地と空という二つの空虚の境界にあるものだった。通りにはまだ人けがない。通りは空っぽで、家は揺るぎなく立っていた。

だがここに——膨れ上がった一葉がある。うす汚れた水流の底を重い足どりで彷徨っていく。迷いなくずるずると。石にへばりつく。上のほうをさざ波が走ってゆく。戯れながら。ぴしゃっと水が跳ねかかる、細切れのクォーツだ、砂が見えるまで、暗やみで根が冷淡に思われるほどにも洗われて、一瞬の水しぶき、重荷に苦しむ顔、その顔から期限が洗い落とされていく、絵の具を落とすように。他の顔たちの影、一つ、二つ、三つ、そう多くはないうちの一組の、死でもなく、忘却でもないが、なにか他の、対立するようなものの秘められた徴、どういったらいいだろう? 忘却の反対とは? 死の反対とは? ——言わないことにする。またはこんなふうに思われる。わずかに知られることになると。

おまえを飾りたてよう、吃音よ、わたしに既知の、そして未知の装飾で、おまえを飾りつけよう、ことばよ、山地の草はらの瑠璃で、そして地の濃紫いろに染めて。没薬を、芳しい樹脂を、おまえの緘黙に塗りつけよう、いますぐ駆けだしていくために、街のささやかな不具の通りの(悲しげに大気の蛇は漂い、糸が流れていく)、そして保存缶の恐ろしいほどの哄笑の、からからに乾涸びゆく炎熱の領域へと。

出来事の連なりも、葉の一枚も、ことばを持たないこの上なく甘美な底部には存せず、存在するのは、追い立てられ捕えられた、恐怖の酷熱のために、真っ黒の口蓋をぱっくりと開いた雑種犬、逆立った体毛、聴覚を奪いとる哄笑、視覚の正方形と菱形たちを慎重に挽き、断ち切る炎熱。それらのうえで、駈けが、恐慌が、駆り出されたのである。逆立った毛や咆哮、——透明な顔=人称の連なりではなく、保存缶が結び合わされたものが、歯を剥きだす犬の尾につなげられている。

いや、やめておこうじゃないか。いやだ、いやだ、記憶について話すことはやめよう。記憶については、もうあらゆることが言われてしまった。きみたちも認めるだろう。記憶は、あまりに酷い証人、法外に正直な証人なのだ、ということ。嘘が我々を陰で覆うようにすればいい。その本質において、終わりも、果ても知らぬ嘘が。

お、なんて魅惑的なのだ、ことばや時間を惜しみもせず、予告の、まがい物の比喩的用法にしたがってふるまうことは、あたかも、のちに石と化してのしかかるものに信憑性をあたえながらであるよう。この石も、石のままではあるまい、だからこそ私にとっては愛おしいのだ。お、なんて誘惑だ、穏やかな、何も意味しないトーンで、三人称によって話を開陳すること! ——私は、その場には存在しない、何時だってその場にいたことはないのだが——二、四、十人称=顔によって、広げた掌に落ちるひと滴によって、水の外皮に吸収された耳殻によって、——だが私はこうしたものすべてと違っている。私のことが話題にあがっているのではないのだ。誰々と、誰々が、誰々のところで、であって、一方で私は、例えば、ホテルのなかで思いがけず埃をかぶった紙の山をみつけるのかもしれない。乾涸びてびっしりと文字で埋め尽くされている、そこかしこが燃えて灰になっているページの山。——窓へ風が吹き込み、隣部屋の漁業監視官が鼾をかき、夢のなかで泣いていた。それか、もしかしたら、眠りながら鼾をかきしくしくと泣いていたのは、他の誰かかもしれない、それとももしかしたら、ホテルでもなく(ホテルによくノートが置いてあるのは嫌なことだ)、ダーチャだったかも——北の雨が蒔かれてざあざあ音を立てているなか本を読むのに飽き飽きして……屋根裏部屋にあがって、そこで思いがけなく湿ってくっついた紙の束を見つけたのだ、紙にはことばや情報、夢に見たものがびっしりと書き込んであって、そして一連の馬鹿げたこと、試行錯誤が紙面を飾り、隠されているのをじっくりと目で追った。つまり、生を、あるいは生についての我々の蠱惑的な想像を造りあげるところの一連のものすべてを追いかけたのである、——怠惰な思考を放棄し、似通ったときにはじめて追いかけた——眼は飛びたち、何にも邪魔されず、他者の沈思、駈けの、うっとりするほど空虚な跡をなぞる、傍からわかるほど満足した様子で、真実らしくないこと、馬鹿げたこと、皮肉に目を通してゆく、その背後には人間の悪名高いあの無力さというものが隠れている、生きることができなかっただけでなく、話すに値するようなことを何ひとつ見つけられなかった人間の。ほんとうに? 誰がそんなことを言っていたんだ? 隣の部屋の、彼か? 監視と魚の出てくる夢のなかで泣いている、あの男? 雨がぼそぼそと話し、屋根の上でざあざあ鳴っていたのか? 風の稜線が庭に襲いかかったのか?

