紙がつけた傷の、時間をかけた肯定

僕は、紙の本が好きだ。

電子書籍の良いところを挙げれば、それはキリがない。10人に9人は、ひょっとしたら、電子書籍を選ぶかもしれない。だから、紙の本はもうほとんど、フィルムカメラみたいなものかもしれず、一部のマニアックな趣味になりつつあるのかもしれない。メジャーな趣味ではなく、教養にすらなれない。

反対に、紙の本の擁護をしようと思っても、それはいくらでも挙げられるだろう。電子書籍の良いところと全く同じ数の主張を挙げられる。なぜなら、電子書籍の良いところの反対こそ、紙の本の可能性だからだ。持ち運びが便利で、見やすくて、どこでもダウンロードできる、の反対。持ち運びに手間がかかり、見づらくて、書店で買うか、Amazonで買って届けてもらうしかない。そのどれもが、僕は愛おしいと思う。

テーマは「手間」

時間を費やすこと。つまり、人生の一部をそのものにかける。

じゃあ反対になぜ、人は時間をそんなに惜しむのか、といつも思う。便利な方がいい、すぐ済んだ方がいい、というのは思考停止。

何故?何故、便利で快適、美味くて安くて早いがいいのか?

みんなが言ってるから、と言いだしたら、それこそ考えるべき対象だ。社会学や哲学の格好の餌食。みんなとは、誰か。どんな集合か。

僕は、人間と何か、人間と人間の関係は、例えば、時間を架け橋にできていると感じる。人と過ごした時間、あるモノと対峙した時間が、僕という人間に、一生癒えない傷を作ってくれる。その傷こそ、その人、そのものを作っている。すぐに癒える浅い傷ではない。深く抉るような傷。それは全く偶然にできた傷かもしれない。転んだ拍子に、刺さった深い傷。何かを失敗してできた傷である必要は、ない。

傷は、癒えない。僕にはそんな傷があるのか、それを治らない、と認めてからが、外に目を向ける始まりなのかもしれない。

そんな傷は、他人から見れば、恐ろしいほどに、どうでもいいかもしれない。あるいは、いつか共感してくれる人に出会えるかもしれない。

人はみんな傷をどこかにつけている。傷つきたくない、という関係は、人生に、その人自身になんの影響も与えてくれない。傷つくことは一見、自分を否定するものに思えるかもしれないが、長期的に、理性的に、人間的に、あなた的に、肯定するものだ。

その傷を、人に診てもらうことは、時に、とても大切なことだから、傷を見せ合える人、一緒に傷をつけ、落ち込まないように癒してくれる人、モノこそ、僕は大切なことだと思っている。

意味があることでも、役に立つことでもない、いくつかの、大切なこと。

傷を受け入れるには、時間が必要だ。一回ではなく、繰り返し繰り返し、反復する。そうやって落ち着いていく。

時間をかける、ということは、同じことを繰り返すことだ。傷つくことをし、時間をかけて、受け入れる。

だから、僕は時間をかける。時間をかけて受け入れた傷こそ、愛おしいものなのだと思う。

とても分厚く重なった、茶色い紙の側面に、読めない字で、恐らく名前のようなものが書かれている。何故かはわからなくても、名前だとわかる。傷だらけの表紙をめくると、変色しつつある紙は少し酸っぱい匂いしていて、どこか暖かい。ペラペラとなる音が、確かに紙から出ているのを不思議に思った。それは無記名の電子配列ではなく、数十年同じ形であり続けた、確かに紙の本だった。

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