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目には見えない?

大いなる意識には全て揃っているから、
目に見えなくても、あるよ。

大抵の人はここで、

頭がおかしいと思うか、
それでも目に見えない自分が未熟だと思うか・・

思考の中で、様々な反応が起こると思います。

今、ここでは見えないのでピンとこない。
だって、ここには無いよ?

そう思えて当然だと思います。

なので今回は、ちょっとここを掘り進めてみると、

これは、→大いなる意識を主体としてみているか。
→現象を体感している方の自我を主体とみているか。

この違いで、変わって見えてくることです。

時を介さない意識を主体として世界が見られていれば、
スケールはすごく大きいですが、
宇宙が始まった時点でもう全ては存在し終了しています。

当然すべてはここにあるので、歴史のなかの旅行も自由自在。
この時点で形として見えていないことも、(目には見えていないだけで)
そこに存在していることが分かります。

一方、時そのものである自我(思考)から世界が見られていれば、
物質的なものが作られていくためには過程が外せないので、
今は無い(形になる前の段階)ことを、ここで認められます。

この違い、わかりますでしょうか。

私たちはこの2番目に書いた現象を体感する自我を主体として
世界を見ていることが多いので、

どんなに探しても見えないから無い。というリアクションも
当たり前のことで、これはこれとしてそうゆう物ですが、

ここで見えていない物を=無い。と自我が認識していれば、
その枠内を超えることなくそのまま反映されるので、

あるのにない。という状況が起こります。

つまり、意識がどんなに無限で自由な存在であっても、

この世界を体感する自我の固定された考えによって
世界の見え方は、全く違うものになる。ということです。

そしてもう一つわかっておきたいのは、

今は確かに目に見えていない。ということです。

ですがここがこの世界の面白いところで、

今は確かに見えていないとしても、

探すという行為が起こること自体が、
無いことを認めている状態なので、

無い状況を再度選び直してしまう。と思うと分かりやすいです。

今目の前に起きている事の全ては、
時間を介さない意識からの贈り物なので

時間を追って体感している自我には、
これが順を追って認識されます。

つまり、常に時差があるということ。

意識からの贈り物の中に
自我が目星の物を探しても(たまたま重なることもありますが)
その時には無いことが多いので、今、無いとする。

そして、今無い状況を観ているので、
(順を追った地点に)意識が目星のものを贈っていたとしても、
見えないという選択をする。というループに入ります。

つまりは、いつも書いている事に戻ってしまうのですが、

もう全てが本体の方にはあるんで、自我は安心してただ待つだけ。

待つ、という行為すらも少し圧になってしまうので

ただ何もしないだけ。

忘れた方がむしろ良いのかもしれないです。

その位、時間を追って一番良いタイミングで順に見えてくる。
っていうのがありのままを受け取るポイントです。

手元にしかズームできない自我は全体像を見渡せませんが
今はまだただの点線にしか見えないものも、
全体では完璧な絵柄になっているということなので

最近私が思っていることは、

このことを、知って、後は信じること。

これは本体の自分を信じるでも、好きな誰かや好きなことを信じるでも、
対象はきっと何でも大丈夫です。

なんかしらを全力で信じることができるのであれば、

それは自分自身の反映でもあるので、
自分を信じているのと同じ力となります。

そして世界は必ず変わっていきます。🌟

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