私は口唇を噛み締めて、煙草をやって、質問と叱責をかわして傍の方へ逃げることになるだろう…… 軽蔑するかのように歯を剥きだして笑うのだ…… そう、ほら歯を剥きだした犬…… 保存缶がぴょこんと跳びあがる、炎熱。そして譫言のよう、熱病でできた青痣のなか、蝋燭のように大気の蛇が立ち上がる。

だからホテルでもないし、どうして気づくことができたのか、ダーチャでもないのだ、私が紙の山に出会ったのは、そして手の下で一連のページを曲げてもしなかったし、原稿を見つけもしなかった。見つけなかったのはなぜかというと、それを探し出す必要がなかったからだ。原稿は、私とともにあった。原稿は、私のものであり、その中に書かれていることの多くは、いつだったか私のものだったものだ…… とにかく、私が何かから逃げることができたということは、とてもありそうなことだ。

すべてのことから、一時に逃げ出したいとおもう。「終わり方を思いつけ!」と私は自分に語りかける。いちばんつまらない、いちばん凡庸なものを。それでぜんぶ片が付く! 「何の終わりなんだろうか?」と、私はその時に自分に問いかける。「終わり」? それはいったい何なんだ?

あたかも私自身の出現のずっと以前に、私の意図の発現のずっと以前に……であるかのように、今後、自分の意志とは関係なく、そのモノ自体として発生し、現れたことについて考え始めた時に、本当のところ、私は額をこするだろうか? たしかに、もし自分ならば、特別熱心にやらずとも、無益にではなく、語りと同程度に心許ない旅路を動いていって、これに際して、私にはどう考えたらいいのかさえわからない先のことを予見するだけだっただろう。その時に、それがばかばかしくも、法に適い、すばらしくさえあったのは、偶然のことだろうか。ある時代の終焉にしたがって、まさにそのものが、その場所での倦むことのない動きの一連の条件になりかわった。勝利を夢みない者がいったいいるものか!

なぜ、「その場所で」なのか?

私たちは出て、戻ってきた。それで戻ってきたときに、昔からあるあらゆるものが破壊しつくされていた。これは、動きの証言ではないだろうか!

いや、たぶん、すべて視覚の鋭敏さにかかっている。他の人には月々が必要で、そうでなければ期間の長さは十分なのだ…… まあ、例えば、叫べ、——軽く、自然に、叫びをあげよ、あたかも驚愕したかのように、——そう、そういう時代は、天恵の園々の大地上に、荒廃した土地を現(うつつ)に見るに十分だ(黒い濃厚な荒廃のワインが注がれ、もっとも古い時代の腐敗のホップの花が、その奇妙な並び方で過去を寸断するだろう)、そして第3のものもある、そこではこの視覚は絶対的なものであり、それらにとっては果実さえ生まれた時から死の胎児を孕んでいる、そして魅了されたようにそれらは眺める、禁じられた深淵のなかで広げられた死の翼を…… 風車群、秋、旅人たちが、喜ばしい蒼みがかった足裏で触って感じている、進みゆく白墨を、水の黄金の焔…… そうしたものどもは天使の陰影なき相貌をしていても影を目にする宿めにある。それらは、神にとっては忌々しい存在なのだ。正確に2本の、なにがしかの線は、交わることなく、動いていく——いま述べたもののために。その時には、時間も——河でも、流れでもなく、蜘蛛の巣となって生え広がり、宇宙の枝を巻きつけながら……(結晶体)。

