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10年後の手紙、届きますように。

僕は今新幹線の中でこの記事を書いている。
かがやき518号、20:41富山発ー東京行。

今日という日を迎えられた事、今日のうちに書いておいた方がいい気がした。


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まずは、先週から始まった富山大和百貨店での催事出店にご来店くださった皆様、本当にありがとうございました。

たくさんの方が来てくれました。保育所、小学校、中学校の恩師、いろいろな場所でお世話になった方々、同級生、テレビで見て来てくれたお客さん、元々のポムダムールのファンの皆様。

この催事に同行した従業員(大阪店代表)は目の前に次々と広がる光景を

【池田さんの結婚式でもお葬式でもない、何か】

と表現した。とてもいい表現です。


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この百貨店に出店することは、このお店を作ってからできた様々な夢の中の【最後の夢】でした。
今日(1/28)はその夢の最終日でした。(次の夢を考えなくちゃ!)

夢を初心でお披露目したく、全ての商品価格を開業当初に揃えて販売していました。(僕が商品価値を自ら値下げするのは異例です)
なんで最初に言わなかったのかって、最初に言うと意味変わっちゃう気がして。
お得感で売りたいわけじゃないので。

この値下げのおかげで会社としては50万円ほど損(ではないけど)してるので、そこはポケットマネーで時間をかけて相殺します。これは最初から決めていたことです。

僕は基本的に仕事のための宣伝もしなければ営業もしません。
ここ富山大和に関しては特に。
なぜか、それはここ、富山大和には実力だけで辿り着きたかったからです。
7年かかりました。


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僕はこの仕事は向いていません。
僕は接客に向いていないんです。
開業当初、最初はよかった。が、すぐに、普遍的な、より常識的な店舗の創造を世界(社会性という意味では内側も含む)から求められるようになりました。
お店を作って1年ちょいだけでした。自由だったのは。
それからこの仕事の全ては僕にとって【病的に苦手なもの】でした(過去形)。

自分にとって苦手なものでしかない道だったがこれなら【届く】と信じた。
このチャンスを逃したら僕は一生辿り着けないと思った。

どこに?富山大和に?

それは正解の一部ですが全てではありません。
ここで、僕のおばあちゃんの話をします。





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ばあちゃんがこの世を去ったのは2011年。
早朝、母からの電話で目覚め、この電車に乗って富山に向かった日のことを今でも覚えてる。
僕はばあちゃんの死に目に会えなかった。
別に忙しかったわけじゃない、どうにでもなるフリーターだった。
単純な話、だらしがなく、無責任だっただけだ。

小学生の頃はばあちゃんの部屋によく行って遊んだ記憶がある。
不思議な形状の健康器具にぶら下がってみたり、ばあちゃんの好きだったフライビーンズの殻を並べてみたり、テレビボードのガラスに格子状に貼ってあるセロテープを指でなぞってみたり。

ばあちゃんの部屋には大和百貨店の紙袋が大切にしまってあった。
ばあちゃんの中では特別な百貨店だったのだろう。ただの見栄だったのかもしれないけど。

うちは裕福とは言えず、百貨店とは無縁も無縁、僕は立ち入ったことがなかった。だからこそ余計に、大切にしてある大和の紙袋が宝物のように見えた。
(これが僕がポムダムールの紙袋を何度でも使えるように丈夫に作った理由)

僕が生まれた時には既にじいちゃんはいなかった。
今思えば、大和にはじいちゃんとの何か思い出があったのかもしれない。
どちらにしても、幼い僕にとって【百貨店】とは、全ての夢を叶えられる魔法のかかったような場所という認識だった。
だって、ばあちゃんが大和の紙袋をこんなに大切にしまってるんだから。
(これが僕が百貨店を選び、依頼を受け続け出店する理由)


けど僕は中学生になった頃にはばあちゃんを避けるようになっていた。
小学生の後期で上市町に引っ越した精神的不安もトリガーになっていた気がする。
今思えば甘えからの退行、理由のない嫌悪だ。

ばあちゃんは新聞を読む人だった。一通り読み終えると、学校から帰ってきた僕に
「たかちゃん、新聞みる?」
と手渡してきた。僕は新聞のテレビ欄を見るのが好きだったから。
僕はそれを無言で受け取るだけ。それだけ。それだけの数年間。
そして僕は大学進学のため上京した。

今思えば、ばあちゃんに寂しい思いをさせた。
長く住んでいた場所を引っ越して心が不安定だったのはばあちゃんだって一緒だ。そんななか玉のように可愛がった身内からの拒絶を目の当たりにしたんだ。寂しいに決まってる。


そこから月日が経ち、2011年、3月。
世の中が震災で混乱していた時だ。
ばあちゃんが緊急入院した。

僕はアルバイトしていた職場に休み連絡をして急いで帰った。
当時の僕はだらしがなく、なにをしても続かず、それでも【なんとかなる】などと根拠のない自信を持つ、典型的なダメな奴だった。
おい俺よ、なんとかなる…?誰がなんとかするの?自身の傲慢さを、愚かさを、惨めさを早々に受け入れなさい。


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病室に到着するとばあちゃんがベッドに横になって窓の外を見ていた。
雪が降っていた。
僕も昔から窓の外を見るのが好きだ。何を見ているのかな?と一緒に見ていた。

緊急入院を心配して駆けつけた、ということにするとばあちゃんを逆に心配させると思ったので(私ってそんなにひどいのか…という不安を助長させてしまうことへの心配)、卒業証書を見せにきたということにした。

