20230517

自分は日記を溜めがちな分ちゃんと腰を据えて書くことが多いけど、今回は移動時間を使ってちゃちゃっと書いてみる。

他人の手がけた芸術作品などを鑑賞する時に、周囲や世間の評価とは関係なく自分なりの感想を持つべきだという考え方が世に広くあると思うけど、自分はこれについて盲信しすぎていたかもしれないという話。そりゃ人間が全員周りの顔色を伺って同じ札しか上げなくなっちゃった時にはつまらないどころの騒ぎではなく、多様性ひいては人間の尊厳が脅かされる問題だし、実際そうなったら世の中おしまいだと思う。

でも例えば、例えが適切じゃないかもしれないけど例えば、知らないお菓子を食べた時にフレーバーが何なのかいまいちピンとこず、パッケージの「◯◯味」という表記を見てようやく「ああ◯◯の味する!美味しいじゃん」ってなることだってあると思う。

この「言われてみれば◯◯」から「美味しい」が出てくるまでの間にちゃんと自分の味覚や脳みそを通っていれば、その「美味しい」にはちゃんと価値があるし、そうでないなら価値がない。そういうことなんじゃないかなあと思う。

そうなると、芸術作品につけられたキャプションや世に溢れている注釈といった部分に対して、最近の自分はそんなに価値を感じられなくて見向きもしないことがとても多かったんだけど、実はそれってそんなに拒絶すべきものでもないんじゃないかなって最近思ったり、ちょっと考えを改めてみようと思う。

そういう意味では、好きなモノについて踏み込んだ話ができる、信頼に足る人間やコミュニティを見つけるのって難しいけどやっぱ大切。かといって「お前もこれ当然聴いたよね?」とかはしんどいけど。そこもむずい。結局は孤独と馴れ合いのバランス。

何より、人の手が加わった芸術作品や創作物にちゃんと向き合うことって、きっと本来みんなが思っているよりもはるかに大変だよね。時間もエネルギーもたくさん使うし、ちゃんとできてる人なんて一握りなのかもね。自分はどうなんだろうか。いざ自分がおじさんになってきて、仕事などが忙しくなり時間も体力も減ってくると、いわゆるファストフード的娯楽やベッドサイドミュージックが流行る理由がとてもよくわかる。

今回は近況報告とかではなく、なんとなく思ったことがあったから書いた。ちっちゃいことだけどこういうことをちゃんと考えながら生きることって大事なんじゃないかと思う。

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