ここでどんな問いが赤裸に、単純に、私の頭に現れたかというと——どうして、他でなくその時に、この馬鹿げた話をべらべらと話そうという考えが私の頭に浮かんだのだろうか? この話は、惑乱と疲弊(無益な仕事のあとに必ず人を満たすあの打ち勝ちがたい疲弊)以外の何ものも約束してはいないのに。なぜ私は、あらかじめ失敗を宿められていた試みに手を付けたのだったか? 誰かの生き方についての話など書くつもりではなかった。

「失敗」ということばの後では、争う余地なく、私の話を最後まで聞こうと思う人は誰もいないだろう。そうした試みの数は多い! 相当の努力をして検討に値するような話も、我々にかなり伝えられていはする、だがいざ検討をするとなると、なんのことやら、すべてのことに嘔気を催すほどの忌々しさを覚えて唾を吐き棄ててしまうのだ。話し手から我々が期待するのは、「啓示」ではなかったか? 語り手が、空想の戯言やら習慣的なもののごてごてした寄せ集めによって我々を疲れ果てさせるときに、我々が期待しているのは、「啓蒙」ではなかったか? 物語る者を前にして、恭しく鎮座ましましている様は、生徒のようではなかったか?

生徒のように、ひとりじっと座る、30年、100年と。もっと長くてもいいし、短くてもいい。

先生、ぼくに答えて——ぼくは、この窓のところにいたの? 窓はこんなふうに、開け放たれていた? その時(はっきりさせておこう、「その時」とは二年前のことである)も切り子のグラスが窓敷居のところにあったっけ、ちょっと横に傾いて——窓敷居が平らでないからだろう、——そしてグラスの切り子細工になったところに、内側から泡がこびりついていて、水はこころもち斜めになっていた、なぜなら塗装が数え切れないほどの層をなすでこぼこの窓敷居のうえにグラスが乗っていたから——なかば透き通っていて、うす暗く、空気よりくらい。窓ガラスはいち早く、夜の訪れを予感している。

あの時、3、4年前、ぼくは、恋をしていただろうか? お、友だち、きみは恋をしていたか? 黙りこまないで。答えろよ、ってお前に言ってるんだよ。何を黙ってるんだ! うん、違う、そうじゃない——ワインを一杯やりな、そうじゃないと奴は一言も吐き出さないから!

覚えてないんだ。多くのことから考えてみると、その時、なにか列から外に抜け出すことになったらしい。誰が抜けて行ったのか、それは覚えてない。それなら、奴にグラス一杯、ワインを注いでやってくれ、奴が覚えていないなら、冠をかぶせてやってほしい、なんとなれば祭り、オスコフォリアの祭りは長くつづくからだ。結局ぼくは恋をしていた…… おそらくこのせいで、はじめて私は、あるものと他のものを比較する能力を感じとることになったのだ。だが、ここで恋など何の関係がある? わからないな……

それはいつも、前触れなくやってくるものだ。その時までは——誰かが、誰かと、いつか、どこかで:較べることのできない、釣り合いもしない、しかしもう馴れ親しんでしまった幻影たち、影たちであって、幽やかな光が粒だって、数限りない起源、己れのうちに秘めた敵意によって反目するような、これまた起源の続きを敷き詰める、——その時までは、誰かと、いつか、他者との非情に過ぎるシンメトリーのなかにあるのだ。それから突然、すべてがお互いに関連しあい、均衡状態にあるようになる、ちょうど芝地が剥ぎとられ、裏返しにされるように。終わることなき編み物。そうだろう?

ちがう。それに、記憶のことにかかずらうのはやめようじゃないか。私は確信しているんだ、もっとも信頼がおける追憶だって欺瞞なんだということを。昨日あったことは——今日は存在しないことだ。それは、昨日あったのだろうか?