ばあちゃんは僕の大学卒業証書を見てとても嬉しそうにしてくれた。
そういうの大好きな人だった。
まあ、卒業するのに5年かかったんだけどね。

ばあちゃんは僕の将来を心配していた。体のことも心配していた。

「たかちゃん、からだ大事にして、がんばられ」
「うん。ばあちゃんも元気でおられ。また会いにくるちゃ。」

それが最後の会話だ。

病室を出る時、そのまま扉を閉めればいいのに、僕は振り返ってばあちゃんを見てしまった。
ばあちゃんは小さい背中を丸め、窓の外に降る雪を見ていた。
これが僕との最後になるとわかっていた。
そして、僕も、わかっていた。


その後しばらく入院が続いたが、ばあちゃんの最後の2週間は病室ではなく家で過ごしたらしい。
らしい、というのは、僕はそこにはいない。
そこにいたのはばあちゃんと、両親と妹だ。あとハッピー(犬)
今思えば、帰ればよかった。
なぜ帰らなかったんだ。

3月に緊急入院と聞いて駆けつけた時、思ったより元気だった。
もっとクダとか繋がれて喋れない状態かと思っていたから拍子抜けした。
何もかもが無責任でだらしがない、自信だけあって、将来の不安を誤魔化していた当時の僕は、その時、「拍子抜け」した。
僕だって東京で忙しいんだからね、と思ってしまった。
だから最後の2週間にフラれたんだ。忙しいんだからさ。

息を引き取るその瞬間、病室にいなかった親族は僕だけだ。
なにやってんだか。
早朝、母からの着信で目が覚めた。出る前に察した。病室からだ。

「たかとし、ばあちゃん…、もうだめだよ。」
「うん、わかったよ、帰るよ」
「帰ってこれる?帰られる?」
「すぐにいくよ、すぐに。今すぐにいくよ」
「ばあちゃん!たかとし帰ってくるって!よかったねぇ!帰ってくるって!」

その言葉が届いたかどうかは知らないが、その直後、息を引き取った。

帰って当然だ。けど、本当に、…、僕は親不孝者だ。


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話の時間を催事最終日の今日に戻す。
開店前にりんご飴を仕込み製造している時にフワッと頭の中にメロディが浮かんできた。
知ってるメロディだ。
なんだっけなぁ、なんだっけなぁ、これ。

ラーラーラーラー、ラーラーラー…
ララーララー…

あ、わかった…。

その時耳から入ってくるすべての音にリヴァーブがかかり見える景色すべてがスローになった。
このメロディを思い出した。


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あの日、母からの電話を受け実家に戻る新幹線の中でリピートして聞いていた曲だ。
そうだ。あの日、この曲を聞いて帰ってきたんだ。
どうして今思い出すんだろう。



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1週間前の今日、テレビ取材を受けた。

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新聞にも載った。
ラジオで紹介もされた。


全ての交通と物流が麻痺するほどの記録的な大雪が奇跡的に止んだ。
東北自動車道下り線の大事故で青森からの物流が遮断された。が、りんごは届いた。間に合った。

届け、届け、届け、と自分の苦手なものを全て潰してここまで走ってきた。
今では多少は胸を張れるようになった。

昔僕を助けてくれた人が教えてくれた。
「変わりたいと思っている時は変われない。忘れた頃に後ろを振り返って、変われている自分に気付けるんだよ」
ここにたどり着くまで、7年間。僕は変われた。
今では自分のことが大好きだし、そういう僕を好いてくれる人もたくさんいる。
あれほどまで叶えたいと願ったこの夢の1週間。
この1週間で僕は何か変わっただろうか。何かを得ただろうか。


あの日振り返った病室。窓の内側に飛び込んで、ベッドの上に座る小さい背中に抱きつけばよかった。
あの日ケチった20秒を取り戻すのに10年もかかってしまった。
けどこの10年は無駄ではなかった。ばあちゃんからのメッセージが今わかったような気がする。

ばあちゃんが大和に来たら、孫の喜ぶ顔を想像しながらこのりんご飴を買っただろうか。
食卓でそれを囲んでみんなで食べただろうか。
そしたらこのりんご飴に感動しただろうか。
起こり得なかった過去を心の中に描く。

きっと今日もどこかの食卓で僕の心の中にある景色が現実になっているかもしれない。
僕は売り切れは絶対に出さない。売り切れは絶対に、出さない。

今生きている人に何をするか、失った過去をどう生きるか。
今、そばにいる大切な人、もの、ことを強く抱きしめるべきだ。

















親愛なるばあちゃんへ

今日、富山大和での仕事が終わったよ。
家に寄ろうかとも思ったんだけど、明日からまた頑張りたいからすぐに戻ることにしたんだ。
今は新幹線の中、そろそろ東京に着く。

テレビに二つも出たよ。新聞も、ラジオも。
土曜日なんてりんご飴を998個も販売したんだ。
みんな喜んで受け取ってくれたよ。
999個目は1日お世話になった大和のレジさんにあげて、1000個目は従業員と一緒に食べたよ。
本当はすごく悔しかったんだけど、いいんだ。
でも、あとで気づいたんだけど、この日に大和にこられなかった人から注文が入ってて、それ合わせたら1002個だった。ちょっとセコいけど、ちゃんと1000個。ばあちゃんも喜んでくれるといいけど。

ばあちゃんの葬式のあと、僕がばあちゃんの部屋片付けてたんだけど、ちょっとだけ見えちゃんたんだ。落としちゃって、その弾みでね。
心配かけてごめんなさい。でもね、もう気にしないで。大好きだよ。

伝えるのに10年もかかってしまった。
心配かけました。もう大丈夫。きっとね。

じゃあ、またね。

2021年1月28日(今の年号は令和っていうんだよ)
喬俊

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