「勉強なんてなんの役に立つの?」

僕は教育学者でもなければ、教師でもない。大学時代に塾講師のアルバイトを少ししていただけの、ただの会社員だ。しかし、あまりできの良くない中学生たちを、教えていたという経験と、とある尊敬する社会学者の本を読んで感じたこと、何が大事なのかを少し話してみたい。

タイトルは、僕が実際に中学生の男の子に必ず言われていたことであり、僕自身がずっと思ってきたことだ。その質問の真意は、僕の中でだんだんと変容してきて、適切な答えを、理屈として説明することは、ある程度できるように思う。しかし、敢えて僕はその回答をしようとは思っていない。なぜなら、

それが本当に、子どもに響くだろうか?

と思うからである。

ある程度大人を納得させられるだけの理屈は、結局「大人の」理屈であって、これっぽちも彼らの、子どもの理屈ではない。本当に彼らが期待していることは、質問の理屈的な回答なんかではなくて、その質問をすることで、大人たちが答えに困ることを期待しているのだ。

そうして、答えに窮する大人たちは、しゅんとするか、苛立って、自分でもわけのわからない理屈を子どもの前で堂々とこねる。勉強はしてほしい。けれども、勉強してくれない。

大人だって、理屈で動くだろうか。例えば、僕らは、仕事に期限のために仕事するだろうし、手続きも行う。それは、将来、家族を養っていくためでも、自分の老後のためでも、ある。収入がないことの恐怖が想像つくから、仕事を一生懸命やろうと思う。しかし、子どもたちは、1年後の自分の姿も想像できない。大きくなる身体と、わけのわからない葛藤が芽生え始める自分の心で、今が精いっぱい。加えて、目の前にスマホがあった日には、手に届く範囲の楽しさに打ち勝って、自分の5年後10年後の自分のために、机に向かうだろうか。

例えば、僕が教えていた中学生たちは、テスト二週間の計画を立てるように学校に言われ、計画を立てるが、驚くほど全く思い通りに進まない。僕自身もそうだった記憶はあるが、特にどこでもできてしまうスマホの楽しさには勝てない。そんな、二週間先の、提出物に追われている姿をこれっぽちも予想できない彼らが、数年先の未来のために勉強できるだろうか。

じゃあ、この先、勉強をしなかったために、待ち受ける人生の困難をこれでもかと語り、目の前として危機感を覚えるくらい、勉強で挫折した経験を子どもに語ればいい、のだろうか。不安による動機づけ。

それも僕は一つの手だと思うけれど、しかし、子どもが勉強に向かう姿勢が、ああならないために、とか死なないために、不幸にならないために、という理由で、机に向かうことが、果たして理想的かといわれれば、できれば、そうなってほしくない。

もっと、前向きな理由で、勉強に向き合える方法があるはずだ。しかし、それは一朝一夕にできる話でもなければ、明日から始めても、もう遅いのかもしれない。サプリメントのように数週間で変わる物でもない。が、その一つの方法は、

親が勉強する、その姿を見せることだ。

何故か。考えてみてほしい。子どもの立場になって。夕食を食べた後、あなたは、テレビを見ている。あるいは、スマホを傾けて、最近ハマっているドラマをネットフリックスで見るか、アプリゲームで遊んでいるかもしれない。最近の母の行動を当然、子どもはしっかり知っているだろう。

甲高い笑い声がリビングまで響いてきて、「もう」と思いながら、あなたは、子どもの部屋へやってくる。子どもはあなたの足音に気づくが、やめる気配もない。音を立ててドアを開け、部屋に入れば、スマホを傾けてユーチューバーの動画で爆笑している息子が、だらしなくベッドの上で転がっている。あなたはしびれを切らして、あの「勉強しなさい」をいうことだろう。明後日テストでしょう、ともいうかもしれない。しかし、彼は、少しの焦りを感じるかもしれないが、あなたの、怒りというよりは、あきれの混じった、暗い瞳に慣れきっている。一瞥すると、また目の前に焦点を合わせた。その一瞬に、彼の脳裏には、あなたがリビングくつろいでいる背中がよぎっていたはずだ。