おそらく、この物語(私はいま、この物語を誰かにそっと握らせて、そこからどうなるか見てみたい)が書かれてしまったその時には、紙と、ありとあらゆる注釈を——その価値をも顧みず、些細にすぎる事実を明るみに出し、そして現在時において、その過去を、消失を奪い去るというたった一つの目的をもつ注釈を——書きつけたメモ帳からの紙片の、かなり多量の、雑多な塊が,自分のなかにいっぱいに詰まっていたのだ。このようにして水中に投げこまれた銅貨は、消失してゆく。峻厳な、しかしつるつるの結び目のなかで、赤みがかった、葦を、焼いてしまおう、雪のように白い焔で、すると灰は降りかかるのだ、淀(よど)のところに、そして非-存在の銀のうえを滑っていく。これは、昨日あったことだろうか、それとも今も続いている? あたかも、階段を降りていくかのよう、光の屈折に従っていくかのように、これ以上ないほど透きとおった水の地層のなか、思い浮かべることができるなかでいちばん透明な暗やみのなかへ、掌から零れ落ち、彼女は暗やみへと滑り去ってゆく。私が話しているのは、紙の塊に書かれた注釈のことだ。なぜならその注釈は、私にとってはあの芝地だと思われるからだ、はじめその単調さ、モノトーンさによって連関性が揺らぎ——その力が一瞬にして、心から相似性という覆いを剥がす。なぜ「唖者」について触れないんだ? だって注釈は、おまえではなく、ただ彼ひとりのものなのに!

私は、まさか記憶について話しているのではないだろうな? いやいや、違う、もちろん、違う! 均衡について話している。その時に思い出すのは、冷静沈着が発揮されているときでさえ、気持ちが波立っていらいらし、それが私を嫌な気持ちにさせたということだ。とはいえ……なにより、怠惰さ、それだけ。

それから、あの窓。雨がぽつぽつと降っている、たぶん、あの時のように、私が戻ってくるまで。雨と雨の違いを推し量るな。だが「昨日存在したものは、今日存在しない」ということをどうして私が話してやらないか、だって? どうでもいいことだろう!

それから、窓敷居のあのグラス。生命を失った一昨日の、昨年の水に満たされて、横に傾いている。そして大事なことは、その時私は、きっとグラスについても考えていたし、雨についても、窓についても考えていたし、他のことについても考えを巡らせていたのだろう。考えて、見つめていた、ちょうどこんなふうに——「窓は、」と私は考えた、「いつも通りだ」。雨は、永遠性そのものだ、すばやく流れゆく秋の風景の厳めしい壁面やその糸のなかに見え隠れする顔たちに注意を払わないならば、迫る夕刻、盲目の案内人である夕刻について考えることがなければ、季節について——どうしても定められた順序に従って順繰りにめぐろうとしないくせに、とても考えられないようなしかたでお互いに結び合わされている季節たちについて——考えをめぐらすことがなければ——秋は、秋のあとにやってきて(秋は我々に何を運んできてくれるのか?)、そのあとにはまたもうひとつ秋が始まり、それから突然、長いこと、永遠に、燃えあがるのは、夏だ、時おり雪やら、枕元に笑いをもたらす眠りやら、ただよう灰やらに中絶されながら……河岸は音もなく蒼白い炎からこぼれ落ちる、そして魚たちは暗黒の叫びを叫ぶ、雲たちの乾涸びた根のなかで疲れ果て、岸へと身を投げてゆく、そのとき頭上に、赤熱した酷暑の小っぽけな雲が、色褪せた水銀のように、重々しく群青へと突き進んでゆく。

揺るぎないのは、反映と物体のなかに存する世界——ほら、あれだ、眠りのシンメトリー、——打ち勝ちがたいのは、どうしようもなく固着した視覚の空間、——この空間がどれほどしばしば弱まっていくことか——3つ、5つ、10つの色鮮やかな斑点への固着だ——まだ生まれる前から、ぴかぴかの盲いた霧のなか斑点がちかちかしていた——2つの、3つの反響のほうへ——行け、進め、行けよ、行けったら!——その組み合わせを、それから、徒らに、聴覚でもって、お前は捕えてやりたいんだろう、ことばの宇宙のなかで、そこでは一つひとつのことばがからかい、曳き去ってゆき——岸のほうへ近づこうなんて考えるんじゃないぞ、わかったな?——誘い、手招きする、前触れなくがらんどうの穴でおまえを見つめるために。「もう晩になる」と私は言う、褐色格子柄のテーブルクロス、恭順な紙片のばらばらに散ったページたち——四方に目を配るこの世ならぬ力が、おまえを護ってくれますよう、——慣用表現の傲慢さを免れようという絶望的な試みが目いっぱい書き込まれ、愛だか倦怠だかが書き込まれていたページたち。過去に、未来に、我々は関係があるだろうか! 遠くへ、辺境へ……。