子どもの心から「なんで、お母さんが遊んでるのに」という声が聞こえてきそうだ。そこで、「なんで勉強しなくちゃならないんだ」と言われて、納得させられる言葉を言い返せるだろうか。そもそも、あなたは何のために子どもに勉強させたいのだろうか。本当に彼のためを思っているのか。周りからの目のために、自分への視線のために子どもを利用していないか…

…というストーリーを描いたのは、責めたいわけではなく、子どもが勉強に前向きになるには、理屈や言葉では解決できないこと、もう一つの大事なことを言いたい。

それは「姿勢」だと思う。あなたが何かに真剣に取り組んでいる様子を子どもは、言葉や理屈ではなく、感じ取る。もちろんあなたが楽しそうにゲームをしていれば、子どもはゲームに夢中になるだろうし、あなたが本を読んで何かを勉強していれば、子どもも本を読みたくなる。そういうものだと思う。

僕が塾のアルバイトをしているとき、自習室で本を読んでいたり、勉強していたりすると、彼らはすっと寄ってきて、一緒に勉強したり、興味を示してくれる。問題を一緒に考えてあげれば、自分も一緒に考えてみようとする。そこにあるのは、一方的な押し付けではなくて、一緒にやることの温かさ。

子どもは、言葉以上に、お父さんやお母さんの雰囲気や背中、匂い、そして、目を見ている。というより、小さい彼らに、言葉や理屈はまだほど遠いく、そして、理屈はほとんど響かない。実感が伴わない言葉は、うっすぺらい。まだ感情が中心の彼らを突き動かすのは、実感のない言葉ではなく、一番近くの体温だ。あなたが何かに夢中になっている温度が、家にいる子どもには、ものすごく伝わっている。部屋が別々だったり、遠かったりするとそれも伝わりにくいのはそういうことだと思う。

自分がやっていて初めて、子どもに話したとき、言葉の重みが違ってくる。

あなたがするべきことは、子どもにしてほしい勉強や何かを、集中して取り組んでいる姿を見せること。温度を伝えることだ。言葉はそのあとに初めて必要になってくるものだと、僕は思う。

質問には二種類ある。本当に回答を求めている質問と、端から回答に期待していない質問。表題の質問は後者であることがほとんどだ。前者のように、この質問の回答を、本当にあなたから聞きたい、と子どもが思うようになった時、それは何を言っても子どもは真摯に受け止めるだろう。そのために何か考えておくことも、必要なことだが、まず最初に、明日から志すべきことは、あなたが子どもにしてほしいことを、自分がして見せること。

子どもが人を真似する能力は、大人とは桁違いだ。

ぜひ、実行するより前に、その考えを受け止めて、そのうえで、自分が何をしていこうかを、考えてほしいと思う。

結び。

時計の秒針がカチカチとなっている音に気づいて、読んでいたハードカバーの本から視線を上げると、短針が10時を回ったところだった。夫は隣で同じく本に集中していた。彼は、息子のテストの出来が良かったらしいことを聞いて、少し上機嫌になっていた。私は、トイレにいくついでに、静かな部屋へ、ばれないように足音を殺して、廊下をわたる。突き当りの部屋を覗くと、今日テストを終えたばかりの息子が机に向かっていた。「何をしてるの?」と小声で聞いても、返事がないので近寄っていくと、彼は本を読んでいる途中で、眠ってしまったようだった。起こさないように見たその本の表紙は、シンプルなデザインで勉強の哲学と書かれていた。それは、夫と私が読んで、書斎の本棚において置いたものだった。彼は書斎に入って、よく本を抜いては読んでいる。中学生になった今、自分なりに勉強することとは何なのか、改めて考えているのだろう。

週末にまた、本を買ってこようと思う。

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