だが私はこんなふうに話してはいなかった。思うに、ことばは異なる順序でつづいてゆき、そして世界は異論なくことばたちの後に続いていった、沈黙の後にではなく、続いていったのだった、ほんの微細な瞬間の一部分に乗り遅れて——どんなに私はこのことばを愛していることか! 私は、このことばをソーニャの、縁遠い私の妹の、手首に彫りこんだのだ。ソーニャについて、たぶん、お話しすることになるかもしれない、もし必要だと思ったらの話だが。そして自分の手首に、私はこのことばを彫ったのだ。「瞬間(むぐなゔぇにえ)」と。それが意味していたことは..........................................................

このことばでもって——こう言うこともできる——定義づけれらるものが、私の生の全体なのだ、と。多くの人の生が、このことばで定義づけられる。別の機会には、「永遠(ゔぇちなすち)」と発声されたが、だがおそらく、まったく同じ瞬間のことを意味していたのだろう。これが継続する時間はどのくらいのものか? どんな見た目なのか? 生命を与えるようなものなのか? それとも疫病に擬えたほうが正当なのか?

すべては、推測の領域にあるのだ、と私は考えた、この話に似つかわしい、あらゆる関係において納得いくような終わり方を索めながら。気高さが勝ち誇り、悪が、隠匿されたものが、明らかなものが、裁きに身を任せているときに。何時、いつ、のときに。推測の領域で、私は沈思していた、そこにおいてこうした推測の具現された徴を私から奪っていった物語を語り終えながら。ほんとうに、でこぼこの氷の下にある写真のようだ、——我々の鼻梁を凝っと睨みつけてくるひとの貌は。眼は色褪せた、写真は色褪せた、庭も散ってしまい、鳥たちも咲き終わってしまった。そこで私は留まろうとおもうのだ。まさにそこで、何らかの相によって私が関係を有している物語そのものが始まるのだから——我々はみな、アルカディヤで生を享けたのだ。

人が、我々の鼻梁を見つめている。見るな、人間よ、鼻梁など。

ひと知れず、がらくたのようなものの中から浮上してくる、ことば「隊長(ぽるこゔにく)」、不安定なイメージの一群を率いている、その一つひとつが完くそれぞれの偉容を示す。まるで美術館にいるよう、そこは神経症的ごたごた騒ぎのなかで厭-厭、そしてモノの、ひとの、見知った貌が明瞭に現れてくるであろう場所、鋼鉄の針の肉体のなかへ侵入しつつ。

時おり明け方に、心臓が痛むことが、私にはある。煙草をよく喫う。明らかに、年を重ねるごとに喫う量は増えている。パイプを吸うのだが、煙草が見当たらない。だから自分なりに煙草を考え出してみたのである。にもかかわらず、必要があれば、この煙草を煙草屋で購うことができる。君は、近寄って、肘で寄りかかった格好で、おしゃべりをするだろう。ああだこうだ、あそこじゃどうした、つまりいま現在世界で何か起きているのかということ、それから静かに話をするのだ……人々は御しやすく、飲み込みが早い、めったにないほど。ほんとうに、こめかみのところで指をぐるぐるしているような頭のおかしい人たちに出会うことは、——そうだ、なにしろよくあることではない、例外なくあらゆる人が君を理解してくれるほどには。見えない針。それは素敵だ。冷えている、まったく氷のようになって、完全に冷たくなる、針は死んでゆく、光沢が失われて、存在しなくなる。息をしろ。日暮れ時、太陽の手で破壊されて、空、だれか。

(了)

Аркадий Драгомощенко: из романа "Расположение среди домах и деревьях" (1978)

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